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やっぱりぼくは、もう一度、小説を書きたい。

家の中ではVAPE──ニコチンを含まない電子タバコを吸っているんだけど、たまに扱いをミスってしばしば舌を火傷する。味付きの液体を水蒸気化して喫煙する嗜好品で、セットの仕方をしくじるとリキッドが本体から漏れるのだ。漏れたリキッドは、めちゃくちゃに熱い。それがそのまんま舌の上に乗っちまうと、もう大惨事である。

たぶんぼくのエッセイは、漏れたリキッドなのだ。熱々で、生のまんまで、触れた皮膚を容赦なく火傷させる。そういうところがウケるってのをこの1年で知ったし、それが自分の強みであることも知った。“ヤケド注意”の自分の文章は好きだし、ある意味ではデトックスにもなっている。

ただ、実を言うとぼくが真に書きたいのは、「“ヤケド注意”のエッセイだけ」ではない。

なんかこんなふうに表明しちゃうと、ぼくの文章を好きだと言ってくれている人たちへの裏切りみたいになる気がして、ずっとずっと言うのを躊躇ってた。でもなんか、ここ最近の己がどんどんどんどん「なりたい書き手像」から剥離してしまっていってる気がして、それが怖くなってしまったのだ。このままじゃいつかきっと、取り返しのつかないことになる。だから今日は、思い切って書いてしまう。ぼくは本当は、小説家になりたい。

エッセイで飯を食っている今に不満があるわけじゃない。あらゆる側面でマイノリティであるぼくにしか書けないことは死ぬほどあるし、ありがたいことに書く場所をもらっている身としては「書かねばならない責任」もそれなりに背負っている。それが負担なんじゃない。やりたくないんじゃない。そうじゃなくて、「それだけ」を目指してたわけではないのだ。

そもそもぼくはライターとして独立するまで、己の言葉で綴る文章は「小説」それのみに限られていた。新人賞の公募にほぼ毎年せっせと応募していたし、それを続けたかったから就活で正社員を避けたというフシもある。もちろん理由の大半は、これまで述べてきたとおり外国籍&セクシュアルマイノリティであるため社会で生きていくのに不利of不利だからなんだけど、「小説書き続けてえし、いつかは新人賞獲ってデビューするんだし、だったら時間に融通の効く非正規がいいなあ」なんて目論見もあった。

そしてその目論見は、大きく外れる。中学生ごろからせっせと公募に出し続けていたのだが、2〜3回にいっぺんくらいは一次選考を通過していた。新人賞の受賞作は、だいたい半年後に出版社のHPか文芸誌上で発表される。大賞だとかはもちろん最低でもその1ヶ月前に出版社から受賞の連絡があるわけで、すなわちその電話を受け取ってないということはぼくはその時点で落選確定なんだけど、「予選通過」の可否はやっぱり知っておきたい。知っておきたいから、落選確定でも受賞作発表日は必ず本屋に走るかインターネットの更新ボタンをクリックするかしていた。

noteに掲載している小説の二作も、新人賞に出したものだ。21〜22歳ごろに書いた『ココの冬眠』(こっちはもう恥ずかしいので削除した)と、24〜26歳ごろに書いた『ざくろの時』。ココは一次だったか二次だったか、とにかく予選は通過した。ぼくの0次選考委員もとい友人たちからの反応はかなり微妙だったし、今読み返しても顔から火が出るほどに稚拙だったけど、とにかくなんでか通過した。

そして自分史上もっともうまく書けた、しかも0次選考委員満場一致で「かなりいいんじゃないかこれ」と言ってもらったざくろは、一次すら通過しなかった。ぼくはそこで、小説への意欲をぽっきりと折られてしまった。

ココとざくろ、どう考えたってざくろの方がよく書けている。これはもはや自明だ。ざくろの方がnote上でもよく読まれたし、卒論&修論で指導教官から文章の基礎を叩き直された後に出したものだし。文章も、構成も、そして物語自体も、そのふたつを比較したら明らかにざくろの方が優れている。それなのになぜ、とぼくはひっそり絶望してしまったのだ。

それまでのぼくの肩書きが「学生」だったから、その物珍しさでぼくのしょぼい作品でもどうにかときおり予選通過していただけだったのだろうか。そんな邪推が、次第にじわじわと胸を黒く染めていった。そしてぼくは、そこから約4年ほどまともに小説を書かなかった。4年ぶりに書いたのが、なんとなくnoteに載せた『ヒース・レジャーの屍を越えて』だけなんだけど、それ以来書いたのは本当にこの一作品のみ。

タイミング的なものももちろんある。エッセイが評価されて、noteでも受賞して、いくつかのメディアで連載も持てるようになった。胸の底から湧き上がる「文章欲」──ぼくにとっては「食欲」「性欲」「睡眠欲」に並ぶほどの強い欲──は、そこで満たされるようになった。一応「物書き」にはなれたんだし、幼き日の夢は形を変えて叶ったんだから、もうそれでいっかという気持ちにもなっていた。

でもな、やっぱ、小説を書きたい。
先日の山羊さんの、Twitter界隈をまたも賑わせまくった『新宿の雪』を読んで、悔しくて地団駄を踏むぼくが確かにいた。

ちなみにぼくの妬み僻み全開の共有ツイートが未だ山羊さんご本人に気づかれていなくてちょっと恥ずかしい。切ないので、ここに貼っとく。

こうなりてえな、ぼくも。5万字もある小説を、みんなに読まれるってだけでもう死ぬほどに羨ましい。だってnoteって栞機能ないから、長文はどうしても読まれにくいじゃん。それなのに「すごいすごい」「面白い」「もはやプロ」「出版してほしい」「創作大賞、これで決まりじゃん」なんて言葉と共にシェアされまくってる現状も、もうとにかく、ぜんぶ、何もかもが羨ましい。

栞機能がないのにも関わらずこれほど読まれてるってことはつまり、みんな5万字を一気読みしたってことだ。長い長いスクロールへの躊躇をあっさり凌駕するくらい、冒頭で人をずるっと物語の中に呑み込んじゃう。そういう暴力的な魅力が、確実にあったわけだ。なんで言い切れるかっていうと、ぼくがそうだったから。寝る前のお楽しみで読み始めて、結局止まらなくて、睡眠時間を削って一気読みした一人が、他のだれでもない自分自身だった。(いや、ごめん嘘こいた。睡眠時間は削ってない。普通にそのぶんいつも通り昼まで寝た。)

山羊さんになりてえ。あわよくばもう、山羊さん本人になりてえよ。でもそんなんむりだし、ぼくはぼくとしてやってくほかねえし、だったらもう、地団駄踏んでないで、妬んでないで、書くしかないじゃん。

ぼくにとってのエッセイは、自分自身を削り取ったものだ。脚色はもちろんするけれど、基本的には自分の地下室に意識的に降りて、奥の奥のそのまた奥の突き当たり、厳重に鍵をかけた小部屋の中の、ガムテープでぐるぐる巻きにした箱を、ひとつひとつ手作業で開けていく。エッセイを書くというのは、ぼくにとってはそういう行為。だから必然的に、ぼくはいつも激しく消耗する。それがデトックスになっているし、ある意味では変な言い方だけど快感にも繋がっている。それは本当のこと。

だけど小説は、ぜんぜん違う。ぼくの地下室には、パンドラの箱がぎっちり詰まった小部屋のすぐ横に、シアタールームが設置されている。ぼくはふとした瞬間に、よくそのシアタールームに降りてしまっていた。通学途中の電車の中とか、つまんない講義を聞いているときとかに、無意識にそのシアタールームを訪れてしまうのだ。

シアタールームの液晶画面は、小部屋とケーブルで繋がっている。流される映像はそのときによってまちまちで、最初は画質が死ぬほど悪い。でも繰り返し繰り返し、何度もおんなじ映像が上映されるうち、解像度が徐々に上がる。上がってくると、ぼくは今度は意識的にシアタールームへ足を運ぶようになる。自分でも目を凝らし、ケーブルを点検し、ときには映像をメモ帳に書き留めたりもする。

その映像を、できるだけ正確に文章に置き換える。これがぼくにとっての「小説を書く作業」で、だからすなわち「エッセイを書く作業」とはかなり異なる性質のものなのだ。

源流はもちろんパンドラの箱の小部屋だから、小説を書くときもぼくは少なからず消耗してはいると思う。下手こくとエッセイのときよりも削られている。でもこの作業も、死ぬほど楽しい。そして幼いときからやってきたのは、実はこっちの作業なのだ。

エッセイを書く作業が楽しいことに気がついたのは、本当にここ最近の話。自分がやりたいことにエッセイも含まれているのは、紛れもない事実だ。でも、やっぱりこう思っちゃう。エッセイを書くときのぼくは、どうしても「LGBT当事者」「人種マイノリティ当事者」「虐待サバイバー」になってるなって。それは自分が望んだことだけど、その看板を背負うことに誇りも持っているけれど。

ぼくは、「ただのぼく」としての文章も、やっぱり書きたい。自分の一側面だけをピックした文章を書くのは好きだし、なんならぶっちゃけ死ぬほど脳汁出まくるんだけどさ。その楽しさを知ったからこそ、いや知った上で、もう一度ぼくは、「何者でもないただのぼく」として小説を書きたい。

「LGBT当事者」でもなく「人種マイノリティ当事者」でもなく「虐待サバイバー」でもなく、「ただのぼく」として、物語を書いてみたい。最近めっきり足を運ばなくなったシアタールームを掃除して、ケーブルを点検して、液晶画面もきれいに拭いて、そこに映し出される映像を文章に置き換えてみたい。

てことで、結論。note創作大賞、応募します。
出すのは未練タラタラな『ざくろの時』。きちっと加筆修正して、削るべきところは削って、整えた上で出してみたい。リハビリと供養の意味も兼ねて。「物書き」になれたからこそ、このタイミングで、もう一度「小説を書くこと」に向き合ってみたい。

宣言のわりに、なんだかまとまりのない文章になってしまった。締切まであまり時間もないし、なんなら仕事も押しまくっているのでいろいろとやばいけど、とりあえず頑張ってみる。だから、もしよければ、読んでくれたら嬉しいです。かなり大幅に変更する箇所もあるので、一度読んでくれた方もぜひに。

結果はぶっちゃけあんまり期待してないけど、やれるだけやってみる。よし!

読んでくださってありがとうございます。サポートは今後の発信のための勉強と、乳房縮小手術(胸オペ)費用の返済に使わせていただきます。