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バケツリレーとファッツァー・ごっこ 田中祐気

『ファッツァー』の初演された2013年といえば、こんな思い出がある。

夏。ある日、ぼくは大学の授業を終えて帰路に着いた。当時は銀閣寺周辺にアパートを借りており、白川通を今出川通との交差点あたりまで南下するのがお決まりのコースでその日もいつも通り自転車を走らせた。すると、何やら顔に見覚えのある人たちがスーパー大国屋の隣のビルの地下階から出てきたではないか。彼らは汗と泥と埃まみれになって瓦礫をバケツリレーしている。そう、地点の人たちである。

京都の夏の暑さを想像していただきたい。盆地特有の熱気と湿気が充満するクソ暑さだ。そんな中、なんでこの人たちは大量の瓦礫を運び出し、汗だくで作業しているのか、しかもバケツリレー。その理由は知っていた。ぼくが地点の演出家である三浦基の講義を受けている学生だったから。この講義では地点の演技論や演出論を知るというより、現代演劇の変遷や劇場文化の紹介など、演劇の周囲のことを主に考える。さまざまな劇場文化について具体的に触れる中、最後に一番身近な例として、アンダースロー建設について触れていた。「実はいまうちの劇団のアトリエを作ってるんだけどね……」。

授業の終わりに私事を話す彼のそぶりは、どこか後ろめたそうでもあり、照れ臭そうでもあり、嬉しそうでもあった。アトリエを構えることは、どうやら劇団の長年の夢らしい。しかも話すだけでは事足りず、建築模型まで用意している。「ここがカフェカウンターで、ここが喫煙所。トイレが2個あって、クロークがある。クロークがあるってのは偉大なことで、etc…」。おいおい、この人ちょっとはしゃぎすぎてやしないか。そんな訳で、劇団員総出でオープンの準備をしていることを知っていたのだ。

だが、実際目の当たりにした彼らの様子はまるで建設作業員。ぼくは思った、演劇って大変なんだなあ、と(この時は後に劇団員になるなんて微塵も想像していなかった)。その頃のぼくの地点の俳優たちに対する印象は、劇中で普通に喋っているところを見たことがない、どこかミステリアスな人たち、だったので、彼らが埃にまみれてぜーぜー瓦礫を運んでいる姿に生活感が感じられ、ちょっと面白おかしかった。実際には自転車で通り過ぎた十数秒の光景だが、鮮烈に覚えている。

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さて、この『ファッツァー』の初演、ぼくは友人たちと観に行った。地点の作品は、真似したくなる、思わず口ずさみたくなる、とよく言われるが、白状するとぼくもかつてはそうだった。仲間うちで地点を見に行くと、必ず何かしらのごっこ遊びをしていたものだ。

ここで『ファッツァー』の舞台のビジュアルに少し触れておこう。これ以前に上演されていたレパートリー『CHITENの近未来語』とは反対の緑色の壁側が舞台に設定されており、客席側と大きな鏡張りの溝によって分断されている。舞台側は裸電球が無数にぶら下がり、不穏な反射光が壁を照らして地層のような模様を作り出している。また、空間現代の演奏音を電気信号に変換し裸電球を明滅させたり、溝に沿うように通っているセンサーの光が遮断されると警報ベルが鳴ったりとテクニカルも凝っており、塹壕・脱走・処刑場というイメージがひと目で伝わってくるセットは、はっきり言ってかっこよかった。

ただ、このときの観劇の感想はほぼそれだけ。爆音と絶叫にさらされ続けたぼくは、体力と集中力を奪われ、台詞の内容よりも6人の俳優たちの動きや空間現代の音との関係を追っていくだけで精一杯だった。なにかの法則に縛られているように見える俳優たちは、文字通り必死に訴えかけてくる。場合によっては、挑発的に。しばらくすると別に彼らのルールを知ってるわけでもないのに、撃たれるぞ、危ない!お、うまく避けたなあ!あれ、あの人ずるくない?なんて具合になんとなく分かってくるから不思議である。俳優はもちろん汗びちょだが、ぼくらも手に汗握って観ていたので、帰り道は本当にどっと疲れた。スポーツ観戦後のような疲労感だ。劇中何度も繰り返されるあの「くそったれ」が耳にこびりついて離れない。「くそ」は言うけど「ったれ」まではなかなか日常会話では使わない、行儀が悪いし。あのふてぶてしい顔で放たれる「ったれ!」が相当に面白かった。

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翌日、すっかり影響されたぼくたちは、地点の演技の真似っこをして遊びを始めた。言うなれば『ファッツァー・ごっこ』だ。ルールは簡単。ただ普通に会話している人に猫騙しの要領で手を叩くと、叩かれた方はすかさず「くそったれ」と言って崩折れる、だけ。猫騙しの代わりに大きい音でも可、だ。地点のやっていることを正確には知りようがなかったし、雰囲気が出れば何でも良かった。要するにノリ。最初は相手を無作為に選んで仕掛けていたので、『ファッツァー』を知らない人はただただ驚き困惑する、タチの悪い遊びだった。さすがに迷惑すぎるので、だんだん元ネタを知っている仲間うちの間だけに絞られていったが、およそ1週間くらいはこれで遊んだと思う。そのうちにぼくは「どこで手を打つ/どこで手を打たれる」と気持ちいいかを考え始めた。相手の予想外のタイミングで驚かすもよし、相手の話す内容や雰囲気に合わせるもよし、まだまだ発展する余地はある遊びだった。残念ながらみんなの飽きが来て、自然消滅していったが。

ごっこ遊びはしなくなったがぼくは『ファッツァー』を何度も観に行った。はじめ集中力が保たず聞き取れなかった台詞たちが聞き取れるようになるくらいまで、何度も。ぼくの地点への興味は、紛れもなくこういった悪ふざけからスタートしたのだ。

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『ファッツァー』のルール 〜空間現代の音が戦場を作り出す

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