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東畑開人氏の「ふつうの相談」を読んだ後で生じて来た、自由連想(恐らく、その1)

#東畑開人 さんも「#ふつうの相談」の中で触れていたが「成長」モデルって、問題を個人の内側に帰属させて(attribute)しまう所がある。

マインドフルネス的な「悟り」というのもそう。

私なりに言えば、ある意味では、新自由主義的。

環境を変えることの方が、まずは大事なことが、いくらでもある。

だから、クライエントさんへのtreatmentは、多元的である必要がある。

環境調整優先して、心理療法は後回しにするのか、それとも、クライエントさんが、環境(例えば、親子関係)を自分から変えていくだけの自我の力を引き出すことを優先するか。

純粋に「心理療法」さえしていればいい環境を、カウンセラーが手に入れることは、なかなか難しいのだ。

病院臨床は、心理テストもしなければならないことは別として、ケースワーカーや精神保健福祉士に、環境調整は、チームワークで委ねられることも多いと思うけど。

この点では、開業臨床いうのは、マルチであることが求められる度合いが高い。

カウンセリンクを続けるか?

病院を紹介するか?

それとも自治体の障害福祉課と本人の交渉をサポートするか、とか。

例えば、作業所に通う障害者が、他の通所者や職員に嫌な思いをさせられた、とか、カウンセラーはどういう形で対処し、サポートするのかという問題。

これって、どこの誰が担当するの?の領域になる場合がある。

作業所に通うために、精神保健福祉士が間に入っていないケースはままあると思う。

カウンセラーは、そこまで踏み込んで、介入するのかどうか?

実は、こうした現象を多元的にtreatmentしている時に、実は事態の展開が、因果論的に見ると輻輳しているとしか言えない場合があることが「現場臨床」の面白い所。

あっちか、こっちかの2択ではなく、ほとんと共時性的に事態が進行することがある。

例えば(架空の例だが)、総合失調症のクライエントさんの親族に、かなり虐待傾向がある人がいることは、なぜかごくありふれている。

これは「血(DNA)」のなせる業とし思えないのだが、そうやって、例えば、カウンセラーが、精神保健福祉士相手に、父親が暴力で障害年金を巻まきあげてしまうのをどうにかしてくれというクライエントさんの訴えに介入してくれ、と直談判することまでやってあげたとする。

ところが、精神保健福祉士が、そこまでは面倒見切れないと返事を返して来たとする。

さあ、困った。

ところが、それから数日後に、父親がその「借金」を自分から返してくる、なんていう、ウソみないな奇跡が生じることかあるわけです。

ユングの言う「布置」とか「共時性」という概念を用いずにこうした現象を理解しようとすれば、カウンセラーが、直接間接に、クライエント本人ばかりではなく、保健福祉士や父親まで、まるごと「抱え(holding)」の円環の中に包摂してしまうという、「力技」を、結果的にしたとしか思えない。

・・・うーん、こうやって、自ずから湧いてくる連想を言語化してみると、「#ふつうの相談」って、なかなか奥行きが深い本だと思う。

ただ、「どうすれば」、そういう多元的なtreatmentが可能になるか、その具体的手法自体は、この本であまり述べられていないと思う。

あくまでも「見取り図」の作り方、までなんだよねえ。



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