ゆたかさと死生観
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉がある。山本常朝による武士道書『葉隠』の中の文章だ。
武士道と言う堅い響きからか「玉砕」の様に直接的に死ぬ事を潔しとしている様な解釈をされることもあった様だが、実際には「死んだつもりで人生に臨むこと」と言う様な心構えを説いていた様である。
大学時代クラブ活動や勉強も特段力が入らず毎日ダラっと過ごしていたが、友人と毎日の様に集まってバカ話をしていた。「もしもこんなことが起こったらどうする」と言ったことを面白おかしく茶化して話をしていたのだが、ある日友人が急に真面目な顔をして「それは死生観に関わることだから安易に答えられないな。」と言いだした。
そもそも死生観なんて言葉を人生で聞いたことも無かった私は少し驚いた。それまで死ぬなんてことは全く考えたことも無かったし、祖母が亡くなったことも悲しかったけど我が身のこととしてまで実感できていなかったからだ。
それからその友人と色々と話す中で、「人はいつか必ず死ぬ。」と言うことを改めて意識することになった。とは言っても別段深刻になることではなく、宗教的なことを考えていたわけでもない。(長くなるので今回は割愛するが、死生観と宗教観は深く関わってくる。今までのところ、私には信仰している宗教はない)
大学を出て仕事をする様になると、学生時代には定めなくても良かった「目標」が定められることとなった。数字の上では「ノルマ」だし、人脈を作ったり会社のシステムを覚えたりと言った様々なことを求められる様になった。
その時に私が意識していたことは「ゴールから考えよう」と言うことだった。
取るべき手段や進むべき方向は最終的にどの様になっていれば良いのかが分からなければ定められない。
例えばノルマの達成がテーマだとして、
・ノルマの数字を達成する。
↓(そのためには)
・案件を成約する
↓(そのためには)
・優良な顧客と出会う
↓(そのためには)
・顧客を紹介してくれる人脈を作る
↓(そのためには)
・会合に積極的に参加する
と言った様に最終目的に応じて自らの行動を組む必要がある。
手段の正当性を判断するには目的がハッキリしていないとできないのである。
仕事に限らず、これは全ての行動に当てはめることができる。
「明日何をするべきか」を決めたいのであれば、
「明日以降どうなっていたいのか」を考える必要があるのだ。
そして人が最終的にたどり着く地点は必ず同じだ。
そう、私の死生観は「生きることと言うは死ぬことと見つけたり」なのである。
人は必ずいつか死ぬ。
死ぬ時にどの様な自分でいたいかが決まればどの様に生活すれば良いかが決まる。
だからこそ生き様というのは死に様なのだ。
自分が死ぬ瞬間に「ああ、良い人生だったな」と思えるのであればそれこそがゆたかな人生と言えるのではないだろうか。
だとすると「ゆたかさ」というものは一言で定義づけできるものではなく、
個々人が求める最終地点によって決まるのではないだろうか。
欲しいものを何でも買って物で溢れさせたい人であれば、
ゆたかさはお金であったり広い家なのだろうし、
沢山の人に惜しまれながら亡くなりたいのであれば良き友人が多いことが
ゆたかさの一つの形だろう。
はたまた世の中に自分の生きていた証を残したいのであれば、
その「作品」を多く残すことがゆたかさかもしれない。
いずれにしても「ゆたかさ」は画一的に定義づけできるものではなく、
それを表現する方の死生観人生観に大きく左右されるされるものであろう。
死ぬ時に他人様の価値観を気にしても仕方ないのだから、
自分がどう死にたいのか、きちんと考えてそれに向かえば良いと思う。
そしてそれとて未来永劫変わらないわけではなく、いろいろな体験を経て変わることがあり得る。
私の死生観も大学時代と今では少し変わっている。
家族ができたことで影響している部分もある。
大学時代以来、私はその時の死生観に応じて「最終的にはこう死にたい」と言うイメージを持っている。
死と言う文字が踊り暗い文体になってしまったかも知れないが、これは私にとっては極めて前向きな話である。
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