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自分の死の迎え方|映画「PLAN75」について

以前から書きたいと思っていたテーマ「死」について私なりに思うことをまとめてみますね。自分の死というよりは、死に方ですね。ここでは自殺や事故は除外した高齢になってからの的を絞った内容を書きます。

少し重いタイトルですが、どんな人もいつかは迎える日がきますから。(心理的負担になりそうな方は引き返していただいて構いませんので、よろしくお願いします)


サブタイトルの映画「PLAN75」を観ようと思ったきっかけは、読書セラピストとして人生について考えさせられるテーマを投げかけてくださるnoterさん、タルイタケシさんの記事とその時のコメントのやり取りの中でご紹介いただきました。

「どんな死を迎えるか」
考えたことはありますか?

PLAN75のサイトも載せますね。


この映画は、「超高齢化問題の解決策として導入された制度・プラン75が定着しつつある日本の話」です。75歳になったら選べるんですよ。自分の命を終わらせる日を自分で決められる法律ができている。その中でいろんな立場の人の想いを知ることができます。反対意見があることが承知の上で私の意見を言うならば、このPLAN75のシステムがあった方がいいと思いました。


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「死」は若い頃から身近にあり、看護師として病棟勤務をしている間はご臨終に立ち会い、そして在宅医療を通しても医師と同行しながら自宅での看取りにも居合わせてきたこともあります。

20代の頃と40代以降の私では、ご臨終に立ち会う時の感情には、悲しみ以外の部分で違うものがあります。

死は身近でありながら、そこまでの過程へも関心を持つようになったのは40代になってから。皆さんはどうですか?いつか訪れる死について考えることはありますか?

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元気なうちの生き方を模索中なら
こちらの記事がお勧めです↓↓

「今を大切に生きること」
と伝えてくれる恵子さん

「人間らしく生きてみましょう。」
と伝えてくれたタルイタケシさん

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私は医療の現場に身を置きながら、心の片隅に感じていた事があります。本当の意味での「生きること」はなんだろうと。


それは、自分で目も開けられず、意識がなく、体の向きを変えることも排泄も自分の意思では出来ず、意思さえもわからない。24時間続けられる輸液ルート、もしくは胃に直接栄養を管で通して流しこむ(経管栄養や胃瘻造設)そんな状態が5〜10年、病院や施設のベッドで余儀なく過ごすケースもあること。その生き方が本当の意味で人間らしくあるのだろうか、、例え医師や看護師など医療スタッフが献身的で優しい対応をしていたとしても、自分に置き換えて想像してみると受け入れられない気持ちです。


同じ「生きる」でも本当の意味での「生きる」なのか疑問だらけです。


意識がなくなってしまうこと・・意識レベルの低下があると医師が本人に蘇生処置の判断を聞くことはできません。今は、高齢の方が入院された場合ご本人またはご家族に「DNR」と言って蘇生処置拒否の同意書を記入してもらっています。

蘇生措置拒否とは、尊厳死の概念に相通じるもので,癌の末期,老衰,救命の可能性がない患者などで,本人または家族の希望で心肺蘇生措置を行わないこととされる。

ご本人の意識がない場合、蘇生処置の希望はご家族の意思に委ねられますが患者さんご本人の生前の意思が除外されるのは、見ていて切なくなる場面でもあります。ただDNRに同意するのが正しいと言いたいわけではありません。これからは、自分がほぼ助からない状態になったならどんな処置なら受け入れられるかを一人一人が考えていくことが必要なのではないでしょうか。

現実、DNRがあってもその先は個別性があるので難しいところです。ただ今の日本の制度としてはこの部分だけでも考えておくべきことかもしれません。

日本では縁起が悪いからと敬遠されがちな話かもしれませんが、自分の最後の死のあり方、少しずつ考えて家族に伝えることが当たり前になってほしいと思います。

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