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「流されやすい性分」がコロナ禍の今非常に役に立っている

これまでの人生では一度も「最後まで自分の主張を通す」ことはなかった。

それは祖父母や親、先輩、上司、夫など、力関係で自分の「上」に位置する人物が強烈な個性とこだわりの持ち主だったことが大きいだろう。

こちらから彼らに何か主張しても大抵負ける。それでも主張を続ければ手足や言葉の鉄拳が飛んでくることもしばしば。我が身を守る意味でも常にこちらが妥協し続けることが必要だった。

加えて、女性ゆえのさまざまな理不尽に抗いきれずに妥協したことも数知れず。

その結果物事にあまりこだわりを持たない……言い換えれば「周囲に流されやすい人」になってしまった。

自分の意思を悉く制限される状況下で身につけた「生きる術」は、常に環境に合わせて自分を変えることだった。

具体的に言えば、

周囲に流されて自分の行動や考えを常に変え続けていく。

ということだ。

たとえば、誰かが白といえば「そうか」と思い、「黒」と言えば「それも一理ある」という具合で。こだわりの強い人からは「コロコロ意見が変わって信用できない」と思われている。

そんな流されやすさが私の処世術となっているが、意外にもコロナ禍で制限が多い生活の中ではその性分が大いに役に立っていることに気づいた。

コロナ禍の影響で遠方への移動や外出、人との交流が制限されているが、私はずっと制限だらけの生活だった。だから今もそれほど生活が変化した感じがない。

また、生活習慣や価値観も大きく変化しているが、常に周囲の状況に合わせて自分を変えてきた私にとってはいつもと同じ変化に思える。元からそのような変化への順応など屁でもない。

健康面やお金に関する不安はゼロではないが、それはコロナ禍でなくても変わらない。今できる対策を講じつつ、「あとはなるようにしかならない」と腹を括るしかない……と思っている。

こんな非常時でも比較的落ち着いていられるのはそのためだ。

これまでの人生においては、自分の努力ではどうにもならない不自由の連続に嘆いた日々が多々あった。

周囲に流されやすい自分を不甲斐ないと思ったことも一度や二度ではない。

しかし、その生き方がこんな非常時で役に立っている。一見主体性のかけらもないように見える処世術がコロナ禍にも動じない強さとして自分を守っている。

それを思うと、周囲に流されやすい自分の生き方もそう悪くはないらしい。

周囲の状況、つまり自分に降りかかる運命に抗わない人生を選んだことで、運命に翻弄されない強さが身についたともいえよう。

そう思えば、あまりよいことがなかったこれまでの人生にも意味があったと思う私である。

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