心理療法の、流派や技法の違いって、実はあまり関係ないんじゃないか

私の知る範囲で言えば、例えば精神分析と認知行動療法のどちらが「優れて」いるかとか、全く「対立」する技法であるとは感じられない。「適用対象」が歴然と違うとすら感じない。要するに、そのセラピストが使う熟練の「道具」が違うだけであり、その結果生じてくることは予想外に類似している気がする。

それより、どの流派をorientationにするか以前の問題として必要な、クライエントさんとの関係性の樹立のためのペースラインというものがあり、それさえ実現されていれば、流派も病理水準も意外とあまり関係ない気がする(乱暴な言い方と取られるのは承知しているが)。

そういう意味では、カウンセリングの専門性を高めようとする人は、あまりいろんな「技法」を学ぼうと「彷徨」する前に、自分がとりあえず主軸に据えた技法の「現場」臨床で成果を上げる大家が、その技法の見かけ上のテクニックの背景で大事にしているものを掴もうとすることが大事だと思う。

例えば、セミナーに参加してみると、行動療法の大家の山上敏子先生も、認知行動療法の大家の伊藤絵美先生も、クライエントさんとの関係性の樹立を大事にされていること、実はロジャーズ派の臨床実践の大家の先生の共感センスのようなものをお持ちには変わりないと感じた。

伊藤絵美先生は、「共感」という言葉がお嫌いのようで、ちょっとステレオタイプ化されたロジャーズ派観をお持ちかと感じたが、実際には関係性樹立への繊細な感度を感じた。

ところが、例えば山上敏子先生の技法の信奉者のはずの人が、全然先生と同様の成果はあげられず、「荒っぽいな」と感じたり、行動療法をはじめたばかりの入門者で、やたらと現場臨床の感度が高い人などを、事例発表で感じたことがある。

フォーカシングでも同じことで、同じフォーカシング指向心理療法を掲げていても、「現場」臨床のセンスと蓄積がある方とそうでない人とではまるで実力差がある気がするのだ。私もそうした「現場」臨床センスが高度な方にはとてもかなわないと感じることがある。

結局、臨床家が自分で熟練した「道具」をどれだけ掌中におさめ、しかし虚心に個々のクライエントさんに向き合う実践を蓄積してきたがどうかが成果をわけてしまう気がする。

そういう意味では、各技法を「比較する」形での「エビデンス」など容易に検証できないのは当然だと思う。

はっきり書くが、#村瀬嘉代子 先生が #公認心理師 制度を樹立する際に発揮した「政治的」振る舞いに対して議論があることはある程度承知している。 しかし、嘉代子先生ご自身の臨床センスというものが、滅多に真似できない境地であることは疑い得ない気がする。


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