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寿命を身勝手に延長したこと、それに対する罪悪感

 歩く足を出す順序、右足からなのか左足からなのか、そのスピードを決めているのは、果たして本当にぼくなのだろうか。そもそもぼくは、ぼくという一個の存在なのだろうか。
 ぼくはほんとうは水槽にぷかぷか浮かんでいるちっぽけなピンク色の脳みそで、すべては鳥男がなんらかのスイッチを押したりして流す電流によってもたらされる夢なんじゃないか――そんな妄想が絶えずぼくにつきまとっていた。
※「鳥男」=「ぼく」の父親

去年新人文学賞に出した小説で、こんな一節を書いた。わたしはときどき、自分の身体や心がほんとうにわたしだけのものなのか、わからなくなる。今これを打っているわたしの指先の神経は、ひょっとして親父の脳みそに繋がっているんじゃないか。わたしがわたし自身のものだと思っている思想も、意思も、意見も、すべては実は親父の生み出したものなんじゃないか。わたしのこの身体は、ほんとうにわたしだけのものなのだろうか。

「現役で早稲田大学に合格しないと死刑だ」と繰り返し繰り返し親父はわたしに言い聞かせた。その言葉はわたしの細胞ひとつひとつに染み込んでいて、遺伝子がときおり警告を告げる。おまえは定められた寿命を勝手に更新したのだ、自然の摂理に逆らったのだ、と。誕生日を迎えるたび、罪悪感に苛まれるのだ。わたしはひょっとして、生命の倫理に反するような、非道徳的なことを犯してしまっているのではないか。わたしがこうして、自分の都合で身勝手に10年以上も寿命を延長してしまったことは、もしかしたらとんでもない罪悪なのではないか。

うつが寛解する前は、身のうちで膨れ上がる罪悪感に耐えきれなくなるたび、首を吊った。カバンや、ベルトや、パーカーの紐や、そのときに目についたものをドアノブに引っ掛けて、台替わりに積み上げた本を蹴っ飛ばして、首に圧がかかったときのあの、息がひゅうっと止まる感覚。いずれも成功せず、いまだにわたしはこうして生きて、呼吸をして、MacBookのキーボードを叩いている。おめおめと、今日も。

今わたしがこうして文章を書く仕事にありつけているのも、修士号という肩書きが大きく作用している。実際にそれはTOEIC900点だとか日本語検定一級だとか、そういうものと同じで、わりにライターをやる上で重宝されるものなのだと最近知った。LGBTQ関連のエッセイも、受験教材の作成も、恋愛のコラムも、「社会心理学専攻でした」「ジェンダー論を研究していました」と主張する裏付けがあるからこそ取れた仕事なのだ。特にLGBTQ関連は、当事者であるとともに研究者であったことは、わたしの特異性として大きい。他のライターとの差別化も図ることができている。

だけど、その学費を支払ったのは親父だ。学部も、修士も、学費を担ったのは他の誰でもない父親なのだ。虐待経験をこうして綴るたび、このことを「甘え」と指摘される。その都度「あいにく国立だったんで、あんたのお金でもあるんですよね。どうもありがとうございます」なんていう嫌味で打ち返してきたけれど。

そう、わたしが夢中になって読み耽った、ヘッセも村上春樹もドストエフスキーもアーヴィングもオースターも、チャンドラーも、その書籍代は親父の懐から出されたものだ。大学受験の予備校の費用も、参考書のお金も。今のこの文章を、文体を、思想を形成し、その養分となったもののすべての代金を支払ったのは、他でもないあの男なのだ。

わたしはいったいどこまでが、きちんとわたしなのだろう。そんな答えの出ない問いに、いつまでわたしはぐるぐる思いを巡らせるのだろう。わたしの生命の半分を担う精子の持ち主が定めた寿命を、こんなに長い年月引き伸ばしてしまった罰は、いつ下るのだろう。死刑執行のその日を、怯えながらもわたしは未だに待っているのだろうか。罰してほしいのか。責めてほしいのか。赦されたいのか。

死にたいわけじゃない。うつ真っ只中だったあのときに感じていた、濃厚な死の気配やその匂いは、確実に今は感じない。でも、うつが寛解したからといって、何もかもが無かったことになるわけじゃない。記憶も呪いも、この身に残る。あの親父の胸に包丁を突き立てたくなる焦げるような衝動に、いっそのこと身を任せてしまいたくなる瞬間も、今だってある。

ただ無性に、不安になるのだ。わたしはきちんとこの世に生きていていいのか、存在していいのか、胸を張って言葉を発していいのか。死んでいるはずの人間が、偉そうにマイノリティ代表みたいなツラして発信しているこの状況は、本来なら許されざるべきことなんじゃないか。排斥に抗議をするわたしの言葉は、結局は親父の思想に犯されて無意識にそれを内面化した結果なんじゃないか。

定期的にこんな不安に、苛まれたくない。襲われたくない。わたしの言葉もわたしの意見もわたしの思想もわたしの神経もわたしの意思もわたしの細胞もわたしの脳みそも、ぜんぶぜんぶきちんとわたしのものだという証明がほしい。だからせめて、書く。加害者にとっては過ぎたことでも、被害者にとっては文字通り一生の傷となること。虐待の後遺症は、排斥の恐怖は、必死の訴えを軽んじられた虚無感は、大人になっても続くこと。

せめて同じ思いをする人が、1人でも減るように。そんな祈りを込めて、明日もわたしは書く。

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