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【映画読書感想】幼少期の友人は死体と同然

正直映画の方はガッチリハマったという感じはしていないのですが、原作が良すぎて感想を書かざる得ない状況です。
『スタンド・バイ・ミー』は誰もが知る有名作品。

原作はスティーブン・キング。
ホラーのイメージが強い方、安心なさって。この物語は青春物ですから。

皆さんはどちらに行かれますか?
もちろんメイン州ですよね。
さて、ではでは、私なり解釈を含めた『スタンド・バイ・ミー』の世界へようこそ。
そこに広がるは夢と希望の溢れた残酷な世界です。

と、らしくないことをして開幕といたしましたが何から書くべきか。
今回の記事の題名から触れましょうか。

「幼少期の友人は死体と同然」

ここ最近の記事の中でかなり気に入っている題ですが、これは物語の中では、本当に物理的に死体になっていますが、その展開がある種の表象だと捉えれば面白いのでは、が出発点です。
というか、読了後真っ先に浮かんだ小学生の時の友人を思うと彼らは死体だとしか言えないような気がしました。
ただ、ここは時代の違い、今ではLINE等を使えば懐かしいあいつらに会えるわけですが。

小学生の時、あんなに仲が良く一生の友達でいるんだろうなとかなり楽観的とも言える認識が、そんなことないと否定できる大人になってしまった今、もう卒業アルバムでしかお目にかかれないあの子たちの写真は遺影と何ら変わりない。
最低限、私にはそう思えるのです。
正直インスタで彼らと繋がりたいとも思わないのでそういった感覚になるのかもしれませんが、それでもインスタというアプリを通してしか会えない彼らは死人のように思い出補正がかかっているように感じてならないのです。

今の彼らを想像できない、という感覚を味わったことは誰しもがあるのでは、と思いますが、まさしくその感覚こそ彼らを「死人」と同等に感じていると言っても過言ではないと私は思います。
ここで1つ、本文から興味深い引用。

友人というものは、レストランの皿洗いと同じく、ひとりの人間の一生に入りこんできたり、出ていったりする。

「スタンド・バイ・ミー」

続いては、登場人物について語っていこうかしら。
これについては以前の記事にも少し触れています。

『スタンド・バイ・ミー』のチャプターで書いていました。

この時はゴーディ、クリスとバーン、テディの対比をしていますね。
ここでは、ひとりひとりについて。

まずは語り手でもあるゴーディ。
彼は作家としてこの物語を描いている張本人。
メインで話されている幼少期の時点では、兄が亡くなっており、両親からは気にかけられていない子。
ともに死体を探しにいった仲間の中では裕福な方で「マトモ」な生活を送っている。
子どもの頃から物語を作っている「優等生」な彼はカレッジコースへ進む予定ではあるが、他の仲間と一緒にいたい気持ちや両親に思うこともあり、不良の道へ向かおうか悩んでいる、年相応で未熟で自己肯定感が低い。

次にクリス。
飲んだくれの父親とクソッタレな兄貴を持つ、クソッタレ家族の一員ではあるが、ひたすらに「マトモ」でいようとする少年。
賢く、正義感があり、仲間の中では1番大人びている。
誰からも兄のようになるだろうと思われているし、本人もそうなるだろうと発言するが、それでも抵抗してタバコは吸っても酒は飲まないという具合に努力家。
ゴーディをたびたび導き、それでいてゴーディに寄りかかっているような、危うさを伴った独立性を持ったキャラクターだ。

3人目はバーン。
彼はしばしば臆病者のように扱われ、確かに1番のビビリ。
脳の疾患なのか、最後まで明記されないが、物覚えが悪く自分で隠した物の場所さえ忘れてしまう始末。
兄が不良仲間とよくいるためかなり恐れているが、その兄が話している内容を聞き死体を提案、意外と度胸がある。
無邪気といえば聞こえがいいが、1番子どもっぽく、成長する過程で何かを欠落したまま育ってしまったような感じ。
出来が悪いとも言えるかもしれない。

最後はテディ。
戦争帰りの父親を持ち、そんな父親に暴力を振るわれても彼を英雄と称える変わり者。
その暴力のためにテディの耳は悪くなってしまった。
テディにとって父は英雄であっても、周りからは「狂人」と思われており、それを否定はするものの自分の中でも揺れ動いている。
テディの夢は兵士になること。
そのため、変に度胸があり、しばしばゴーディやクリスの悩みの種となっているが、テディにしてみれば余計な世話。

ちょっとずつ「マトモ」から外れている子どもたちが1人の人間として立ち上がっていく過程を描いているとも言えるこの物語。
最も私たちが感情移入しやすいのはゴーディであり、それでいてクリスやバーン、テディにも私たちに通ずる部分があります。

一般的であり、唯一大人になれたゴーディは大人になった私たち。
クリスは親の、家族の鏡としての子どもの姿。
バーンは家族への恐怖と反抗を示し、テディは親への信頼と尊敬と、それでいて疑問を抱いたキャラクターとして存在しています。

親や家族に対して思うところのあるのは皆同じ。
彼らは思春期特有の家族への嫌悪や畏怖、感謝と憧れとが混ざりあったような、複雑な思いを抱いています。

純粋なだけじゃない子どもたち。

大人の彼らへの向き合い方もひとつ学ぶことのできるような気がしてきましたね。

大ピンチ。

おそらくゴーディと同様映画を見た人たちは皆ヒルがトラウマになっていることでしょう。
山、怖い。

『スタンド・バイ・ミー』は曲から題名が取られたそうで、原作の原題は”The Body”。
直接的に死体のことですね。

「集団」と言った意味もあるらしい。

では曲はどんなものなのか。

(Verse1)
夜が来た時
そして大地が暗くなり
月だけが私の視界に入る光
いいや、私は恐れない
そう、私は恐れない
ただあなたがいる限り、私のそばにいる限り

稚拙な訳ではあるんだけど。
ここだけでも十分ゴーディからクリスへの心情に見える。

(Chorus)
だから、あなた、あなたは私のそばにいて
ねえ、私のそばにいて
ねえ、いて
私のそばにいて、私のそばにいて

(Verse2)
もし私の見上げている空が
崩れ落ちてきたら
もし山が海に崩れたら
私は泣かない、私は泣かない
いや、私は涙を流さない
ただあなたがいる限り、私のそばにいる限り

Chorus部分を2回繰り返します。
そして、ラスト。

あなたが困った時いつでも、あなたは私のそばにいてくれない?
ねえ、私のそばにいて
ただ、今そばにいて
ねえ、いて、私のそばにいて

英語のいいところは私に性別がないところ。
ゆえに普遍的なものになりやすい、気がする。

先程ゴーディからクリスの心情だと記述したばかりではあるけど、クリスからゴーディにも見えなくもない。(小説版読んで…!)

特に最後の「あなたが困った時いつでも、あなたは私のそばにいてくれない?」の部分。
困った時に相談してほしい、と読み取れなくもない、気がする。
如何せん私の訳なので間違いではあるのかもしれないけど、誤読でも、まあ、解釈が広がるってことで、多めに見てくださいな。

つまり、この曲はゴーディとクリス、双方がどちらも同じ思いを抱いていたのかもしれない、と感じさせてくれるわけです。
(基本的にはゴーディ→クリスでいいとは思うけど)

映画、小説内でもここの2人だけが共有するものがあるというのは自明なことではありますが、それと同時に相談相手もお互いしかいないような気がします。
バーンやテディではだめ。
ゴーディとクリスだから支え合えるというわけです。

名曲が名作を作る。
良い。

というわけで、私なりに解釈・感想を綴ってみました。
本当に素晴らしいのでぜひ皆さん、小説版も読んでほしい。
映画ではギュッとなっていますが(意外と短いのは有名)完全に未来のゴーディ視点で描かれる小説には、文字特有の描写があるので活字アレルギーのある方以外は試す価値はあると思います。

哀愁漂うスタンド・バイ・ミーの世界へ、そして出口のないメイン洲へようこそ。

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