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『君の名前で僕を呼んで』〜どうしようもなく魅力的な「大人」について〜

こちらは“言葉と戯れる読みものウェブ”BadCats Weeklyさんに寄稿した映画エッセイに加筆修正を行なったものです。

いつだって余裕綽々で、不誠実で、そしてどうしようもなく魅力的な「大人」にばかり、恋をしてきた。ぼくが恋に落ちる男や女は、きまってそんな「大人」ばかりだった。近づけたと思ったら躱されて、ぼくの気持ちを知っていながら期待をほのめかすような甘い言葉を囁いて、でもけっしてぼくのものにはなってくれず、やがてはするりとどこかに去ってしまう、残酷な「大人」たち。オリヴァーはまさに、ぼくにとってそういう「大人」だった。
 
舞台は80年代の北イタリア、夏。17歳のエリオは両親と滞在している別荘で、美術史の大学教授である父に招かれた24歳の大学院生・オリヴァーと出会う。繊細で線の細いエリオをティモシー・シャラメ、陽気で自信家で筋肉質なオリヴァーをアーミー・ハマーが演じている。華奢で儚げなシャラメに対して、長身でがっちりとしたオリヴァーはいかにも「成熟した大人の男性」という風情だ。
 
最初は自由で傍若無人なオリヴァーに対しエリオは反発するのだが、次第に目でオリヴァーを追うようになる。はだけた胸元のネックレスのダビデの星、こちらを一顧だにしないブルーグレーの瞳、見せつけるように女の子といちゃついてキスをする横顔。一緒に出かけたのに勝手に一人で帰ってしまったり、ほったらかしにしたり、かと思えば気まぐれに素肌の肩に触れてきたり。
 
物語はほとんどエリオの視点で展開していくから、ぼくは自然とエリオに憑依してオリヴァーにとことん振り回される羽目になった。親しげに話しかけてきたと思ったら、あっさり“Later!(後で!)”と冷たく突き放され、その度にエリオの/ぼくの心臓は乱高下する。混乱しながらもどうしようもなくずるずると惹かれて、でもその気持ちを持て余して、挙句どうしたらいいかわからなくなって、つい彼に突っかかるような態度を取ってしまう。そしてピシャリと叱られて、今度は嫌われているんじゃないかと不安になる。
 
エリオの恋心の暴走は、あまりに痛々しい。痛々しくて途中、何度も目を背けたくなった。なぜならそのコントロール不能な空回りは、かつてのぼくそのものだったから。また、オリヴァーの態度は、あまりに憎らしくて腹立たしい。腹立たしすぎて途中、何度も呼吸が苦しくなった。なぜならその飄々とした色気は、ぼくがはたちのころ飲み会で偶然隣の席になったときにテーブルの下でこっそり小指を絡ませてきた先輩と、全く同じものだったから。
 
大学入学直後の新入生歓迎会で「かわいいね」とぼくに声をかけてきたその先輩は、好きな俳優に少しだけ似ていた。正統派なイケメンではないけれど、裏で女の子たちにこそこそと「かっこいいよね」なんて噂されるタイプ。そんなひとに声をかけられた嬉しさとほんの少しの優越感から、彼に誘われるままに飲み会を抜けてホテルに行った。先輩に同い年の彼女がいることを知ったのは、その後ずるずると何度か体を重ねた後だ。
 
どれほど執着しても手に入らぬことなどわかりきっていたのに、それでもぼくは先輩との関係を終わらせることができなかった。先輩は、彼女との関係を清算する気など毛頭ない。永遠にぼくのものにはなってくれやしない。好きだとは、言ってくれない。頭では理解していたけれど、先輩から「会いたい」というLINEが届くと、たちまち終電のJR京都線に飛び乗って彼のアパートに向かう日々を繰り返していた。
 
この映画を初めて観たときはすでに現在の夫と婚約中だったし、もうずっと長いあいだ先輩のことなど忘れていた。それなのに、エリオの目線でオリヴァーを追ううち、先輩の汗の匂いや声や肌の熱さがまざまざとこの身に蘇ってしまった。
 
草むらでキスをしておきながらなお、オリヴァーは「自制すべきだ」と言ってエリオを突き放す。帰ってこない彼を待ちながら、明け方の庭でエリオはネックレス──オリヴァーとお揃いのダビデの星を口に含む。ふたりを繋ぎ合わせるそれは、しかし同性愛を固く禁ずるユダヤ教の象徴である。避けられることに耐えられなくなったエリオは、ついにオリヴァーに手紙を書く。
 
「僕を避けないで。憎まれるより死を選ぶ」
 
あまりにも直情的すぎる告白に、胸が軋んだ。エリオとは真逆で、ぼくは先輩に最後まで「好きです」とは言えなかった。大学3年生で関東の国立大へ編入が決まると、死に物狂いで先輩への想いを断ち切って東京に戻った。先輩とは、それきりになった。
 
オリヴァーとエリオがようやく結ばれる真夜中、そうっとそうっと絡み合う指先を見ながら、ぼくは泣いた。燦燦と降り注ぐ陽光の下で燃え上がるこの恋は、最初から死の匂いを孕んでいたから。エリオが焦がれて焦がれてやまないオリヴァーは、けっして彼のものにはならないことがわかりきっていたから。けっして先輩がぼくのものにはなってくれなかったあの日々を、思い起こしてしまったから。
 
やがて夏は終わり、オリヴァーはアメリカへ帰ってしまう。
数ヶ月後、両親とともにクリスマス休暇で再び別荘を訪れていたエリオのもとに、オリヴァーから電話が来る。「結婚が決まった」との報告に、エリオはただ静かに涙を流す。
 
「君は運がいい。僕の父なら矯正施設に直行だ」
 
エリオの両親は80年代のユダヤ教徒でありながら、同性愛に対してフラットだ。エリオとオリヴァーが惹かれあっていたのにも気がついていたが、そっと見守り続ける。それゆえに、ふたりの恋は束の間成就したのだろう。翻って、あの北イタリアのあの別荘でしか、ふたりの関係は成立し得なかったのだ。
 
だからこそ、ふたりは互いを自分の名前で呼ぶ。相手が絶対的な魂の半身であることを、確かめ合うために。同性愛者への偏見がまだまだ根強いアメリカに戻れば、オリヴァーは本来の自分ではいられない。エリオと関係を続けることができない。
 
それを重々わかっていながらもエリオに手を出すオリヴァーは、やっぱりずるい。永遠に一緒にいることなどできやしないくせにエリオの心を攫っていくオリヴァーは、ずるくて不誠実で、それでもどうしようもなく魅力的な「大人」だった。ぼくがかつて恋をした、あの先輩と同じように。

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