ジェンドリン:クライエント中心主義の展開と統合失調症患者との共同作業(1962)


クライエント中心主義の展開と統合失調症患者との共同作業
ユージン・T・ジェンドリン [1] (Eugene T. Gendlin
ウィスコンシン大学 1962

Client-Centered Developments and Work with Schizophrenics

訳:阿世賀浩一郎

注:[  ]内は訳者の補足。(  )内は原文にある


この論文は、カール・R・ロジャースが主催した研究プロジェクトにおける統合失調症患者の心理療法に関する初期の記述的報告である。このプロジェクトでは、多くの心理測定と面接による測定、適切な統制群、そしてセラピー面接の完全なテープ録音を採用している。

このプロジェクトはまだ終了しておらず、したがって効果的な心理療法が行われているかどうかはまだ確立されていない。

一方で、多くのことが臨床的に観察され、学ばれている。セラピストは、クライアント中心のセラピーのやり方を修正している。

この論文では、クライエント中心指向の傾向や理論の観点からこれらの発展をたどるが、ここで生起していることは明らかに、心理療法全般の分野における現在の傾向という広い文脈に関連している。

(1)パーソナルな関係、
(2)セラピストの自発的な真の表現力、
(3)基本的な治療的コミュニケーションの、[一つ間違えば]破壊的[になりかねない]、感情的、前認識的な性質

がますます強調されていることである。

フロム=ライヒマン(1959)はこう書いている。

医師は、孤独な患者に自分の存在を提供しなければならない。

最初は大目に見てもらうことだけを期待し、次にただそこにいる人間として受け入れてもらうことを期待する。

もちろん、心理療法が患者の孤独に対して何かできるかもしれないという可能性は、この時点では口に出すべきではない。

本質的に孤独な患者との接触の最初の段階で、そのような提案をすることは、患者の心の中で2つの解釈のうちの1つだけに貸すことになる。

[すなわち、]心理療法士は、彼の孤独の表裏一体の不気味な質について何も知らないか、彼自身がそれを恐れているかのどちらかである[と理解されてしまう]。

ホワイトホーンはこう書いている。

統合失調症患者の治療に失敗した医師Bは、受け身に寛容ではあったが、患者の間違いや誤解を指摘する傾向があった。

・・・一方、統合失調症患者の治療に成功した医師Aは、解釈や指導はほとんどしなかったが、患者が話している問題についてかなり自由に個人の態度を表明し、[自分に]許される不快な行動の種類と程度に制限を設けていた。

Whitaker、Warkentin、Malone (1959)はこう書いている。

非言語的コミュニケーションは最も重要である。セラピストと患者の間の無意識から無意識への感情的な関係の障害とならないように、知的な言葉を避けなければならないのである。

沈黙はセラピストと患者のコミュニケーションを行う上で、貴重な媒体となる。

セラピストは単なる映写幕ではなく、個人と個人の関係に積極的に参加し、技術的な操作をできるだけ少なくして参加する必要がある。

セラピストの努力は、患者の存在に対する彼の感情の反応や、この関係における彼の経験をできるだけ完全に伝えることである。

現在のクライエント中心療法の傾向は、上記の著者やその他の人々の観察にある程度似ている。

したがって、この論文で報告する内容の多くは、決して新しいものではない。

それどころか、異なる心理療法各派で同じような経験や方法が繰り返されることは、注目に値する現象を指し示しているように思わる。

これから報告するように、私たち自身の観察によれば、統合失調症患者に対する効果的な心理療法は、大部分がパーソナルで、表現的で、身体で具体的に感じられた、あるいは[一つ間違えば]破壊的[になりかねない]プロセスであるようである。


■統合失調症患者への適用以前のクライアント中心アプローチの変遷

クライエント中心療法の最新の動向を報告する前に、統合失調症患者の研究が始まる前の数年前にすでに起こっていた傾向や手法の変化を報告しなければならない。

当時、他のほとんどの心理療法流派と同様に、クライエント中心療法は、形式ばらず、よりパーソナル的で、言葉の内容や言葉による内省よりも、「感じ」に基づく、当意即妙な反応を返すことに関心を持つようになっていた。

特に3つの修正技法が、当時すでに行われていた。

  1. シーマン(1956)と他の多くの人たちは、クライアント中心療法における[セラピストの]反応を "感情の反射"と表現することに問題があると考えた。

様々な方法で、セラピストの応答行動の幅が広がっていた。

特にロジャース(1957, 1959)は,3つの基本的な治療的態度を明示できるすべての応答様式を治療的とみなすように範囲を広げた。

"共感的理解","無条件の肯定的評価","純粋さ "である。

セラピストの行動範囲は無限にあり,これらの態度を実践し,伝えることができるかもしれないのである。

ロジャースは、これらの態度が存在し、クライアントに伝達されれば、セラピーが行われると仮定した。

このように,狭い意味での "クライエント中心 "療法的な行動ではなく、セラピストの基本的な「態度」が治療の本質的な要因であると、すでに考えられていた。

  1. ここ数年の2つ目の修正点として、バトラー(1958)らは、セラピストの自発性が治療の成功に関係するとした。

ロジャーズは、3つの基本的な治療態度の1つとして、"セラピストが関係において一致(本物)している "ことを定式化した。

もちろん、純粋な表現力とは、セラピストが1時間のほとんどを自分の感情の一つ一つを言語化することではない。

多くの場合、クライエントの表現していくものと行動をありのままに受け止めようとしているはずである。

しかし、職業上あるいは個人的な作為から解放された、セラピストのありのままの透明性と純粋さが追求されているのである。

  1. 3つ目の修正は、クライアントにおけるセラピーを、概念的な「洞察」ではなく、感じる出来事から構成されるとみなす傾向(Gendlin & Zimring, 1955; Hart 1961; Rogers 1959)が強まってきたことですある。

「体験過程」の理論(Gendlin, 1961a; 1962)は、ある瞬間の具体的な感情のプロセスが、暗黙のうちに多くの心理的内容を含んでいる可能性を強調したのですある。

これらすべてを概念化することは不可能かもしれない。しかし、クライエントはそれらすべてを自分の中で直接的に感知された参照物[フェルトセンス]として感じることができるのである。

治療者の応答は、クライエントが自分の現在の感じているプロセスに直接注意を向け、このプロセスを最大化し強化することを支援するのである(Rogers, 1959)。

治療状況の相互作用的な条件は,より完全で,より同意即妙な方法の新しい経験を構成するものと見なされた(Gendlin, et al., 1960)。

これから示すように、クライエント中心アプローチにおけるこれら3つの初期の修正ラインは、統合失調症患者に対するセラピーの主要な特徴に成長して行った。

■統合失調症患者へのクライエント中心療法の適用について

●クライアントの特徴的な反応

統合失調症患者の心理療法に対する[セラピストからの]反応において、すでに始まっていたこれらの発展段階を加速させたものは何であろうか。

多くの統合失調症患者の心理療法における対する[セラピストからの]反応として、よく知られている4つの特徴を挙げてみよう。

まずは"モチベーションがあるクライエントだけを選抜しようとしない (nonmotivation)"こと。

クライエントは、年齢、性別、社会階級、入院期間、障害の程度など、実験デザインの基準に従って選択された(横断的変数として)。

これらの変数がすべて一致する2人の患者が見つかったら、コインをはじいて、どちらかが治療を受けない対照群として、もう一方が、治療を受ける実験群として決定した。

この方法によって、通常行われがちな選択をする必要がなくなった。

通常、[たまたま]その時スタッフになった人から、心理療法を受けることになる。

[そうした際には]心理療法を受けるモチベーションのある人をセラピスト側が選択することがありがちである。

私たちは、このような手前勝手な選別よって予後が不利にならないようなクライエントのグループを期待し、望んだ。私たちはこの目的を十二分に達成した。

治療のために選ばれたクライアントの大半は、治療を望まず、抵抗し、しばしばセラピストに会うことを拒否し、治療の開始や継続を困難にしていた(Gendlin, 1961b)。

●沈黙。

第二の特徴的な反応は、これらのクライアントの相手をする大多数[の治療者]が遭遇した、沈黙であった。

これは、私たちが深いセラピーから連想するような時折の沈黙ではなく、話を引き出そう引き出そうとしても、しばしば、いくつかポツリポツリのコトバを除いて、面接の間中、沈黙が続くのである。

●"自分自身の内面を探求しようとしない(nonexploration)”

第三の特徴は、統合失調症の患者は、自分の内面を探求しようとはせず、内面に注意を向けない傾向があることである。

言葉による治療過程がないように見えることが多い。

多くの場合、自分の感情を明確に表現することを拒否し、たとえそれが暗示的なものであったとしても、それを否定する。

[幻覚・被害妄想・させられ体験など、]高度に「外側の問題」とされている。問題や関心は、他者や外部の状況の中に位置づけられる。[2]

自己探求のように見える短い期間や、深い言葉のコミュニケーションがあったとしても、それが継続的なプロセスを構成するまでには至らない。

次の面接になったら、[前回]深い言葉のコミュニケーションがあったことなどすっかり忘れてしまったかのごとく、まるで何もなかったかのようになってしまう。

その人は、自分の主観的な問題にアプローチするために、自分自身の探求に従事しているようには見えない。

言葉では、不規則で、内面の探求を伴わない感情表現があるくらいである。


●コトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)の激しさ

第四の特徴は、コトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)の激しさである。

文明社会の礼儀作法や、言葉による確認、合意による確認を放棄しているように見えることが多い。

彼は、言葉による印象に支配されている。

もしセラピストの顔が嫌悪、妨害、拒絶を反映していると[統合失調症患者側に]受け取とられてしまうが否や、彼の反応は瞬く間になされてしまう可能性が高い。

たとえば、私が何かを言おうとして一瞬ためらうと、クライアントは私を振り払ってしまう。

それはまるで、私のアンビバレントな、半ば無意識的なメッセージの組み立ての難しさが、一瞬にして彼をそのメッセージから引き離すのに十分であるかのようである。

私たちのどちらかのわずかな動作が、強烈な暗黙の会話を構成しているのである。

セラピーの初期には、彼に対する私の関心と好奇心が、しばしば彼にとって目に見えてつらいものとなる。

後になると、もっと言葉巧みに、彼は言うことができる。

「あんたの耳は大きすぎる」

あるいは、それほど劇的ではないが、

「私は何も言うべきかどうかわからない。[あんたの側の]好奇心が強すぎるんだ」。

多くの相互作用において、私が主観的にクライアントと共に生きていることが、彼が感じていることと同じかどうかは分からないが、私たちは、[そこで生起する]出来事や深く感じられるコトバにならない次元での応酬(subverbal interracion)に費やされることは知られている。


●セラピストの「態度」

先に述べたように、クライエント中心療法は、もはや特定の技法や反応様式で定義されるのではなく、ある基本的な態度(ロジャース、1957年、1959年)で定義されるのである。

多くの異なる[心理療法各派の]方向性、技法、セラピストの反応様式がこれらの態度を現す可能性がある。

したがって、これから述べる「態度」は、クライエント中心療法に限定されるものではないが、[実質的に]それだけで "クライエント中心療法 "を定義するものとなる。

精神病患者の認識や感覚を共有しようとするセラピストは、説明的な「概念」にはほとんど治療的価値がないと考えている。

これらは、その人自身の体験に到達する助けにはならないからである。

入院患者は、本人自身の体験にあまり言及することなく、何らかの方法で「管理」され、ケースを「処理」されることが多いので、診断的な説明概念の観点から彼を論じる傾向がある。

このような「概念」のもとで、私たちは一般化された知識を得ることはできる。

これに対して、「共感的」であろうとするセラピストは、セラピストが感じることのできる限り、その人自身の体験に注意を向けるのである。

  1. 病院では、しばしば行動、攻撃性、顕在的な症状、そして演技が、重要な注意の焦点になっている。

入院しているクライアントは、しばしば罰せられたり、矯正されたりする。

それに対してセラピストは、クライアントの側に立って一緒に認識しようとし(ベッツとホワイトホーン[1956]が示唆するように、クライアントの「弁護士」になる)、クライアントに対して人として温かい「敬意」を表する。

外的要因への懸念に邪魔されなければ、その人をより深く知るにつれて、その人を非常に個人的に好きになるというのは、他の人と同様、精神病患者にも言えることである。

3.病院という環境では、患者は著しく孤立する。対人関係の幅が物理的に狭まるだけでなく、質的にも制限される。

彼の言葉は、しばしば、人からの真剣なメッセージとして受け取られない。同様に、プロフェッショナルな人たちは、自分自身の実際の反応を差し控え、何かプロとして適切なお決まりの反応を代用するようになりがちである。

これに対して、セラピストが「純粋に」自分自身であり、自己表現的であろうとするならば、セラピストは統合失調症患者の孤独を打ち砕くことができる人間であり、直接的な人間的接触をもたらすことになるのである。

そして、統合失調症患者は、この人間的なアプローチに[はっきりと具体的には]応えられないかもしれないが、それでも治療の場面では、同様に人間的な役割を担っている。

彼はこの役割を満たすこともあれば、空っぽにすることもあるが、完全に人間的な役割として常に存在している。

このような「セラピストの態度」が、当初はクライアントの特徴的な反応をより特に顕著にさせるのである。

一般に統合失調症患者は傷つき、孤立しているため、また、これらのクライアントが非自発的に心理療法に割り当てられたため、彼らの特徴的な拒否、沈黙、言葉による探求の欠如と説明されることが多い。

しかし、私は、このように[判定してしまう]の治療者の態度そものが、このような反応をより強く引き出す傾向があり、その結果、精神療法の様式を修正することにつながったと考えられる。

クライアントのやる気や気持ちに応えてセラピーを始めることに慣れているセラピストは、クライアントが自分に会いたがらないことに強く振り回されるに違いないのである。そのようなセラピストは、自分が働くための基盤を一時的に奪われたと感じるはずです。

同様に、クライアントの実際の主観的な経験を共有することに主眼を置いているセラピスト、つまり外的な説明や行動の修正をほとんど気にしないセラピストは、クライアントの自分の気持ちへの内的探求の欠如を顕著な特徴としてとらえてしまう注可能性が高い。

また、共感的な応答によって[クライエントの]自己探求を助けることに慣れているセラピストは、特に、大量の破壊的なコミュニケーションに衝撃を受け、途方に暮れるであろう。

これはまさに共感するために訓練されたコミュニケーションであるが、精神病患者はしばしばこれらのコミュニケーションを探求したり、言葉で表現したりしようとはしない。セラピストが言葉で理解しようとすると、クライアントはさらに引き下がってしまう。

[これに対して、]クライアントが自分の中で頻繁にプライベートな探索をすることに価値を見出すことに慣れているセラピストは、沈黙を中断することはないであろう。当然、彼は沈黙が1時間全体や数時間に及ぶことを発見する[場合もある]

他の心理療法流派のセラピストも、私が述べたようなクライアントの反応に遭遇すると思うが、おそらくクライアント中心アプローチという観点から見ると、これほど印象的なものには見えないであろう。


●セラピストの行動を修正する必要性

私たちの経験を説明するのに最も簡単なのは、セラピーがうまくいっていないように見えるとき、セラピストは、アプローチの方法を変更する必要性を感じていたということである。

まず、患者の特徴的な反応によってセラピストに生じる葛藤があり、その葛藤によってセラピストはこれまでの態度を維持することができなくなる。

治療的でないと感じるようになり,より慣れ親しんだ治療的態度を自分の中で回復するために,状況を変える方法を探してしまう。

セラピストとして慣れ親しんだ態度を取り戻すために,別の行動を見つけならなくなる。

しかし,明らかな代替的な「行動」のしかたをしてみて,彼自身の古い「態度」を捨て去る必要が出て来る。

その結果、以前は良い選択肢がないと思われていた治療的反応の全く新しい選択肢を敏感に進化させるプロセス(当意即妙になされる)が発生する。

このプロセスには3つの段階がある。


●葛藤の認識

クライアントは黙っているか、雑談をしている。

彼の暗黙のコミュニケーションを言語化しようとすると、彼は怒ったり、恐れたり、引きこもったりする。

あるいは、より深いレベルの感情に応えようとすると、クライアントが単に自分自身をもっと深く見ようとしていなかったこと、そして私たちを誤解していることに気づく。

クライアントが感じていることについて、私たちはあらゆる種類の印象やイメージを持っている。

私たちは、静かに座っていたり、表面的に会話しているときに、私たち自身の瞬間瞬間の体験の中で起こるこの豊かな出来事をどうしたらいいのか悩んでいる。

私たちは多くの共感を覚えるが、それを示すことはほとんどできない。何気ないレベルで、あるいは沈黙の中で、私たちは自分自身がこの恐怖に満ちた人と同じように無力であるがままに任せているのではないのだろうかと考えてしまう。

私たちは、もっと頑張るべきか、もっと安全であろうとするべきか、葛藤している。

私たちは、あまりに無力な待ち時間のために自分を責め、その数分後には、あまりに多くの中断、圧力、要求のために自分を責めるのである。

[セラピストは]クライアントは私たちと一緒に何か重要なことをしているのだろうか、私たちは彼の期待を裏切っているのだろうかと考えてしまう。

私たちは、内側に多くの受容性を与えながら、それがほとんど伝わっていないことに焦り、怒るようになる。

私たちは、クライアントが与えてくれる、わずかな、あるいは些細なコミュニケーションをとても大切に思っており、それを遠ざけたくはない筈だ。

しかし、沈黙やこの些細なコミュニケーションに同意しているように見えるとき、私たちは不誠実だと感じてしまう。

明らかに、このような状態では、セラピストとしての自分自身にかなり不慣れな感じがしたしまう。私たちがセラピーとして慣れ親しんでいる内なる状態を回復させようとするために、私たちは慣れない方法で行動するようになるのである。


●用意周到な選択肢の試行錯誤

クライアントがセラピストと会うことを拒否している場合のことを考えてみよう。

クライアントはセラピストとの面会を拒否しているが、強制的に面会すべきであろうか? それともまだ関係が始まっていない段階で終わらせるべきであろうか?

どちらの選択肢もよくないものである。

セラピストは病棟で本人に会いに行くが(ある種の強制)、本人が自由に立ち去ることができるようにする。

今、クライアントに参加するように束縛するわけではなく、彼が立ち去ることは、ああ、やっぱりこうなっちゃうのよね、的な拒否を意味するものでもない。

セラピストは週の後半に再び訪問するが、それは彼がそうしたいからであることは明らかである。

このため、クライアントが関係を終わらせるかどうかは、クライアントが決めるまで不確定なままである。

セラピストは、否定的な反応や反応の欠如にもかかわらず、クライアントと会いたいという自分の願望、この点に関する自分の興味や感情を述べていく。

確かに、これらの方法でセラピストは、通常行うよりも主導権を握っている。しかし、彼は自分の感情に基づいてイニシアチブをとる方法を見つけようとし、それは後にクライアントに生じるかもしれないイニシアチブの代わりまでしてしまうわけではない。

これはジレンマの独特で微妙な解決方法である。

ある点ではセラピストは(自分のために)よりイニシアチブをとるが、他の点では(クライアントのために)今までよりイニシアチブをとらないのである。

関係を築こうとするクライアントのコミットメントさえも想定されていないし、要求もされていない。


●新しい行動様式

押しつけがましくなく、より表現的になるという同じ傾向が、心理療法を開始するモードだけでなく、心理療法中のワークのやり方全体にも当てはまる。

私たちは、クライアントが何を考え、感じているかを知ることができないときでも、彼に応答することができることに気づいたのである。

もし彼が黙っていたら、セラピストである私は、彼が何を考え、何を感じているのか、まったくわからないかもしれない。私が知っているのは、「私が」何を考えているか、感じているかだけであり、彼をどのように「想像」しているかを知っているだけである。

私が今感じていること、そして今私たちの間に起こっているであろう漠然としたイメージを表現するとき、私の表現には非常にパーソナルな性質が入り込むことになる。

私は彼との間でまさに今生じている経験に言葉を与えているのである。

私がこのようなことを言うのには、個人的なリスクを伴いはするが、開けっ広げな性質がある。私の想像や感情を直接伝えることには、穏やかな親密さの質がある。

[患者への]表現の中で、私はしばしば、自分の発言の意図と、彼の中で起こっていることが、自分でもわけがわからないということを述べる。

私ははっきりとこう言うのである。

「これは、今私の中で[どういうわけか]起こっていることなんですが」
「これは、あなたの中で(あるいは私たちの間で)起こっていると私が想像していることですが、確信が持てません」。

クライアントは、私という人間と、彼に対する私の率直な表現的相互作用からなる応答的文脈の中に生きている。

しかし、その相互作用の中で、患者の側[から返ってくる反応]は、彼が自分のものとして明示したいと思うまで、かなり暫定的で暗黙的なものであるかもしれません。

同様に、[幻覚、幻聴、被害妄想、させられ体験など、]自分の外側の問題としてとらえたり、単に起こった事実だけを報告するクライアントは、「私の中で」彼に対する多くの感情や彼のイメージをかき立てることとなる。

私は彼からもっと深く話を聞きたいと思い、もっと個人的に彼を迎え入れたいと思うことになる 。

私はこのことを、特にそれを感じるあらゆる場面で[言葉に出して]言うことができる。

彼に生じた事件の語りの中に、私は彼が様々な形で[こちらに]関わろうとしてはいるのだとは感じる。

私はそれらを(自分の想像として)表現することができる。

私は、彼が起こったできごとの報告から省いている「彼」という人間を、より多く、より頻繁に感じられるようになる。

私は感情を表現する人になり、文句を言い、泣き、正当化し、誤解されている物事の私的側面を理解する。

彼が抱えるジレンマに困惑したり、驚いたりすることも、そっと表現する。しかし、これらはオープンな表現者である私の表現である。

その都度、何段階かのセルフ・フォーカシングを要するが、自分の気持ちを明確に述べ、彼への思いと彼に近づきたいという願望に基づいて表現しているのである。

黙っている人と同じように、生じた出来事の報告者と同じように、私は彼や彼が報告する出来事の中で経験したり想像したりすることを声に出してみる。

私はそれを、私たちが対話するときの、私の一瞬の内なるプロセスとして声にするのである。

このようなセラピストは、自分自身を率直に、純粋に表現することによって、頻繁に関係を築き、継続させていると言えるかもしれない。

この方法は、言葉を発せず、恐れを抱いている人を自由にし、しかし、まだ関係を形成したり維持したりすることがあまりできない時期に、関係を与えるようである。


■理論編

精神病患者に適用する前に、クライエント中心アプローチの修正点であった比較的微妙な強調点の変化は、観察可能な大きな進展となった。

この報告の締めくくりとして、私はそれらをまとめてみたいと思います。私が述べた修正の方向性は3つある。

すなわち、

(1)治療要因として、クライアント中心の行動ではなく、態度、
(2)セラピストの真の表現力、
(3)言葉による自己探求ではなく、経験(前認識的感情過程)が治療を構成する

・・・ということである。

このような観察の初期段階に合わせて簡潔に理論化すると、この3つの方向性を1つの公式で表現することができるかもしれない。

治療的態度(上記1)は、セラピストの真の自己表現(上記2)を通して、対話的な行動に現れる。そして、この開かれた対話自体が、クライアントの現在の経験プロセスの性質(上記3)に影響し、脅威や撤退にもかかわらず、彼は自分の経験がより最適に、相互作用的に起こっていることに気づくかもしれないのである。


■いくつかの未解決の質問

統合失調症精患者に対する効果的な心理療法が行われているかどうかを知るためには、実験グループとマッチさせた対照グループの完全な研究結果を待つ必要がある。

したがって、本論文は現在の実践を報告したものである。その有効性の評価については、まだ未解決の問題である。

心理療法は一般に、どのような集団に対しても、言語化するだけでなく、より基本的には、クライエントが自分の直接感じている経験を内側に参照し、それと闘うことが必要であると思われる。

具体的に感じられる個人の内なるデータが、言葉ではなく、心理療法の実際の素材であるように思われます。

それは特に統合失調症病患者には特にそうかもしれないが、誰にとってもそうであるように、感じた経験は概念的な方法だけでなく、むしろ前概念的な方法で意味を持つ。

感じた経験は限りなく分化し、概念化されうるが、それは「そこにあるものとしてある(concrete)」のであり、決して言葉や概念で構成されることはない。

統合失調症の患者は特にそうである。

なぜなら、彼はしばしば迷い、無我夢中で、自分の経験の前概念的な意味は、最初、彼には他の人からとても隔絶していて、伝えられないように見え、沈黙かいくつかの論理的ではない言葉が唯一の可能な表現であるように見えるからである。

彼の数少ない発言は、非常に波乱に富んだ、具体的に感じられるプロセスから生じており、セラピストとの相互作用がこのプロセスに影響を与えたり、可能にしたりしていることが、非常によくわかるのである。

原理的には、統合失調症患者だけでなく、一般的な心理療法は、基本的に対人反応の文脈における「感じられた」体験のプロセスとして考えることができるだろう。

もしそうであれば、この報告で述べたクライアントとセラピストのプロセスは、最も基本的な意味では、あらゆる心理療法で起こるものと同じであろう。

1961年10月15日受理。


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■コメント

多くの人がこの種の論文を興味深く待っていた。ロジャースたちが統合失調症患者の治療に取り組んでいたことは知っていた。このような経験の坩堝から生まれつつある治療法の発展について推測することは、興味深いことであった。

ジェンドリンはこの問いに対する最初の答えを私たちに与えてくれた。

その答えの中には、不可解に思えるものもあるかもしれない。

ジェンドリンが述べていることは、ある点では、通常知られているクライエント中心療法の正反対のイメージである。

クライエント中心療法の特徴(実際、そのタイトルの文字通りの意味)の一つは、クライエントの内的参照枠を強調することにあった。

ジェンドリンは、カウンセラーは時に、クライアントの内面ではなく、自分自身の内面に寄り添うように描いている。

これは、奇妙な強調の逆転であるように思われるであろう。

しかし、この転換は治療の方向性の変化を意味するものではなく、治療理論の中心的な連続性を強調するものでしかないのである。

治療関係とは,もしそれが何かを意味するならば,二人の人間の間の真のコミュニケーションを意味するからである。

セラピストの主要な仕事のひとつは、クライエントが他者からの危険な体験によって破壊されたコミュニケーションの完全性を回復することである。

セラピストは、自分自身が当意即妙性と完全性をもってコミュニケーションすることによって、これを最もうまく行うことができる。

これが、ジェンドリンがここで私たちに語っていることだと思う。

コミュニケーションの内容や焦点は状況によって変わるかもしれないが、即時性と誠実さは不変である。

このようなことすべてに、注意を向けるとよい含意がある。

その一つは、カウンセラーがセラピストの「基本的な意図」と、その意図を実現するための「技術的な」セラピストの行動とを区別して認識するようになることである。

この区別は有用である。その実用性は、セラピストによって、同じ基本的な意図を実現するための異なる手段である個人的な反応スタイルが開発されることを暗黙のうちに認識していることにある。

このことは、カウンセラーになることを学ぶ人にとって特に重要な考慮点であり、「治療法」を学ぶことによる硬直した行き詰まりから解放され、治療に関する基本的な仮説を実行する個人的な方法の実験を促進することになるからである。

ジェンドリンの論文はいくつかの疑問に答えてくれたが、同時に、一般的な合意がまだ得られていない問題を浮き彫りにすることにもなった。

ジェンドリンは、精神病患者への治療アプローチにおいて、いくつかの共通性が生まれていることを指摘した。

このような共通性は、理解するのに有用である。

それは、「流派主義」が美徳だからではなく、これらの相違が治療に関する未解決の有効性の問題を含んでいるかもしれないからである。

ジェンドリンの論文に示唆されている非常に活発な問題の一つは、クライエント中心療法が非侵入的であろうとする努力を続けていることである。

この特徴は、クライエント中心療法の特徴の一つとなっています。セラピストの関与が少なかった初期の時代には、何の問題もなかった。

しかし、クライエント中心療法の顕著な発展のひとつは、「離人症」から「関与」への移行 (its shift from detachment to involvement)である。

セラピストが高度に関与しながらも、押しつけがましくならないようにすることは難しいことであるかのように思われているのではないか?

私は、クライアント中心型のセラピストは、この問題に関して実存的な葛藤に直面しているのではないかと思っている。

最後に、心理療法における認知過程の位置づけについてである。

クライエント中心療法では、「今、ここで」の体験を重視するあまり、セラピーの支点が前認識のレベルに置かれている。

そのため、認知的再編成の役割は、より周辺的なものとなっている。

このような展開は、自己概念の重要性という、認知的な意味合いの強い構成要素を中心に構築された理論の文脈で生じているため、特に興味をそそられるものである。

私自身の考えでは、前概念的経験という考え方は、新しい概念として現在は重視されているが、長い目で見れば、理論は認知的領域を再検討し、治療とは感情と認知的再組織の両方のブレンドであると考え続けていくだろうと思える。

ジュリアス シーマン
ジョージ・ピーボディ・カレッジ

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