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ドーナツショップでの嘆き

某ドーナツショップで本を読んでいると、一つ空けた席に小さな男の子が座ろうとしていた。しばらくすると、「これ食べなさい、きちんと食べなさい、きちんと食べないなら帰るよ、ほらこれ食べて、きちんとしなさい、大きな声出さないで」母親なのか、男の子の奥に並んで座る女性からひたすらに聞こえてくる『〜しなさい』に耳が持っていかれ、本の内容が入ってこない。
男の子は女性の言うことを聞く様子はなく、『〜しなさい』の終わる気配はない。
仕方なく席を立ち、移動する。その瞬間、女性と目が合ってしまった。
勝手だが、私が移動したことを自分たちのせいだと思わなければいいな、なんなら帰ったと思って欲しいと思いながら、奥の席へ移動する。
仕切り直して読み進めるものの、男の子の声が耳に届いてしまう。
小さく聞こえていた声はどんどんと大きくなり、「いやだいやだ、クリームたべたいーーー」などと何度も何度も泣き喚く声が店中に響き渡る。
早く終わることを祈りながら、開いたページの言葉をなんとか目で追う。

ーーーしばらくすると声は聞こえなくなった。

『これはだめ、こうすべき、これが正解、こうしなさい』
そういう言葉に過剰に反応してしまう自分がいる。男の子にかけられた言葉が自分に向けられている錯覚に陥る。
まるで責められているような気分になり、彼のヒステリックで大きな声は負の成分が強すぎてこちらが辛くなってしまった。

小さな頃からそうだった。
父親の母親への怒りは、自分に向けられていることと等しかった。
夕食に癇癪を起こす父親の声を聞きたくなくて、殺伐とするその場の空気を感じたくなくて、誰よりも早く食べ終わり、こども部屋に戻った。

『美味しいものを食べているのに、最初から2人とも全然楽しそうじゃなかったな。』そう今日の出来事を振り返りながら、自分自身が「きちんと、人に迷惑をかけずに」と思いすぎてることに気づく。

どこか呪いにも似たこの思い。

そもそも『きちんと』して何か良いことがあっただろうか。
職場では出来ると勘違いされ責任が増え、ストレスが溜まり『きちんと』できない自分に苛立ち自己否定する。
『人に迷惑かけずに』と思いながら生きてきて、果たして迷惑を掛けなかっただろうか。なりたい職業をなかったことにして行きたかった学校に行かず、悶々と今過ごしているのは誰だろう。

せめてこれからの人生、『正しい』や『きちんと』よりも自分のことを心から信頼し、楽しむことを優先したいものである。

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