いいかげんなSNS分析。

私の「ダレーシアの華麗なる一日」がおもしろかったのか、シェアが376件となった。ここで止まったので、これが最終シェア数であろうかと思う。
これは不思議でもあり、でも、長年自分の言動に対する相手の人の反応を見続けてきた結果、理解できるような気もした。

イイねやシェア数が、その投稿に関する関心の高さおよび質の高さを表している数字だとは、正直私は思ってはいない。イイねをする習慣のない人もいれば、難解すぎる話題は比較的少数人数に理解されることもあり、重い話題に関してはイイねを避ける感情が働くこともある。静かに黙って見ている人も結構いる。

ただ、それらの反応は、人々がイイね及びシェアという行動を誘発した点において、関心があるという一つの尺度にはなるわけだ。

それで、私はこれらの反応を見続けてきて思ったのだけれども、人々は社会問題に関しては、ぶっちゃけあまり関心がない可能性が非常に高い。これは、私が他者と話をしたときにも感じることである。社会問題に関しては、自分と関わりがあるものに関しては関心を示すが、そうではない場合は無関心であることが多い気がする。

一方で、私のマレーシアの投稿に関しては比較的他者の関心を引くようである。これは他者が異文化に関心があるのか、あるいは自分の知らない世界がおもしろいのかもしれない。または、マレーシアのゆるふわな空気が人々を癒やしている可能性もなくはない。

また、私の情景描写に関心を見せる人もいる。たとえば、カプセルホテルの掃除のお姉さんの場合もそうであるし、耳あかを取ったときの病院の描写についてもおもしろかったようではある。

私としては正直なところ、社会問題や思索を経た上での文章の方を本気で書いていたりする。伝わって欲しいと思って書いているのだ。何故かと言うと、社会問題に対する世間の関心を喚起することは、社会問題の解決に必要な力となるからである。思索を経て書かれた文章を大切にするのは、それは人間の生き方にとって非常に有益なものであると私は信じるからである(無論、私の考えが正しいというものではなく、それを契機に他者の思索が始まればいいというような類のものである)。

でも、私が本気で伝わって欲しいというものへの反応は薄く、まぁ時たま生活の中の刺激でぷるっと感覚が震えて、ぽんっと出した文章の方が反応が比較的いい。

これは、読みやすさゆえなのか、テーマの重さや複雑さゆえか、何が理由なのかイマイチよく分からない。
「まな板が黒ずんでいます。」という私の一文がとても気に入ったという人もいるので、人の感性というの本当に分からぬもので、感じ方も本当に人それぞれなのである。

それこそ、まさに人によって好きな音楽が違うごときものである。

ある女優が、新人オーディションの様子を見ていた際に「がんばっている人じゃない人の方が受かる」というような感想を述べたことがある(10年くらい前の話なので引用元が探せなかったた)。

不思議なことに、人は意識せぬときに何かしらが現れるのかもしれないと思ったりする。これは私が人の表情を見ているときもそうで、その人の本当の姿、自然な姿は、その人の意識せぬところに映し出されていたりする。そして、それが美しかったりする。

私の思索文が人工的で、情景描写が自然発生的なのかという区別は少々し兼ねるけれども、まったく意図せぬところに人の関心が集まることに、私は関心を持った。

今回シェア数を伸ばした「ダレーシアの華麗なる一日」に関しても、私はこの文章のどこがおもしろいのか正直分かりかねるところがある。後半のジュースをこぼす場面はおもしろいのだけれど、前半は少々分かりづらくて、読者の関心を最後まで維持させる自信がなかった。それを分かってはいたために、原文では「この文章は途中はおもしろくないだろうが」と事前に付け加えていたのである(しかし、信頼のおける友人に削除した方がいいとアドバイスを受け、この一文を消した)。

これは自分のために書いておくが、「ダレーシアの華麗なる一日」は不完全な日記である。読者が全員知っている情報および情景ではないがゆえに、もっと解説が必要な部分もあるし、文法的に修正を行わなければならない箇所もあると思う。

次に、この日記のシェア数が延びたことは、必ずしも私個人や私の文章に対する関心を高めたわけではないだろうと、私は分析している。その理由は、今回のシェアが他の記事のシェアを誘発したわけではないからだ(アクセス解析はシステム上できない)。

この分析を通じて、マーケティング戦略に繋げることもできるだろうし、人間について観察することもできる。正直なところ、私は他者の感覚と甚だズレていると言われることが多いために、他者の反応をしっかりと認識することは、自己のみならず社会を認識する上で非常に重要である。

表現者というのは、純粋に自己のためであることもあるけれども、鑑賞する人がいて成立することもあり、特に商売として成り立たせるときには、観客の反応というのが大切になってくる。

だから、私も自己演出、自己ブランディング、マーケティング戦略を練って、表現するという選択も有り得る。しかしながら、多くの人に好かれるものが傑作とは限らない。めちゃくちゃ難解で、訳わかんねーという中に価値がある可能性だってある。また、マーケティング戦略をするということは、他者の目を意識した上で表現するということである。そうすると、自己の表現が歪むとまではいかないまでも、開放的に自由に自分の感性を爆発させて表現できなくなるのではないかと私は恐れるのである。

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