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あの日の海のきらめきは希望だった

毎年この季節になると、思い出すことがある。10年前、わたしは受験した大学から立て続けに不合格通知を受け取りながら、着実に近づいてくる死の気配に爪先まで冷たくして震えていた。

その日は早稲田で受験した学部のうちの、最後の合格発表だった。早稲田以外の大学はいくつか合格していたけれど、そのときのわたしにとってそれらは価値のないものだった。「早稲田に現役で合格しなければ死刑だ」というのが父から長年刷り込まれてきた決まりごとで、すなわちわたしの生死はその日の合否にかかっていた。

合格発表はたしか10時ぴったりだったから、わたしは朝早く家を出て付き添いを頼んだ友人と原宿のジョナサンで合流した。彼は第一志望には合格できなかったけれど、第二志望の大学に受かったからそこに進学すると晴れやかに言った。彼とは当時けっこう距離の近い友人だったけれど、自分の家庭のことは打ち明けられていなかった。

その当時はまだガラケーで、合格発表はWEBではなく自動音声通話で確認した。10時になると同時に、食後のコーヒーを啜る彼に見守られながら、わたしは指定の電話番号を押した。音声案内に従って受験番号や生年月日などを入力すると、無機質な女性の声があっさりと不合格を告げ、その瞬間、自分の足元ががらがらと崩れていくのを感じた。

ああ、もう死ぬしかない。本当に今日で寿命は尽きるんだ。彼に落ちたと告げると、しばらくたわいも無い話を振ってくれたのを覚えている。それに返事をする気力が尽きるとわたしはふらりと立ち上がり、彼に礼を言って店を出た。外気は冷たく、鼻の奥を鋭く刺した。

わたしのその日、財布と携帯電話と父のネクタイだけを当時お気に入りだったスタジャンのポケットに入れて家を出てきたから、手ぶらだった。ポケットに手を突っ込み、ネクタイのつるつるした手触りを確かめた。

自宅に向かうバスの中で、わたしは迷っていた。このまま帰宅して父に手を下されるか、それとも自分で終わらせるべきなのか、いったいどっちがましなのだろう。悩んだ結果、わたしは自分で決着をつけることを選んだ。

その場所はずいぶん前から目星をつけていた。最近改装したばかりの、きれいな公園の女子トイレ。荷物を引っ掛ける金具はまだ真新しくしっかりと取り付けられていて、わたしの40キロもない体重ならなんとか耐えてくれそうなのが決め手だった。

個室に入り、鍵を閉める。わたしの心臓は、驚くほどに静かだった。鼓動を打つことを忘れているみたいだ。何度もシミレーションした通りに、わたしは父のネクタイで輪っかを作り、それを金具に引っ掛けた。そしてトイレのタンクによじ登り、輪っかの中に頭を突っ込んだ。

次に気がついたとき、わたしは扉にもたれかかる形でトイレの床に座り込んでいた。だらりと放り投げた左手の横あたりに金具が落ちていて、自分は失敗してしまったことを悟った。首からネクタイを抜いて立ち上がると、自分の座っていたところに水溜りができているのに気がついた。デニムのお尻に手をやると、じっとりと湿っていた。どうやら小便を漏らしたらしい。

わたしは便器に首を突っ込むと、激しく嘔吐した。ジョナサンで食べた軽食をすべて吐き、胃の中が空になってもまだ吐き続けた。吐き気がおさまると、便器の前に座り込んだまましばらく放心していた。上を向くと壁に四角く切り取られた空が見えて、それがあまりにも狭くてどうしようもなく惨めな気持ちになった。

ネクタイを入れていたのとは反対のポケットを探り、財布を確認する。どういうわけだったかもう忘れてしまったけど、そのときのわたしはいつもより所持金を多く持っていて、財布の中には千円札が八枚入っていた。その瞬間、ふと思い立った。そうか、このままあの親父にくびり殺されてしまうくらいだったら、いっそ逃げてしまえばいいのだ。母の実家のある、優しいおばあちゃんのいる、京都に行こう。「そうだ、京都に行こう。」というキャッチコピーが頭をよぎり、1人で失笑してしまった。

わたしはすっくと立ち上がると、その足でバス停に引き返した。渋谷駅から山手線に乗り換え、品川駅に到着すると、みどりの窓口を目指した。時刻はたしか昼の二時すぎで、窓口のお姉さんはちょうど今さっき京都行きの長距離バスが出てしまったところだと言った。八千円では新幹線代には足りなかったので、鈍行の乗り継ぎチケットを購入した。夜行バスは夜の九時発だし、待っているあいだに親父にとっ捕まってしまうのだけは勘弁したかった。

改札をくぐり電車に乗り込むと、途端にみぞおちの奥が激しく脈打ち出した。それまで驚くほど凪いでいたというのに、なぜ今になってと笑いたくなった。携帯の電源を落とし、背もたれに体重を預ける。ぼうっとしながら、前の座席に座る大学生らしき男女4人組を見るともなく見ていた。これから旅行に行くらしく、向かい合わせの2人掛け席できゃっきゃととはしゃぎながらトランプをしていた。

どれくらいそうしていただろう。ふいに車内のアナウンスがもうすぐ熱海に停車することを告げた。いつのまにか隣にいたちいさな男の子が、膝立ちになって窓に張り付いている。電車がひらけたところまで出ると、車内に西陽が差し込んだ。その瞬間、男の子が「わあ、海!」と歓声をあげた。

首を回して窓の外を見ると、わずかだけど黒っぽい海が見えた。陽光に波間が反射して、きらきらと光っている。「そうだね、海だね」と前に立っているお母さんがにこにこと相槌を打った。

ああ、こんな遠くまで来てしまった。過干渉な両親はわたしが友達と旅行に行くのすら許さなかったので、その年までわたしは親の付き添いなしで東京都から出たことすらなかった。だから知らなかったのだ。わたしはもう、行こうと思えばどこまでだって行けるんだということを。

あの日見た海のきらめきは、わたしにとってまちがいなく自由への希望だった。あれから大学生になったあと、湘南や沖縄、グアムやハワイ、アドリア海や地中海などさまざまな海を見たけれど、あれほど美しい海はなかった。

受験が終わるこの季節、わたしは毎年あの海を思い出す。あのきらめきは、わたしの心細さとやりきれなさを救い、宥めてくれた。あの日あの海を見ていなかったら、いつかこの親とも離れられる日が来ると確信なんてできなかった気がする。受験のことを思い出すたびに死に限りなく近かったあのときの気持ちに呑まれるけれど、今でもあの海のきらめきが、わたしの心を掬い上げてくれるのだ。

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