「共感的に」人の話を聴くとは?(入門編)
さて、前回の提起した、カウンセリング場面で、クライエントさんを受容・共感することと、カウンセラー自身が「自己一致」していることをどうやって両立させていくかという問題ですが。
私がカウンセリングの現場で用いている技法について具体的に説明していきます。
まずは、「共感的理解」についての、私なりの入門講座からスタートします。
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私は、「共感」ということは、一般に考えられているより、はるかに精緻な事柄と思っています。
例えば、恋人に振られて「傷ついて」いる人がいるとして、その人に「共感的理解」を示すとは、とういうことを指しますか?
1.同情深げに、ともかく相手の話を「うん、うん」と聴いてあげることでしょうか? なるほど、自分の意見を差し挟まずに、まずは相手に話したいだけ話させてあげること、それは「受容的傾聴」の基本です。
現実の友人関係とかでは、相手の話途中でさえぎって自分の意見を述べたり、
「あたしの場合はね~」
とかいう調子で、「自分の」失恋談義に「すり替えて」しまう(^^;)とかが普通です。
カウンセラーは、まずはそういう聴き方を「超える」ことができねば「存在意義」はありません。
ただ、できれば、一方的に、「うん、うん」というだけで延々黙って聴いているのではなく、 時々、「クライエントさんの身になって」、自分の解釈や意見を差し挟まずに、クライエントさん自身が使ったキーワードはそのまま大事にしながら、要点だけでも「伝え返し」をして、カウンセラーの理解と、クライエントさんの伝えたいことにズレが出てきていないかを照合することは大事です。
今、「クライエントさんが使ったキーワードはそのまま大事にしながら」と書きました。
例えば、クライエントさんが 「悔しくて」 という言葉を使ったところについて、カウンセラーが不用意に、 「腹が立って」 と置き換えてしまうのは、実質的には無害なことも多いですが、時には、それだけでも、いつのまにかクライエントさんとの間に気持ちの溝ができてしまうこともあります。
ただし、こういう「言い換え」の微妙な危うさを、カウンセラーが体験的な実感として理解していないうちに、ただ「相手の言ったことをそのまま『鸚鵡返し』する」ようなことをドグマのようにカウンセラーの卵に教え込むのは、クライエントさんにカウンセラーが、非人間的な、ただの「鸚鵡返しロボット」のように感じさせてしまい、話を「聴いてもらっている」気がしない状態に陥らせる危険があります。
カウンセラーは、クライエントさんの気持ちに「触れようとする」という基本姿勢を失ってはならず、言葉の上での「理解」や「言葉の返し方」の技術講座になっては意味がありませんから。
この辺の勘所をつかむには、カウンセラーがフォーカシングをフォーカサーとして学ぶ経験を積み上げると、その「塩梅(あんばい)」が体験的に身につきます。
一言で言えば、カウンセラーがクライエントさんに同じ言葉で伝え返しをするのは、クライエントさんにその言い方で自分の実感にぴったりか照合してもらうためだけではなくて、カウンセラー自身が、自分の身体にそのクライエントさんの言葉を発声しながら「響かせる」ことによって、クライエントさんへの「感情移入的なフェルトセンス」をカウンセラーの中に「擬似的に」喚起するための手助けである、と私は考えています。
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2.「共感的理解」とは、クライエントさんの失恋体験とカウンセラー自身の失恋体験と重ね合わせて、その傷つきを共有することでしょうか?
カウンセラーとクライエントさんの心は、パソコン同士がネットワークでつながっているようにつながっているわけではありませんので(^^;)、クライエントさんの感じている「傷つき」を、カウンセラーに「転送」するわけにはいきませんよね。
その意味では、カウンセラーは、クライエントさんの話の内容や話しぶり、声の調子、身体言語などから受け止められるものを、自分の想像力と感受性を総動員して、自分の過去の類似の体験の時に自分がどんな「感じ」になったかとも重ね合わせながら「擬似的に」追体験しようとするしかありません。
場合によっては、クライエントさんが振られるまでの、具体的なエピソードとか、その時その時の思いを、さらに詳しく話しをしてもらうように、クライエントさんに促さないと、カウンセラーは、十分なリアリティと臨場感のある形で、クライエントさんの失恋の傷つきを「追体験」して「感じ取ろうとする」ことはできないかもしれません。
しかし、忘れないでくださいね。 どこまで行っても、カウンセラーの「失恋体験」と、
クライエントさんの「失恋体験」は、別のものだということ。
今や精神分析の世界で大立者となった北山修先生が、作詞家として「あの素晴らしい愛をもう一度」で、
あの同じ花を見て 美しいといった二人の
感じていた「美しさ」すら、実は「同じ」体験ではないのかもしれない。
哲学的にみて、ある人の体験ている「赤(#FF0000) 」と、別の人が体験している「赤(#FF0000 )」が同じ体験かどうかは、興味深いことですが、ひとまず脇に置きます。
ただ、あなたの「花(恋愛体験)」とその人の「花(恋愛体験)」は別々のものというのは確かでしょう。
でも、カウンセラーがそのことを謙虚にわきまえながら、なおも、クライエントさんの失恋体験の話を共感的に傾聴し続けている時、クライエントさんの間に、ある独特の「絆」が生まれ始めることが多いのは確かです。
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次回は、この、受容と・共感的理解が、できなくなって行く方向に追い詰められていく、現場カウンセラーの赤裸々な現実を暴露しましょう。
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