母が天寿を全うしつつあることについて

実はまもなく(といっても、3日後になるか、1週間後になるか、2か月後になるかわからないけど)99歳の母が老衰で天寿全うすることを、医師の、非常に丁寧なインフォームドコンセントのもとに宣告されました。

そのことについての感慨を書かせていただきます。

ついに来たか、あと半年持って、100歳の誕生日を祝えたらな、そうすれば天神での開業がそこそこ安定する様子も報告でき、安心してもらえるのにとまずは思いました。

新事業を始めたことは、母にも伝えていて、若干認知症気味(といっても重度のアルツハイマーには全然届かない)の母にも、理解できる形で伝わっていたと思いますが、結果を示したかったですね。

でも、天神開業の場所の整備と、申告手続きがちょうど終わり、一息ついたタイミングだったことは幸いと思います。

母の終焉に、腰を据えてつきあえますから。

さて、私って、もはや普段の日常の中では、意識的にフォーカシングをすることはない人間です。完全に「条件反射」化している。つまり、自分の中に生じて来たあいまいなモヤモヤ(フェルトセンス)、言葉で説明できない違和感には瞬時に注意が向き、それに自動的にフォーカスし、相手にも通じる、「的確な」言葉を見つけて対応できるスキルを身につけています。これは現場臨床でも大変役立っています。「治療者の逆転移の活用」そのものだと思っています。

このことは既に「現代のエスプリ」410「治療者にとってのフォーカシング」を伊藤研一先生と編著させていただいた中で書かせていただいています。

クライエントさんに意図的に「フォーカシング」してもらう必要はないんですよ。治療者側が面接場面のただ中でフォーカシングし続けていればいいわけです。

そういう私が、意図的にひとりフォーカシングするのは、自分のシミュレーションになかった、突発的な事態に、こころが動揺した時にほぼ限られます。

今回の母の老衰死の宣告は、少なくとも私のシミュレーションより早かったので、やはり少し動揺しました。

だから意識的に、完全に手順通りのフォーカシングを自分に課しました。

フェルトセンスと「的確な距離を取り」「共に-いられる」ようになるまでは、難なくできました(ここまでは、少し慣れれば多くの人がそうなれますよ。「シフト」を期待しなければいいのです)。

これって、マインドフルネスの状態に近いと思います。

私はここで眠り込んでしまいました。

「途中で眠り込んでもフォーカシングに意味がある」とは、私が大学院生の時に、はじめて公の場で論考を発表した時にすでに書いています。

そして、夢を見ました。

起きた私は、当然のごとく「夢フォーカシング」をはじめました。

夢の中に母と亡き父は登場していました。

それは、母が38歳の高齢出産で私を生んだ時、帝王切開で、その際に、子供は私一人だけでいいからと、子宮摘出をしてしまったことを、母が父に抗議しているという内容。

「子宮摘出は、私の判断ではない。父の独断だ」と母は夢の中で抗議しているのです。

これは「実際に」そうだった可能性も否定できません。

独断で私と母に人生上の重要な決定を押し付けるのは私の父の名物でしたから。

父が、非常に鋭い現実シミュレーション能力を持つ、頭脳の回転が半端でなく速い、即断即決で外れを引かない、たいへんなリアリストであったことは確かですが。

しかし、同時に父が非常に見栄っ張りであり、湯水のように金を使い母を贅沢させていました。

それは母に喜んでもらうことを父がほんとうに生きがいとしていたということであり、関東在住中の私にそれを知らせずに、海外旅行とかし放題だったことをあとで知った時、私は母に嫉妬したものです。

父の死の時にはかなりの額の借金があり、父母の住んでいたマンションを売り払うことで遺産のかなりは使い果たされました。

そういう、オモテとウラの二重性というのは、他ならぬ私にもあります。

恐らく、ネット上での私は、ナルシスト?それとも非常に誠実?と意見が分かれていると思いますが。

こういうネット上では書けないことも現実にはしています。そのための責任はすでに取っていますが。

いずれにしても、私は「はったりかましている」部分と、常に自分のアタマで考え、こころで感じ、自分なりの自分のコトバを紡ぎ出す面が共存しています。

ある意味で、「飲み込みがいい」人間だと思います。ジェンドリンの「人格変化の一理論」を一読めからスラスラ理解できた特殊な才能を持っていたことはすでに何度も「自慢話」してきましたが、例えば他の流派の心理療法についても、レジェンド自身の本は読むとは限りませんが、その要点を理解し、現場で役立てられるまでの手際はいいと自負しています。少なくとも面接の最中に、すでに学会とかで聞きかじった知識がスラスラと思い浮かび、「そうか、それはこういう意味だったのね」と納得して、私なりに活用していく行くタイプです。

Twitterでも、みなさんのいうことを「剽窃」するスピードは速いですよ。

私には、オリジナリティなんて何もないと思っています。すでに誰かが言っていることばかりです。

さて、なぜこういうことを書いているかといいますと、内観療法的に言えば、母に「して返した」ことはなるでなく、「迷惑をかけた」ことばかりだと思います。

決して私に怒りを向けたことがない、やさしい母でしたが。

母の死に伴う「対象喪失」の危機と、「抑うつ」をできるだけうまくしのぎながらの「償い」をどう進めるかということです。

・・・やはり、私の貧しい、実は全然無能だったカウンセラーとしての経験から学んだことを、皆様に伝えていくことかと思います。

ここからが「宣伝」ですが、私が今度電子書籍とオンデマンド出版で刊行する「若き臨床家のために」という、なんとも偉そうなタイトルの本は、結果的にその第1弾となります。

このコンテンツ、3章ぶんを除き、実はすでに20年近く前にブログで書いていた内容にほとんど手をいれていません。

2回ほど商業出版の機会がありつつも、その度毎に「ここで書いていることを自分は自分でやれていない。不誠実だ」と感じ抑鬱状態になっては取り下げるという、3度目の正直の刊行となります。

自分で言うのも変ですが、この本自体が、私の、私自身のための教科書としてその後機能していた内容です。

我ながら「これ書いてるの誰?」と思ってしまう。

まあ、そういう本ですが、母の葬儀等に振り回されないかぎり、今月末にはAmazonに並ぶと思うので、どうかよろしくお願いいたします。

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