先日、幅100m以上はある大きな河川の河岸を散歩していた。夕日がほぼほぼ沈み、河岸の木々が皆黒いシルエットと化す。それらを遠巻きに眺めつつのんびりと足を進めると、ある一本の木が目に留まる。 それは突然の出来事だった。 2つの薄白い光がぼんやりと浮かびます。まるで、暗闇の中でロウソクに火を灯したやうに。反射的に目を逸らしつつも、好奇心には抗えなかった。一定の距離を取りつつ、薄白い光に目をやるとどうだろうか。 1メートル。およそそれくらいの影が見えた。薄白い光は恐らく目で
中途半端に目覚めてしまった夜中。薄暗い部屋の中でテレビをつけますが、ただただ砂嵐が流れるばかり。すぐ切ればよかったものをぼんやり眺めていると、突然画面の中央に正方形の枠が映し出されました。神社かお寺らしき建物の屋根と木製の階段がうっすらと確認できます。 そのとき、ふと。 目だけがない日本人形のような見た目をした女の子が、突如そこにいたのです。女の子は奥からゆっくりと近づいて来ます。そして、画面に近づき顔がドアップになった瞬間、パッツンに切られた前髪の下からスルッと何かが
これは私が体験した話です。 ある年の正月、久々に揃った旧友2人とドライブに行くことになりました。地元が田舎でしたので、友人Aが運転する車に乗って繁華街へ繰り出し楽しく1日を過ごしたのですが、その帰り道のことでした。 繁華街を抜けると途端に辺りは暗闇に包まれ、自分たち以外に車を見かけることもなく、漆黒の中帰り道をドライブしておりました。三が日だったからでしょうか。普段、通れるはずの道が通行止めになっていたり、煙草を切らして急遽慣れない道の先にあるコンビニに向かったりし
これは、私がまだ学生だった頃の話です。当時私は、就活真っ只中の4年生でしたが息抜きにサークル旅行に参加していました。夏休みに夏らしいことをしようと、キャンプ場に行くことになりましたが、設備の整ったキャンプ場は軒並み高く計画は難航しておりました。 旅行そのものを諦めるべきなのか。 誰もが頭を抱えておりましたが、そんな中格安のキャンプ場が見つかったと幹事が胸を踊らせながら、みんなの前に表れました。サイトを見ると、お世辞にも十分な設備とは言い切れませんでしたが、それ
はじめに断っておくと、政治思想を主張したくてこの国の未来を憂いているわけではないです。でもまぁ、言葉にしたくてノートにしてます。 この国らしさを維持していくのに、この国だけでは賄えなくなるのではないか 国産第一次産業従事者の過半数が高齢者で、世代が下がるに連れて従事者も減少し逆ピラミッド型である。 かつての農村では、とりあえずたくさん子供つくって、みんなで農業をしていた。それで誰もが十分な生活ができていたかはここでは考察しないが、少なくとも働き手が沢山いることが農
仕事兼趣味で民俗学かじってるので、雪女に関して自説を述べます。 結論から言うと、生殖能力がない者は社会から疎外されていたことの比喩ではないかと思われます。 小屋で命を奪われた老人は当然、生殖能力はありません。また、雪山の凍える小屋で生き延びる為には体温を上げて維持することが必要で、正しくセックスができるからこそ、主人公は雪女(という女性と致したことで)生き延びることができた訳です。セックスができない者は疎外(死んでも)まぁ、仕方ないのかなと。こうした表現から、老いる事
【執筆した論文の雰囲気(概要)を、このノートではお伝えしています】 スグに読みたい方は、注意書きは読み飛ばして下さい。↓↓↓↓↓↓↓ ●注意書き● ・本文公表には至らないワケ・ 締切に間に合わせる為に、消化不良感が拭えないながらもとりあえず提出はしました。従って、もう少し手を加えて公表すべきか相変わらず迷います。 また、内容の性質上、意図せず誰かの価値観を否定したり傷つける可能性があるので、とりあえず公表してしまうことへの危険性への対応についても準備が十
実現はしませんでしたが、東洋占術の基礎について総合的に学べる講座シラバスを実は考えてました。 眠らせとくのも勿体ないので、投下します。 ↓以下全文↓ 【東洋占全般講座】 ◆本講座の概要 ・東洋占いという表現だけでは、馴染みが薄い人も少なくないだろうが、日本やアジアの文化圏で生まれ育った人であれば、東洋占いに親しむ素養には十分触れているはずである。 ・本講座では、東洋占いという視点から、日本をはじめとする東洋思想の潮流を概観しつつ、講座を通して得た知識を基に、東洋占いに親
ざっくりとした論文の概要(意訳してます) 表題「〇〇と△△における関連性としての××と、社会的な××の構造に関する考察」 序章 □□は□□になれないと言うが、それは本当なのか。少子化を改善したいのなら、□□における役割について見直すべきでは。 □□の両極端なこれらの発言に対して、こうした感情が湧いたのでガッツリ考える。 第1章 △△の××・〇〇の××という分け方は、あたかも〇〇と△△が別々に機能しているかのようなきらいがある。しかし、□□が批判されていることから、