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新宿の雪

 新宿の路地裏。サラリーマンの胸ぐらを掴んで突き飛ばす。 しばちゃんが倒れたサラリーマンを起こす。 
「てっちゃん、軽いジャブにしとくね」 
 しばちゃんはひまわりのような笑顔で言う。
 あごを打つ。人間の頭蓋骨は後頭部で首の骨とつながっている。あごを打てば、そこが支点となって『てこの原理』が働き、脳が揺れる。倒れる時に頭をコンクリートにぶつけないように気を付ける。外傷がつくことなく上手に倒れてくれる。 危なそうな時は支えてあげる。
 最近は皆、現金をあまり持ち歩かないのでスマートフォンとクレジットカードをもらい、然るべき処へ売る。

 夜、区役所通りから一本脇に入った路地。ビルの壁にはホストクラブの男の子が写るでかい看板。写真に添えられたキャッチコピー。「圧倒的なイケメン」「だから会いたくなる」。その男の子達は何かぎらついてはいるが何にぎらついているか分からない。その下を酒が入った楽しそうなサラリーマンが5人ほどで歩く。
 彼らに少し派手にぶつかる。僕らは「弱そうな」格好をしている。僕はチェックのネルシャツ、しばちゃんは色褪せたダンガリー。金髪を隠すためキャップを被る。どこで見つけてきたのか分からない、まるで体育教師が被るようなよれた白いキャップ。2人で猫背。もちろん絡まれる。僕らは謝る。彼らは謝ると更に強く出る。
「本当にごめんなさい、すみません」
 僕が消え入る様な声で謝る。
「ごめんなさいって、何にごめんなさいって言ってるんだよ。あ?」
「すみません、ここじゃ何なので、すみません、そこのビルの玄関で、さすがに人がいるんで、本当にすみません、ごめんなさい」
 しばちゃんが情けない声で言う。
 お前らさ、誠意って謝ればいいんじゃないんだよ、な?誠意って分かるか?大抵そんな事を言う。誠意誠意。5人以下だとそんなに強くは出ない。大抵5人以上。
 5人いればそんなところに居合わせたくない理性がある奴が2人ぐらい出てくる。その2人は先を急いでどこかへ行く。
 残った3人に僕らは笑いながら突き飛ばされる。背中をさらに丸め、うなだれ、古い雑居ビルに入る。この時間は誰もいない。玄関から少し奥に行けば外からは見えない。照明は明るく、彼らに警戒心は起きない。
 誠意を見せろと言うので、金はない、すみません、と誠意を見せる。
 リーダーのような男が顎を前に突き出し、僕らに迫る。何故ウィークポイントである顎を突き出して迫るのだろう。間合いという言葉を知らないらしい。
 まともに当たらないようにかすめる様に顎を打つ。膝から崩れ落ちる。しばちゃんはいつの間にか出口に立っている。何が起きたから分からない2人目には手刀でこめかみを打つ。こめかみも打たれると平衡感覚が失われる。3人目が僕に向かってくる。コンパクトにカーフキックを4発。カーフキックは膝より下の部分を蹴る。ここをやられると足首や足の指の力が入らなくなる。戦意もなくなる。4発は多かったかもしれない。
 3人とも痣は出来るが外傷もなく安全に床に転がる。
 落ち着いたら誠意というやつを見せてもらう。スマートフォン3台とクレジットカード7枚と暗証番号、現金6万円と少し。スマートフォンはGPSがあるので電源を落とす。
「今日はてっちゃんだけで何とかなったね。でもさ、その猫背何とかならないかな、空手の癖がガッツリ残ってさ、ピンとしちゃってるよ、何て言うんだっけ、姿勢堂々?」
「そりゃ正々堂々だ。結構猫背にしてるんだけどなぁ、これでも」
「もうちょっとさ、肩を前に出して視線を下に向けてさ」
「こんな感じ?」
「そうそう!うは!だせえ!猫背!弱ぇ!」
 しばちゃんがビルに響く声で笑い、僕の背を叩く。 
「何か買って帰る?」
「金龍飯館で油淋鶏とかヤン君の焼売とか、貰っていく?」
「あ、いいね、缶チューハイも買っていこう」
 足元に転がる3人は虚ろな眼で僕らを見る。

 しばちゃんという名は誰かが付けた。柴犬に似ているかららしい。確かにその愛くるしい瞳は似ている。でもしばちゃんは柴犬を知らない。

 冬の終わりだった。居酒屋の客引きに一人で付いていった。香りも何もないこの世で一番安いウイスキーを2杯、冷え切ったねぎまを2本、レバーを1本。8万円と言われる。ウエイターにそんな金を持っていないと告げる。すぐに3人ほどの男がやっていて店の奥に連れていかれた。
「払ってもらわないと困るよね、8万円」
「そんな金は持っていないし、クソまずいウイスキー2杯と冷めた焼き鳥で8万も払えるか」
 1人が顎を突き出して無自覚に間合いを詰めてくる。胸ぐらを掴み言う。
「お前、舐めてんのか、そこにATMあるから降ろして来いよ」
 胸ぐらを掴んだ奴の手が一瞬、力みながら離される。目が開かれる。体に無駄な緊張が込められる。殴ると言う意思表示をまき散らす。右手を大きく振りかぶり、隙だらけの右フックの様なものを放つ。緩やかにこちらに来るママチャリの様だ。ママチャリを避けたら正拳を胸、前蹴りを腹部。床にごろごろと転がる。3人床に転がった。
 コンビニで一番安いウイスキーを買い、ATMで金を降ろし8万円を募金箱に入れる。公園で飲む。全てを腐らせる春の溢れかえる匂いがやってきている。その中でつまらないものをつまらない体に流し込んだ。客引きに付いて行ったのは、殴られに行ったはずだ。誰でもいいから殴って欲しかった。ウイスキーは何の味もしなかった。 

 気が付くと目の前にコンクリートの床があった。今いる場所は階段らしいが、そこから立ち上がる気分ではない、というか立ち上がれない。ウイスキーの瓶の中身は空。ポケットの財布は無事のようだがそんな事はどうでもいい。吐き気が酷い。視界も回る。
 誰かの声で目を醒ます。
「雨が降ってきて、風も出てきたよ。ここは雨だらけになるから行こう」
 僕の体を支え、階段を上がる。人に支えられて連れられるのは幼い頃を思い出す。部屋に入ったと思うがその後は良く分からない。

 部屋が明るくなり、起きた。大きな窓があるがカーテンがないので日差しが直接差し込み眩しい。驚いたことに床は海だった。暗いのか明るいのか分からない青。窓からの朝日で波間が鈍く光る。
 ブルーシートだった。30畳ほどある部屋。その床全体にブルーシートが敷き詰められている。波間だと思っていたのはブルーシートが床でねじれた皺だった。
「大丈夫かな?」
 金髪。愛想が良い二十歳ぐらいのあどけない男の子。スカジャンに黒のジャージ。服の上からでは分からないが、多分相当締まった体の様な気がする。それも格闘技などで鍛えた体。
 それがしばちゃんだった。
 窓にカーテンもなく、床にはブルーシートが敷き詰められている。部屋を見渡すと、下着からパンツ、シャツ、ジャケットが適当にブルーシートの上に散乱している。所々に段ボールが置いてある。僕にコップを差し出す。水だろうと飲むとしっかりと日本酒だった。
「お酒にはお酒って聞いたからさ」
 屈託のない笑顔。本当にそう思っているのだろう。
「良くあそこで倒れてるんだよ、酔いつぶれて。一度大変そうな人がいたからこの部屋に連れてきたの。何でか知らないけど、その人、起きたら無茶苦茶慌てて出てったの。しばらくしたら警察来たの」
「その時どうしたの?」
 これが僕がしばちゃんに発した最初の言葉だ。その時どうしたの?
「ここ、今日から工事始めるんですって言ったら帰って行ったよ」と言いながらしばちゃんは笑う。
 「警察の人はね、この部屋見てまるで難民キャンプだなって言った。難民キャンプって楽しいのかな」
 しばちゃんは笑いながら続ける。
「踊り場で君が倒れているの見た時、僕が倒れていると思ったの。何でかわかんないけど。僕が倒れてた。だから連れてきた」
 部屋を見渡す。弁当の空容器がキッチンの流しに山になっている。訳の分からない染みが付いたマットレスが二つ。その一つに僕が寝ていた。
「もう一人誰かいるの?」
「いないよ」
 立ち上がり、スニーカーを履く。
「この靴、脱がしてくれたの?」
「うん、なんかその方がいいのかなって」
 僕はここに住むことになった。

 大学の空手部にいた。父は空手道場を開いていた。全日本クラスでの優勝こそはなかったが数多くの大会で上位入賞をしている。空手をしている者には名が通っている。当然子どもの頃から僕も道場で空手をやることになる。物心ついた頃から道場で大人に混じる。上達は速い。多分筋も良かったのだろう。
 でもそこまで空手が好きではなかった。自分の拳や足が相手の体にめり込むときの音と感触。何年やっても抵抗があった。僕は自分の部屋で本を読んでいたほうが楽しかった。小学生の頃の星新一全般、「十五少年漂流記」や「クラバート」。中学生になると、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介からはじまる古典。そして沢木耕太郎、村上龍や村上春樹、吉本ばなな。他にも。僕の部屋は本に埋もれた。
 それでも空手の練習をさぼることなく、そして父の英才教育を受けることで僕は大会の上位常連となっていった。相変わらず空手に興味は持てなかったが。
 高校受験が近くになると父が空手部強豪校の話を先方とつけてきた。僕は父の言うとおりにその空手強豪校に行った。母は黙って見ていた。インターハイで優勝は出来なかったが、各大会上位に食い込む。 
 大学も同じ様に父が話を持って来た。
 しかし、さすがに空手を続けていくのは辛い。相手の体に食い込む自分の音と感触。経済学や経済人類学、行動経済学。そんなものを学びたかった。
 父に何となく、伝えた。
 父は驚き、憤然とした。そして僕も父の気持ちが良く分かった。自分が名の通る空手家、そして道場を経営し、その息子が全国レベルの選手。父にとって、僕がこれ以上恵まれた道を歩んでいると信じて疑わない。もし、ここで僕が空手を辞めれば周りの人は父に聞くだろう。
「息子さん、空手辞めたんですか?」
「息子さん、どうしたんですか?」
「何があったんですか?」
 僕は空手で大学に行く事にした。
 その大学には学ぶ興味を駆り立てるものは少なく、そしてそのような雰囲気もなかった。

 しばちゃんに拾われてから2~3日、部屋で呆然としていた。水や食料はしばちゃんが持ってきてくれる。コンビニの弁当やファストフード。そしてあんかけ焼きそばや炒飯などの中華料理。ありがたく頂く。とはいうものの、味がしない。コンビニやファストフード、中華料理は味付けが濃い。でも味がわからない。何を食べても砂を噛んでいるようだ。眠りも浅い。体を動かそうにも鉛が充満しているかのようだ。体に砂が入り込む錯覚。額にホースが直付けされ、砂が流し込まれる。ざらざらざらざら。爪の先まで重い砂で満たされる。小指を動かすのもしんどい。
 しばちゃんは夜の7時頃出かけ、朝の4時ごろに帰って来る。何をしているか分からない。

 5日ほどして、しばちゃんが薬を差し出した。
「これを飲むと大丈夫だよ」
 新宿の金髪の兄ちゃんに差し出される薬。普通に考えるとろくなものでない。僕の前にしゃがんで言う。
「大丈夫って言ってもそんな簡単に信用できないよね。でもこの薬は知っている先生から貰ったんだ。でも、いきなりだと怖いよね。だから気が向いたら飲んでみて」
 黄色い錠剤とピンクと白のカプセルのシートを渡される。面倒なので何も考えずに飲む。
 起きて薬を飲み、しばちゃんが持ってきてくれたものを食べて、寝る。それを繰り返す。
 1ヵ月ほど経った。日差しが容赦なく部屋に突き刺さる。立ち上がり窓から外を見る。向かいのビルには新宿の雑多なものが詰め込まれている。dvd鑑賞、風俗無料紹介、メイド喫茶、若い男が大写しのホストクラブ看板、性感マッサージ、焼肉、拉麺、和食、あらゆるジャンルの飲食店、そして夜職から昼職への転職斡旋。
 いつの間にか後ろにしばちゃんがいた。
「トイレ以外で立てたね」
 春から初夏に移りつつあった。
「とりあえずさ、風呂行こう。こう言っちゃなんだけど、この部屋始まって以来の臭いなんだよね」

 日の光が充満する、気が抜けたような街を朦朧としながら歩く。昼間がこの街の気を吸い取っているようだ。半月以上外を歩いていないので足元が揺れる。先に歩くしばちゃんは急かすわけでもなく僕の前を行く。
 細い路地をくぐる。その路地が訴えかける。「韓国家庭料理食べ放題」「韓国風家庭料理」「韓国コスメ専門店」。新大久保だ。
 鳥居の様なゲートをくぐり抜ける。「万年湯」という看板があり、しばちゃんはそこに入って行く。銭湯。番台の中年女性にしばちゃんが声を掛けた。中年女性が大笑いしながら言う。「また、エライ汚いの拾って来たね!くっさいねぇ。いいけどさ、良く流して入ってくれよ!」。
 シャンプーの泡が立たない。5回ほど洗い流し、ようやくいつもの泡が立つ。体を洗うが何度洗ってもボロボロと垢が湧き出る。しばちゃんはさっさと体を洗い、出て行った。
 湯船はあらゆるものから解き放たれる様な心地よさだ。お湯が体の奥底に沁みる。思わず声が出た。もう一度体を洗い、また湯船を漂う。沈滞していた何かが流れていく。
 風呂場から出ると、しばちゃんが言う。「これに着替えなよ。前の服、どうする?洗う?」。ユニクロの下着にチノパン、ネイビーのTシャツ、白のオックスフォードシャツ。
「サイズは僕と同じで大丈夫だよね、あ、靴下忘れた!そこにユニクロあるから買おう」
 番台の中年女性がまた大笑いして言った。
「全然違うもんだね!ぴかぴかの大学生だな!」。
 古い服は捨てた。

 来た道を戻る。5月の風が頬を撫でる。新大久保の住宅街。遠くの民家の屋根まで良く見える。視力が上がった様だ。
 新宿に戻り、古びた雑居の3階に辿り着く。ドアを開けると中華料理屋だった。街中華が看板も出さずにビルの3階。それでも4つあるテーブル席は全て埋まっていた。
「リーさん」
 しばちゃんにリーさんと言われた男。薄汚れた白い料理服。小柄で短い白髪。公園で近所の子どもたちを微笑んで眺めるおじいさん。そんな風貌。
「あ、しばちゃんいいとこ来たね、これ、向かいの雀荘まで届けてくれ」
「金もらってるの?」
「いや、ふんだくってきてくれ、2回ほど溜まって、ちょっと待って、ああ、これと合わせて1万4820円。まあ、端数はいいや」
「端数って4820円?」
 リーさんが大笑いする。
「それが端数だったら、うちは料理するたびに大損だ、しばちゃんに何も作ってやれないな」
 しばちゃんも笑いながら紙製のテイクアウトボックスを5個ほど持って出て行った。僕はカウンターに座る。カウンターの奥には僕と同じぐらいの年齢の男が焼売を仕込んでいる。細身でなで肩。焼売を仕込む姿が柔らかい。焼売の皮を包んでいる指先がまるで力が入っていない様に見える。焼売が彼の手の中で勝手に焼売になっていく。僕の視線に気が付いた彼は柔らかく微笑んだ。そして彼には隙がない。
 しばらくしてリーさんは僕の前に小ぶりのどんぶりを置いた。
「しばちゃんから聞いてる。ちゃんとしたもの食べれなかったんだろ、いきなり食べれないから。お粥からな。中華粥、うまいよ」
 ほのかにごま油の香りがする。
「生米から作るのもあるけど、今日は煮込んだ。たくさん煮込んだ。3時間ぐらいな。あ、ゆっくり食べな。体が慣れてない」
 しょうががたっぷり細かく刻んであり、体が温まる。鶏やホタテのようなだしが絡む。
 しばちゃんが帰って来た。焼売を仕込んでいた男がしばちゃんに言う。
「端数ももらって来た?」その声は辺りを柔らかく包む。
「ヤン君やめてよ」と言いながらしばちゃんは笑顔で言う。ヤン君と言うらしい。しばちゃんは僕のどんぶりを見ながら言う。
「粥、上手そうだな、リーさん、俺にも粥ちょうだい」
「この子の分しかない。優しいのは作るの、時間かかる」
「じゃあ、おれは優しくないの頂戴」
 しばちゃんの前にあんかけ炒飯と焼売が置かれた。盛大に米粒をまき散らしながら食べる。レンゲと箸はこぶしで握っている。焼売は箸で突き刺す。
「粥が優しいんなら、これはどうなの?」しばちゃんが聞く。
「そうだな、ジャブの切れが良くなるな、もっと稼げる」ヤン君と呼ばれた男が言う。
 カウンターでしばちゃんが僕に言う。
「そうそう、薬、あれ、知ってる先生からもらったんだ」
「しばちゃんの健康保険で?」
「何それ?わかんないけど、先生にてっちゃんのこと話したらくれた。リラックスとサイババ」
 ヤン君が口を挟んだ。
「サイババって何時の話?林先生そんなこと言ったの?」
「言ったよ」
「しばちゃんメモできないからな、後で先生に聞いとくな」
 しばちゃんはあんかけ炒飯をうまそうに食べる。
 後日ヤン君が聞いてくれた薬の名前はリフレックスとサインバルタ。どちらも当時としては新しいうつ病の薬だった。そしてヤン君の身のこなしは周りの空気も操っているようだ。
 リーさんが僕に言う。
「あなた、格闘技やってる?」

 しばちゃんの部屋は文化的な最低限度の生活とはほど遠い。ガスが使えない。電気は使える。電気は多分どこからかから盗んでいる。水道は糸のように細い水が出るだけ。風呂はあるけど、浴槽は割れ、シャワーのホースがちぎれている。毎日万年湯に行くのは大変だ。しかし部屋にエアコンがないので朝と夜のシャワーは必須だ。
 新宿に山の様にある漫画喫茶。そのうちの一つの店に入る。エレベーターで4階まで。「いらっしゃいませ」という言葉を途中で飲み込む店員。しばちゃんは彼らにこやかに手を振りながらカウンターを通り過ぎ、シャワールームに入る。漫画喫茶でシャワーのみの利用はありなのだろうか。
「ブース使うもの何も、お金払ったことないよ」
 しばちゃんが微笑む。
 ここの漫画喫茶はシャワー室と着替える小部屋が1セット。そこから外は云わばパブリックスペース、廊下から丸見えだ。しばちゃんはシャワー室と更衣の小部屋の扉を鍵を掛けずに開け放つ。誰もが見える場所で全裸になる。僕にもそうしろと言う。廊下を行く人は見て見ぬふりをする。
「中で着替えればいいんじゃないの?」
「こんな部屋、怖いよ」
 起きている間は大抵笑顔のしばちゃんがひきつった表情を見せる。生死に関わるものを見た様な顔つき。助けを求める顔で僕を見る。だから僕もしばちゃんと一緒に丸見えの場所で着替える事にした。しばちゃんの背中には手のひら二つ程の龍の入れ墨があった。
 タオルは棚に山積みになっており、好きなだけ使える。と言ってせいぜい2枚か3枚。しばちゃんは10枚以上使う。
「タオル使い放題だからと言ってもさ、10枚は使い過ぎじゃないかな」
「てっちゃん、そもそも俺たち金払ってないぜ、使い放題も何もさ」
 しばちゃんはフロアに響く声で笑う。僕も笑った。
「でもさ、10枚使うのって何だか違う気がするんだよ」
 僕もうまく説明できない。でもしばちゃんは言った。
「じゃあ、そうする。3枚で出来る様にね!」
 そう言ってしばちゃんは体を拭いた。
 僕は気が付かなかった。しばちゃんは背中の龍を消すかの様にタオルで擦っていた。 たくさんのタオルで擦れば消えるかのように。

 大学の空手部はそれなりの充実感があった。道場や高校までと違い、少しではあるが自由な雰囲気が漂う。友人も出来た。空手が絡んでいない友人は小学校以来だ。
 大学の寮に入り、親元を離れたのも良かった。1年生の時はさして良い成績を上げられなかったが、2年になると上位進出を繰り返し、全国規模ではないが名の通った大きな大会で優勝する。部の空気も居心地の良いものだった。講義は期待していたものはなく、時折高校の授業よりレベルの低いものがある。学生には学ぶ意欲がない。講義が騒がしくても教授は特に気にしていないようだ。
 他の大学に編入を考え始めた。名の通った大会で優勝したことで父への義理も100%ではないにしても果たしただろう。自分が受けたい講義がある大学をいくつかピックアップし、その学費など費用面を計算する。国立大学で一つ、私立で二つ希望する学科の編入試験がある。上手くいけば3年次から編入が出来る。学費の面でも3年次からなら何とかなる。
 受験科目は英語と専門科目の小論文。専門科目がネック。今の大学の専門科目、おそらく相当レベルは低いだろう。頑張るしかない。空手部も続けながら。父にまだ知られるわけにはいかない。
 部活に出ながらの受験勉強はキツイ。大会で優勝したことから様々な大学が僕目当てに練習に来る。それにも万全を期さなければならない。更に準備を始めた時期が遅く、4か月で仕上げる必要がある。寝不足と集中力とのせめぎ合い。
 英語は何とかなりそうだ。しかし専門科目が厳しい。大学の図書館に通い詰めとなる。小論文を誰かに見てもらいたいが、予備校などに通う余裕はない。ネットで見つけた方に僅かな謝礼を渡し、オンラインで教えてもらう。段々と小論文の勘所が掴めてくる。
 父が連絡してくる。最近調子悪いそうじゃないか。適当に返事する。
 
 三校受験したうちの本命の一校に合格した。安堵と共にこの話をいつ父に伝えようか。しかし僕も成人している。自分の道を自分で決めたい。
 冬の初め、底が抜けた様な青空だった。 
 実家に帰り、編入合格の報告を両親に話した。母の表情は、ない。
 父は随分長い事黙っていた。僕を道場に連れて行く。道着に着替えさせられた。グローブを着け、父と組み手をする。父は想像以上に僕より弱かった。繰り出す技がスローモーションの様に見える。受け止め、いなす。弱い。倒せる。その時父が言った。
「ここまで育てたのは、誰だ。お前はそのことを忘れたのか。恩義というものを考えたことがあるのか」
 父は繰り返す。繰り返しながら技を繰り出す。お前は恩義を忘れるのか。恩義。
 母が視界に入る。端に正座している。表情のない母の顔。
 父の突き、蹴りをいなすのが出来なくなる。出来ないのではない。力が入らない。一方的に殴られる。殴られながら、悔いていた。かつて僕は父や母に自分の意見をしっかりと伝えただろうか。大学に進む際にそれとなしに伝えた。その時でさえ父の立場を想い測った。それは必要だったのだろうか。そこでしっかりと言うべきだったのではないのか。 
 父は僕の体に執拗に突きと蹴りを入れる。恩義。その重さは果てしなく、永劫に思えた。
 僕は他の大学への編入を諦めた。

 雨上がりの夜、何人かの部員と飲んでいた。酔わず、楽しくもない。
 店から駅に帰る途中、同じぐらいの年齢の、男の子2人、女の子2人が半ぐれの様な若い2人の男に絡まれている。
「ね、このくそダサい奴らといないで俺らと飲みに行こうよ」
 よくある出来事。周りの通行人も遠巻きに見ているだけ。僕らもよけて通り抜ける。絡まれた男のうちの一人が殴りかかろうとするが、返り討ちに逢う。4~5発派手に殴られる。周りに少しだけ緊迫した雰囲気が漂うが、一瞬で喧騒の中に消える。絡んだ男は一人の女の子の手を強引に引っ張る。
「やめてください」
 誰も手を貸さない。男は更に強引に女の子の手を引く。
 女の子のトートバッグが地面に落ち、水溜りに本が何冊か転がった。
 レイモンド・カーヴァー「頼むから静かにしてくれ」吉田秋生「海街ダイアリー/あの日の青空」カール・ポランニー「経済と自由」。
 気が付いたら僕は男二人を叩きのめしていた。一人は顔が血塗れ、一人は腹を抱えてうずくまる。警察が来た。パトカーで連行される。署で事情聴取をうける。僕が喧嘩を止めようとしたことは理解してくれた。しかし怪我をしているのは相手であり、おそらく被害届が出されるであろう、そうなれば逮捕、起訴。「結構、面倒だよ。君、大学生?なかなか難しい状況だね、え、空手部?この後きついなぁ」刑事は言う。
 自分が今どうなっているのか分からない。言えるのは一つも良い事は無いという事だ。全て人の判断に依るしかない。自分で出来る事は、何もない。

「もう、帰っていいよ」
 翌朝、刑事が僕に言う。
「弁護士さん、色々動いてくれたみたいだね。お疲れ様」。
 署の玄関に知らないスーツ姿の男性と母がいた。
「こちら、私の実家でお世話になっている弁護士さん」
 母はやつれた顔。弁護士が言う。
「示談しました。こういうのは早い方がいい。少し金額はかさみましたが、相手は軽傷です」
 弁護士はそう言って足早に去っていった。
「これから厳しい事になるかもしれない。私も助けられない。ここに80万あるから、とりあえず。生きていなさい」
 母はそう言って僕の手を両手でしっかりと、そして長い間握った。

 大学に呼ばれ、その場で処分が下された。除籍。退学ではなく除籍。武道に力を入れている大学の体育会学生が暴力で逮捕。大学側からしてみれば一番起きてほしくない出来事。
 一緒にいた空手部の仲間は「自分たちは関与していない」としか言わなかったらしい。責めることなど出来ない。

 実家に帰る。玄関前に父が出て来た。
「二度とここに来るな。今からお前は他人だ」



 しばちゃんに拾ってもらった身で言うのも何だが、この部屋は人が住むには微妙だ。しかし他人の部屋なので勝手にいじるわけにはいかない。せめて簡単な掃除、簡単な整理整頓ぐらいやりたい。雑巾やほうき、クイックルワイパーなどを買う。とりあえず、部屋の埃を拭う。しばちゃんは僕を珍獣を見るかのような目線だ。ただ、多分、喜んでいる。もう少し調子に乗る。一応了解を得て、乱雑に投げ捨ててある衣類をまとめ、コインランドリーで洗ってくる。それを散乱している段ボールに畳んで重ねる。しばちゃんが言う。
 「この部屋、結構広かったんだね」
 気が付いたのだがしばちゃんはこの部屋に鍵を掛けない。外出するときも、夜寝るときも。流石に不用心なので寝る前に鍵を掛けた。
 先に寝ていたしばちゃんはその音で飛び起きた。
「鍵を掛けないで」
 かすれた弱い声。青を通り越して土色の顔色。震えている。ブルーシートの上に吐いた。慌てて鍵を開ける。
 理由など聞けるわけがない。僕ができることはしばちゃんの横に座り、抱きしめることだけだ。しばちゃんは3時間震えて眠りについた。しばちゃんは眠りながら泣いていた。



 しばちゃん、金は持っていた。部屋の段ボール箱に札が無造作に大量に突っ込まれている。束にもしていない。何で稼いだかは聞かない。必要な時はそこから無造作にポケットに突っ込む。
 「取り出しやすいよ?」
 さすがにまずい。銀行に預ける話をする。しばちゃんは銀行が良く分かっていなかった。簡単に教える。
「銀行はお金を預かって守ってくれるところ」
「へー、銀行がそのお金をちょろまかすことはないの?」
「基本、ない」
「そしたらなんで銀行はお金を預かってくれるの?」
「みんなから預けたお金を他の大きな会社に預ける。返してもらう時に少し足して返してもらう」
「その大きな会社が返せなかったり無くなったらどうなるの?みんなが預けたお金」
 しばちゃんは恐らくまともな教育を受けていない。でもそれだけ。簡単に金融機関の債務不履行、デフォルトまで話が進んだ。
 無いとは思うが聞いてみる。
「しばちゃん、身分証明書とかなんかある?」
「こういう時ね、ヤン君から教わったんだよね、なにそれおいしいの?」
 雑居ビルの部屋は不法占拠らしい。リーさんから空いているから使えと。

 少しお金を掛けて自動車免許と健康保険証を偽造した。ここはお金をかける所だ。安く済まそうとするとぺらぺらのが出来てくる。後々大変だ。
 健康保険証。偽でも医療機関にかかり始めから1か月と少しならごまかせる。その医療機関にレセプトで返戻が来るまで僕らにとって有効だ。
 しばちゃんは病院をはしごした。整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、精神科。整形外科はなんともない、そして何故来たのかと言われる。耳鼻咽喉科はアレルギーの要素が見られるということで鼻からネブライザーを吸入してきた。「めちゃくちゃすっきりする」とはしゃぐ。眼科も異常なし。先生から定期的に来たほうが良いと言われる。「先生がね、すごく綺麗な女の人でさ」。その眼科に3日連続で行った。精神科は「待合室も先生もみんな元気がなかった。どうしたんだろう」。
 僕としては歯科に行って欲しかった。それだけはついていく。案の定ユニットに座り、口の中に色んな器材を入れられると騒ぎ始めた。その声で僕は待合から診療室に走る。しばちゃんがユニットから起き上がり騒ぐ。
「あにすんだ!」
「動くと余計痛いよ!」
「ひゃめて!」
「大丈夫だよ!ここの先生、美人で優しいから!」僕は力をこめて言う。
 先生は目を見開き、僕をみる。
「ですよね!」勢いよく先生を見ながら言う。
「は、はい!」
 30代の女性歯科医師は勢いで頷く。男性の歯科衛生士と僕と歯科医、3人でがっちり押さえて治療を始める。しばちゃんは自分が動くと口の中をやられると分かったのか大人しくなった。涙をボロボロと流す。先生が笑う。「歯石取ってるだけなんだけどね」
 この歯科には申し訳ないので、偽の保険証は使わないで10割の自費診療にした。

 偽の身分証をいくつか駆使し、なんとか銀行口座を開設。段ボール箱全額を入金。路地裏で新品のスマートフォンを酔っ払いから借りる。緩いクレジットカードを契約させ、スマートフォンを持たせ、決済が出来る様にする。
 しばちゃんはいきなり400万ほどチャージしようとし、無事失敗した。

 金曜の夜、一人でコンビニで惣菜を買おうとしていた。店内で二人の若い男たちが中年の男性に絡んでいる。赤い髪と銀色の髪。最初はぶつかった、ぶつかっていないのやり取りだったが、その男たちは中年男性に執拗に絡み始める。
「おっさん、随分と髪が少ないな、ストレスか?髪は大事にしようぜ、お、このドリンクいいんじゃね?」
 売り場の栄養ドリンクを3本ほど中年男性のやれたスーツのポケットに突っ込む。
「おっさん、なんかさっぱりしてるぞ、一発抜いてきたか!どこのねえちゃんに抜いてもらったんだ?その店教えてくれよ、今から3人で行こうぜ」
「何買ってるんだよ、うわー何でまたコンビニで牛丼弁当なんだよ、牛丼屋行けよ!ここのくそ不味い牛丼より遥かにマシだぜ」
「というかおっさん、素人童貞だろ!これやるよ」
 男性のカゴに入っていた牛丼をその場で開け、棚にあるコンドームのパッケージを破り牛丼に突っ込む。
「おっさん、喰おうぜ!ほら」
 店内の客は騒動にかかわらぬ様に目線を伏せ、時々僅かに3人を見る。みな会計をすませ足早に店から出ていく。店員は特に何も言わない。若い2人の行動はエスカレートする。
 僕は何も言わず、赤い髪の襟首を掴み店の外に出た。
「てめぇ何してんだこのやろ!」
 もう一人もついてくる。掴んだ襟首をそのまま地面に投げ捨てた。男はごろごろと転がる。銀髪が僕に拳を振り上げ突っ込んでくる。勢いはある。喧嘩は今まで沢山しているはずだ。でも勢いだけでは勝てない。ここで大きな蹴りを入れると受身も取らず昏倒し、アスファルトに頭をぶつけてしまうかもしれない。膝蹴りを入れる。みぞおちに入る。声にならない、ぐふ、という音を立てて崩れ落ちた。赤い髪が起き上がり間合いを取って近づいてくる。間合いを取るあたり銀色よりマシだ。構えはボクシング。「ひゅっひゅっ」と言いながらジャブを放つ。もちろん避ける。ひゅっひゅっと言うので僕も「せいっ!」と言おうかと思ったが道場が頭によぎったのでやめた。僕はボクシングのジャブに似た、刻み突きで顎を打つ。刻み突きは遠くから一気に間合いを詰めることが出来る。それを続けざまに3発。
 コンビニの入り口横で赤と銀がうずくまる。中年の男性はいつの間にか消えた。
 どこからかしばちゃんが来た。例のひまわりの様な笑顔。
「ずっと見てたよ、てっちゃん強いんだね、ボクシングとちょっと違うけど、何?」
「空手。しばちゃんも何かやってるよね」
 赤が立ち上がる。しばちゃんに手を掛けようとするが、しばちゃんは振り返るや否や見たこともない速さでジャブを放つ。赤はまた倒れた。
「ボクシング。キックも少しならできるよ」
「今でもやってるの?」
「辞めさせられたの。こんな感じの喧嘩に手を出したらそれで終わりっ」
 笑みを浮かべるしばちゃん。
「チューハイでも買って帰ろうよ」
「いいかもね」
 傍にコンドームが突っ込まれた牛丼がコンビニの灯りに照らされて転がっていた。

 しばちゃんとリーさんに仕事を誘われた。リーさんの店は金龍飯館と言う。風俗や飲み屋でのトラブル処理をしている。何かあるとリーさんに連絡が入る。リーさんはこのあたりの中国系に頼られているらしい。
「どこでもね、あるんだよ。人と金が集まれば揉め事が起きるよね」
「女の子がここで働くにはね、その裏に男の力が必要なの。もちろんお店にも男たちはいるけどそれで手に負えない時にね、行くの」リーさんは煙草を吸いながら言う。
「揉め事起こした客にきっちりさせる。もう二度とその店に近づかないように。でもけがさせちゃダメ。顔とか傷つけてもダメ。その代わり上手くやったらその客の財布は好きにしていいから。それぐらいしないとあいつら付け上がる」
 ヤン君が後ろに控える。
「しばちゃんは凄いよ。今まで負けない。綺麗な仕事。相手に見える怪我させない。だからやられても誰も警察にも行かない。パーフェクト」
「もしまずい状況になったらヤンが行くから大丈夫。しばちゃんの時は行ったことないけど」
 リーさんはそう言ってヤン君をあごで示した。ヤン君が小ぶりの月餅とジャスミン茶を持ってきた。ヤン君の歩きはなめらかで足音が聞こえない。月餅は重いので好んで手を出さなかったが、ヤン君の月餅は爽やかだ。
「これ、普通の月餅と違うね、凄い美味しい」僕が聞く。ヤン君は嬉しそうに言う。
「杏を入れたんだよ」
「ヤン君は何をやっているの?」
「料理の見習い」
「いや、そうじゃなくて、格闘技」
「システマ」
 少し驚いた。システマはロシア軍の特殊任務部隊で培われた、生き残るための術だ。格闘技だけでなく、ありとあらゆる武器を使う。当たり前だがボクシングや空手はナイフを使わない。ナイフなどの武器を使い方を知っているシステマはそれだけで有利だ。またシステマは相手の力を使う。日本の合気道にとても似ている。よく考えればヤン君の柔らかい身のこなしはシステマそのものかもしれない。
 彼は多分、とても強い。

 歌舞伎町には中国人の勢力がいくつかあるらしい。ただ、その勢力間の抗争のようなものは今のところほとんどなく、主に日本人ヤクザとのトラブルだ。リーさんは言う。
「あいつらね、ほんと働かない。暇なの。みんなヒモ。だからしょうもない事で店にいちゃもんつけてくる。スーツ着て忙しくしてるとそんな事考えない。お店来て気持ちよくなってそれで終り。みんな平和。暇だとろくな事しない。お店につまらないこと言って騒ぐ」
 ヤン君がつぶやいた。月餅作ればいいんだよ。何か考え始めたら終りだ。

 僕としばちゃんはリーさんからの指示で歌舞伎町のアジアンエステを名乗る店に行く。女の子が客から暴力を振るわれた様子を見ると心が震えたが、じきに慣れた。警察や救急車は呼ばない。店自体が違法だからだ。ホンバン。不法滞在者。税金は払っていない。
 女の子達は大陸から来ている。月150万。体を酷使して300万を稼ぐ子もいる。こんなところに警察呼べば全てがアウトだ。
 女の子に暴力を振るう男たちはどこか寂しげに見える。ホンバンを目当として違法エステに来る。外から来た女の子を見下し、そして暴力を振るう。群れからはぐれ、誰も相手にしてくれない動物。
 実際そうなのだろう。彼らはここでトラブルを起こすとどうなるか、想像力さえない。
 しばちゃんか僕、どちらか一人が女の子をかばい、もう一人が客の相手をする。僕らが行く時点で収まる客はそんなにいない。既に店のボーイの言う事を聞いていない時点で何かがズレている。細心の注意を払って殴る。目立つ外傷や怪我などをされると後々面倒だ。頭を壁や床に打ち付けてもまずい。空手の試合より余程神経を使う。みぞおちは鉄板。呼吸困難になるが一時的。髪を掴んで耳の後ろを打つのも悪くない。平衡感覚が狂い、目の前がぼやける。殴られた感があるから戦意を無くす。人中、鼻と口の間の縦のくぼみが良いという人もいるが、相手の歯が自分のこぶしに刺さる。それは避けたい。
 デリヘルの場合はもっと神経を使う。レンタルルームやラブホテルに女の子が出向く。そのレンタルルームやラブホテルにはリーさんの顔が効かないところもある。部屋を壊さぬ様に、騒ぎにならないように客をしばく。
 しばちゃんが言う。
「てっちゃん、ほんと無表情で殴るよね」
「あのさ、へらへら笑いながらやるしばちゃんの方がよっぽど怖いわ」
 殴られた女の子を運ぶ準備をする。早いうちに店の氷で女の子が殴られた場所を冷やす。これだけで腫れが引くのが随分と早くなる。別に親切心や同情でやっているわけではない。商品。そしてその商品を壊そうとしたのは虫。虫はさっさと握りつぶす。

 しばちゃんは強い。一度総合格闘技をやっているらしい3人が飲み屋で暴れ、そのままアジアンエステになだれ込んだ。僕らが呼ばれる。彼らは酔っていなかった。事が終わり、待合室で服を着ていた。
 「あ、お前ら何し来たんだ」
 総合格闘技はキックボクシングに更に寝ながらのパンチ、キック、膝、肘、関節技が使える。スポーツとしての格闘技では最強と言われる。それが3人いる。3人とも体格、構えがしっかりとしている。たぶん強いのだろう。こんな奴らが総合格闘技で飲み屋や風俗で好き放題している事を考えると腹が立った。しかしよく考えると僕らは空手やキックボクシングで好き放題している。思わず笑ってしまった。
「てめえ、何笑ってんだよ!」
 その瞬間にしばちゃんの姿が消えた。吠えた男の前に滑り込み、低い体勢からカーフキックを右足で蹴り込む。そのまま流れるように姿勢を起こし、右のフックを2人目のこめかみに、そして3人目にはコンパクトな左のストレートをあごに叩き込んだ。3人目は床に倒れ込んだが1人目はよろけながら、まだ立っている。なので僕が上げ突きを顎に、横蹴りを太ももに。ふらついている2人目はしばちゃんがへらへら笑いながらボディをマシンガンの様に連打する。
 最初のしばちゃんの動き始め。僕の目はそのスピードについていかなかった。人は想像以上の動きを目にすると脳が処理しきれないのだろうか。サッカーでディフェンダーが優れたドリブラーやストライカーに置き去りにされるのはこんな感じなのだろうか。
 しばちゃんが言う。
「てっちゃんがさ、笑ったじゃん、そしたら3人とも一瞬力が入っちゃった。あの人たち結構強いよ、てっちゃんが笑わなかったら危なかったね」

 強いやつは自分の限界も把握している。 
 男1人が暴れていると学園イメクラから連絡がある。行くと同時に男がナイフを出した。
「てっちゃん、あれ、何?、なんか反対側になんかギザギザついてるよ、うわー、怖いねぇ。ってかさ、こんな感じなの、学校って」
「まあね、ここ、良くできてるよ。黒板とか本物じゃん。じゃなくてさ、あれサバイバルナイフなんだけど、色んなところの軍隊が使ってたんだよね」
「あの刃の反対側のギザギザって何に使うの?」
「のこぎりになるんだけど」
「じゃ、刺されたら、体がぎざぎざとやられるの?」
 男が怒鳴る。
「お前ら何に喋ってんだよ!そこ、どけよ!」
「いやぁ、ナイフは怖いよ、しばちゃん」
「だよねぇ」
 学校の教室をイメージした部屋。机や椅子がいくつかある。僕らは椅子やテーブルを男に向かって投げた。ひたすら投げる。荒れた学校の様になってしまった。
 男は何脚目かの椅子が投げられた時にナイフを落とした。僕がすぐさま拾い、しばちゃんは椅子をどかしてすかさずジャブ、そしてハイキック。倒れたところを僕が結束バンドで男の後ろ手にし、縛る。
「ナイフは怖いわ」しばちゃんが言う。
 ナイフは怖い。その通りだ。映画やマンガでナイフを持つ相手に、手首を叩きナイフを払ったり上着を盾にするという話があるが、僕は考えられない。ナイフを扱うのが下手なやつは動きが読めないし、手が滑って投げられたらたまらない。上手なやつに素手で立ち向かうのは無理だ。相当な手練れじゃないと素手でナイフには立ち向かえない。ナイフをもった奴には、何か投げるか、逃げるかだ。
「ねぇ、学園イメクラでなんで暴れちゃったの?」
 手首と足を縛られ転がされた男にしばちゃんがしゃがんで聞く。男は黙っている。40代ぐらいだろうか。身なりはきちんとしているが、スーツはロードサイドにある量販店。サイズがあっていない。スーツから財布を取り出す。身分証がある。誰も知っている大手電機メーカーの地方研究所。しばちゃんは言う。
「てっちゃん、この身分証とかどうする?」
「もらおうか」
 慌てて男は「身分証だけは勘弁してくれ」と言う。僕が聞く。
「なんか色々言いたいことあるんでしょ、何で暴れたの。」
 男は目を伏せ、しばらくためらってから言う。
「違ったんだよ」
「何が?」
「髪型が」
「え?」
「ここさ、学園イメクラだろ、女の子の制服と髪型がリアルじゃないとだめだろ、そういうところだろ」
「どゆこと?」
「学園だからさ、高校生とかに近いイメージがいいんだよ」
「で?」
「ネットのプロフ写真でみた女の子がおさげだったの、昔好きだった女の子がずっとおさげで」
 しばちゃんは前のめりで聞いている。
「で、その子指名した、そしたらブレザーの制服リクエストしたのにセーラー服で。おまけにおさげじゃないの。俺、ブレザーの制服でおさげの女の子とプレイするのが夢だった。それで頼んだの。おさげにしてくれって。そしたらさ、すっごくめんどくさそうに断られて、雑にプレイ始めようとしたんだ。俺さ、おさげが好きで、こんな店、俺の地元にないから、今日楽しみで来たんだ、休み、全然取れなくて、昨日、夜行のバスで来たんだよ」
 今日、女の子は無事だ。身分証明など財布に返し、現金は全部もらった。

 リーさんが僕に言う。車を使ってくれないか。
 車があると現場から酷い目にあった女の子を直ぐに連れだせる。ただ、この場所で車に乗っていると警察に尋問される確率が跳ね上がる。無免許、不法滞在。僕は自動車免許を持っている。僕が運転し、違反さえ起こさなければ大丈夫だ。リーさん界隈で今それが出来るのは僕しかいない。免許は持っているけどみんな偽造。警察には見せられない。
 中古車を買いに行く。金はリーさんが出してくれる。いい車じゃなくてぼろい車。でもあまりにぼろいと直ぐに職質に合う。きれいで、ぼろいの。
 8万キロ修復歴なし、ワゴンR。12万円。きれいで、ぼろい。
 しばちゃんが言う。
「青だよ、この車、ブルーシートみたいだよ、最高じゃん」
 これを欲しいと店員に伝える。古いプレハブの事務所で手続きを始める。17万円という数字を示される。そうだった。登録手数料とか税金とか取られるんだった。腑に落ちないけど、まあ、しょうがない。
 後ろで、しゅっという音が物凄い勢いで聞こえ始めた。しばちゃんがとんでもなく速いシャドウボクシングを始めていた。しばちゃんはそういうつもりなのか。僕が言う。
「12万で全部やれよ」
 しばちゃんのシャドウボクシングで顔色が悪くなった店員が少し震える声で言う。
「税金とかありますんで、これ12万円でやると私ら大赤字ですよ」
「俺には、関係ないな。12万円って書いてあるよな」
 しばちゃんが割り込む。
「僕よりこの人のほうが強いよ」
 僕は随分前に気が付いている。しばちゃんの方が強い。でもここは乗る。
 パイプ椅子に思いっきり浅く座り、両脚を古ぼけたテーブルに音を立てて載せる。
「だからさ、12万円でいいだろ」

 帰り道、しばちゃんが言う。
「あの座り方、一番ヤバいよね、隙だらけ、どんな弱い奴にも負けるよ」
「知ってるよ、演技だよ演技。そういうの知らない奴に一番効くの」
「今度、やっていい?」

 2週間後、車を取りに行く。事務所でしばちゃんは椅子に思い切り浅く座り、いきなり両脚を高く上げ、テーブルに叩きつけた。派手な音を立ててテーブルは破壊された。しばちゃんは「ごめんなさい!」と謝り、5万円だした。
 僕らは17万円でワゴンRを買った。

 17万の軽自動車で現場から女の子を運び出す。高田馬場にいるモグリの医者に見せる。これが林先生だ。50過ぎだろうか。軽妙な話し方、柔らかい印象だが、時に見せる目つきが鋭い。それでいていつも食べ物を口の左上に必ずつけている。この間はチョコレートだった。今日は米粒。
 林先生がしばちゃん経由で僕にうつ病の薬を処方した。マンション2部屋を診療所にしている。抗争中のヤクザが同士が鉢合わせすることも多々あるが、この診療所近辺では何もしない。林先生は初めて会う僕に言った。
「命と金と時間。この3つに「無駄にした」ってくっつけろ。結構重いだろ。逆にこの3つを使いこなせばそれなりの人生が待っとる。で、うちは命が担当。みんなにわかりやすい危機感があって一番重いだろ。だからここの周りで事を起こす奴はいない。変な気を遣わずに怪我した奴運んで来い」
 僕は店の女の子を連れて頻繁に林先生の所に行くことになる。

 何日か後、林先生のところに客に殴られた女の子を連れていく。しばちゃんは現場に残り後片付けをしていた。勝手に転んで頭を打った客や、やむを得ず目立つ怪我をした奴を病院の近くの路地に放置する仕事だ。
 女の子を先生に見せ、ベッドに寝かせる。殴られたというより平手打ちの連打の様で、跡は残らないで済みそうだと林先生は言う。この診療所は看護師などのスタッフがいない時が多々ある。そんな時は僕やしばちゃんが駆り出される。
「この子はとりあえず安静だ。お前空手やってたんだろ」
「まあ」
「まあってなんだよ、RISE、分かるだろ」
「はい」
「それやっとけ」
 6人ほどの患者が待合室にいる。
 RISEは安静、冷却、圧迫、拳上のことだ。安静にし、氷嚢などで冷やし、圧迫して、患部を心臓より高い所に置く。僕は彼女の顔に氷嚢をあてがい、背中とベッドの間に枕を幾つか入れた。先生が見に来る。
「お、悪くないな、20分ぐらいで冷やすの止めてやれ。それが終わったら少し休んで帰らせろ。こいつがいるから、お前はもう少し手伝え」
 先生が顎で指した先。一重瞼、元々の目つきは鋭いのだろうが、覇気がない虚ろな目をした40代の男。高そうなネイビーのスーツに仕立ての良い白いシャツ。スーツと同じ濃い色のネイビーソリッドタイ。大手広告の営業にも見える。清潔感がある。しかし覇気がない。指を動かすのもしんどそうだ。
「お前さ、点滴やれ」
「は?」
「だから、こいつに点滴してやれって」
「何言ってるんですか?俺看護師とかじゃないですよ」
「練習すればいいんだよ、その奥にさ、練習キットあるから」
「出来るわけないですよ」
「お前の蹴り、なかなか凄いらしいじゃないか。最初から出来たのか」
「そりゃ、出来ないですけど」
「じゃ、やれよ。俺、結構忙しいんだよ」
 スーツの男は治療室のベッドで横になっている。点滴。焦るというか一歩間違えれば体に傷をつけてしまう。細菌とか体に入ったらどうするんだ。薬剤が入った段ボールに足をひっかけて倒す。
「おい、お前まさか人の体に何かやらかしたらやばいとか考えているんじゃないだろな?いつも蹴りとか突きとかやってるんだぞ、お前は」
 まあ、そうかもしれない。
 棚に肘から先の腕が何本か置かれている。多分これが点滴の練習キット。
「なんか説明書とかないんすか?」
 隣の部屋の林先生に聞く。
「お前のスマホはyoutube見れないのか?」
 確かに。
 手を念入りに洗う。
「練習だからテキトーにやれ!」
 三人同時に診察している林先生が隣の部屋から怒鳴る。僕はスマホでyoutubeを見ながら練習する。youtubeに点滴の打ち方まであると思わなかった。看護学校か何かの動画だ。ポジション。患者に正対するのがいいらしい。駆血帯をしっかり縛り血管を探す。丁寧に時間を掛けると良いと言う。そりゃそうだ。血管触る、硬さの確認。硬さなんか言われてもわからない。皮膚を引っ張り血管固定、刺す角度が10度から30度。分度器が欲しい。
 2回ほど練習し、ニトリルグローブを着けスーツの男の傍に行く。
「気にしないでブスブスやってくれ」
 虚ろな目で男が言う。余計緊張する。点滴ルートに食塩水を満たし、駆血帯を結び、血管を探す。幸いにこの男の血管は太くて刺しやすそうだ。それでも汗が吹き出る。アルコール消毒面で拭う。すっと針が血管に入る。薬剤が入って行く。点滴の速度は、なんとなくの速度にする。
「痛かったですか?」
「大丈夫」
 スーツの男が答える。
 林先生の部屋を覗く。とりあえず患者ははけた様だ。
「上手くいったか」
「はい、なんとか」
 男はすぐに寝息を立てた。
「あいつはな、やくざの金庫番。経理、資産運用。資産運用のノルマは年率15%だって。今時の構成員だな。見た目じゃ分かんないよな。なかなか大変らしいぞ。系列の他の組の運用も請け負っている。損出したら命取られそうだな、ストレス半端ない」
「そういう個人情報喋って大丈夫なんですか?」
「お前、ここ、病院とかと思ってるのか?ここはただの俺の家だ。何喋ってもいいだろ」
 確かに。
「こいつ、この間雑貨屋で見かけたんだ、女の子受けするような小物がたくさんある様な店あるだろ。あいつカエルの縫いぐるみ手にとって呆然としてるんだよ。俺に気づいてな、言うんだよ。『先生、見てください、このカエルだけ、口が少し歪んでいるんです、他のカエルはみんなちゃんとしているんです』。見るとさ、そのカエルだけ縫製が少しずれているんだよ、口から鼻が。顔が少しいびつに見えるんだ。あいつぼろぼろ泣くの、これ、まるで僕ですってな」
 林先生は僕にスーパーで一番安いオリジナルブランドの烏龍茶を渡し、続ける。
「あいつ、そのカエルを何とかしなきゃとか言い出してさ。でもそんなの買ってあいつの目の届くところにあったら、あんまりよくない気がしてな。だから俺が買った」
 林先生が指を指した棚の上に口をひきつらせたカエルが座っている。
「あの点滴はうつ病の薬ですか?」
「うつ病と言うより抗不安薬だな。ジアゼパム。点滴する医者は少ない。点滴時間かかるだろ。ベッドも必要だし、その間管理しなきゃならない。でも点滴でがっつり寝てもらう。うつ病とかあの辺は眠りが浅い奴が多い。だからここで2時間ぐらい深く寝て少し楽になる。かなり楽になるぞ。まあ、古いやり方かもしれないけどな。お前も本当はここで点滴すればよかった」
 林先生は寝ている金融やくざに処方する薬を僕に持ってこさせる。エチゾラム、リーマス、ラモトリギン。
「僕がもらった薬と違うんですね、あ、薬ありがとうございます」
「先にそれ言え。あいつの薬は双極性障害、昔でいう躁うつ病だ。こいつは2型って言って1型よりはなだらかだけど、躁のハイテンションの時は一緒にいると少しうっとおしい。そうそう、お前はしばちゃんに感謝しろ。お前の様子を説明するしばちゃんの話は分かりやすかったぞ。寝てるのに弱々しくセイッとか言う、夜中に何度も情けない声で押忍とかいう、朝になっても起きているのに起きられない、食べる時は口からぼろぼろこぼす、飲むときは半分ぐらいだらだら垂らす、食べるのすぐやめる、飲むのもやめる、トイレに行こうとして途中で倒れてそのまま漏らす、漏らしてもそのまま。瞬き少ない、口ずっと開けてる。お前がどんな状態なのか手に取るようにな。経過報告も良かったぞ、この間はトイレまで五歩で漏らしたけど今はあと一歩まで辿り着いてから漏らすとかな」
 全然覚えていない。
「まあ、しばちゃんには感謝しておけ」
 林先生は烏龍茶を飲みながら、「腹減ってるだろう」と言いながらテイクアウトボックスを2個出してきた。五目御飯。当然金龍飯館だ。
「金龍飯館もうまくやっているようでぎりぎりだからな」
「何がですか」
「知らないのか、リーさん、青幇って中国の古い組織の流れを組む所にいたんだ。大昔はアヘンとかやってたらしいけど、今は薬とか殺しはやらない。売春がほとんどな。古参だからこの辺のヤクザとはバランス良く付き合ってたけど最近は半グレとかチャイニーズマフィア、黑社會とか出てきたからバランス崩れて大変なんだよ。中国のアンダーグラウンドから見ると目の前の日本はブルーオーシャンだ」
 林先生は五目御飯を床に飛ばしながら喋る。
「リーさんも大変だ。大国に挟まれたポーランドみたいなもんだ、あ、ポーランドだとやられちまうな」

「しばちゃん強いだろ」
「そうですね、僕が今まで見た中で一番強いと思います」
「しばちゃん、インファイトもアウトボクシングも両方相当なレベルで出来るんだよな」
 インファイトは接近戦を中心とするスタイル。間合いを一気に詰める瞬発力系のスピードが必要だ。アウトボクシングはカウンター中心で、相手の攻撃を避けながら、カウンターパンチを繰り出す。動体視力が良く、相手を冷静に分析する頭が必要だ。両方できるしばちゃん。新宿の路上で生き抜くには、一番適したスタイル。
「才能あるんだよな、でな、アイツ努力も出来るんだよね。天才って努力しないやつ多い。しばちゃん、才能あって努力できて。残念だよな。世界行けたかもしれないのにな」
 中華のテイクアウトボックスは一番底の米粒が食べづらい。林先生がしつこく底をあさる。僕は前から気になっていた事を聞いてみる。
「しばちゃん、なんでボクシング辞めたんですか?」
 林先生は少し間を開けた。
「どうも微妙なんだよな、喧嘩に巻き込まれたのは確からしいけど、しばちゃんが手を出した話が具体的に伝わってこないんだよ。でもリーさんがすぐにジム辞めさせたんだよね、迷惑がかかるって。辞めさせるほどじゃないような気がしたんだが。まあ、ジムに暴力が絡む噂は致命的だからな」
 林先生は続ける。
「もともとリーさんが拾って、リーさん達が育てたようなものだからしょうがないよな。親の言う事にしっかり逆らえるのは意外と難しい」

 しばちゃんは車が必要ない時も車に乗りたがった。聞くと今までバス以外はほとんど乗った事がないらしい。バスも数回。新宿界隈から出る必要がなかったのだろう。
 助手席に大はしゃぎする。後部座席に殴られた女の子を乗せる時はその横にしばちゃんがいて欲しい。そう言うとしばちゃんはクリスマスプレゼントが来なかった子どもの様に落ち込む。
 しょうがない。17万のワゴンRで出かけることにする。朝3時にしばちゃんは満面の笑みで僕を起こす。 
「漫喫でシャワー、浴びさせてよ」
 頼むが全く聞いてくれない。仕方ないので出かける。しばちゃんが僕の手を取って駐車場まで行く。しばちゃんが一番喜びそうなルート。どこを走るかは前もって考えておいた。
 梅雨の合間の日曜日の朝。日が昇る前の暗いうちに首都高に乗る。新宿から三宅坂ジャンクション、そして谷町ジャンクションと進む。ビルの合間を縫うように狭い道が続く。高架からトンネル、そして高架。車で進むジェットコースター。日曜の朝なので車は周りにいない。17万のワゴンRは盛大なエンジン音を響かせる。
 しばちゃんはずっと歓声を上げている。はしゃぎすぎてコンビニで買ったアイスカフェラテを盛大にこぼす。車のダッシュボードから僕のパンツまでカフェラテで染まる。
「あれ!東京タワー?」 
 良くあるビル。
「あれ!スカイツリー?」
 その辺のビル。
 首都高速は世界にも稀にみる複雑な分岐が多数ある道路だ。久しぶりなので集中して走る。しばちゃんは言う。
「ねぇ、こんな速くて道路間違えないの?」
「上に看板あるだろ。あれ見ながら走る」 
 しばちゃんはしばらく看板を見つめていた。 
 海が近づく。気持ちが良いので窓を開ける。夏の風が僕らのシャツを羽ばたかせる。しばちゃんはシートベルトを外し窓から身を乗り出す。追い抜いた全ての車に手を振る。トラックがそれに応えてクラクションを軽く鳴らす。
 日が昇る前の深い藍色が僕らを包み、それが橙色に変わる。レインボーブリッジで海を渡る。しばちゃんは僕を見て静かに微笑む。
「部屋の青いシート、海のつもりだった。誰かに聞いたんだ。テレビでない海は素敵だって」

 帰り道、しばちゃんはずっと歌っていた。
 
 このまま どこか遠く 連れてってくれないか
 君は 君こそは 日曜日よりの使者
 たとえば この街が 僕を欲しがっても
 今すぐ出かけよう 日曜日よりの使者 

「それ何の歌だっけ?」
「知らない」

 帰って調べた。ハイロウズの「日曜日よりの使者」だった。

 金龍飯館に行けばいつでも飯がタダで喰える。今日は別々で仕事だったので金龍飯館で待ち合わせにした。他に客はいない。リーさんが蒸し鶏を出してくれた。
「口水鶏ね」
「何ですか、その名前」
「よだれ鳥。よだれが出るほど美味しい料理」
 塩味の蒸し鶏に辛味のたれがかかる。いくつでも行ける。
「辛味。もう少し欲しいかな」
 リーさんが豆板醤を皿に寄こしてくれる。入れすぎた。むせて涙が出る。
「涙が枯れるって言うよね」しばらくしてリーさんが言う。
「しばちゃんはね、枯れたことがあるの」
「どういうことですか」
 リーさんはカウンターの中の丸椅子に座り、煙草を吸い始めた。
「読んだり書いたり出来ないの、分かるよね」

 何となく気が付いていたが、しばちゃんは読み書きが出来ない。読むのは平仮名だけ。最初はわからなかったが、あれ、これ、で上手く会話する。書いているのは見たことがない。

「ホスト崩れのお父さんとそれに貢いでいたキャバクラの子の間に生まれた。お母さんはキャバクラで頑張っていたけどなかなか指名が取れなくなってね、そしたらお父さんが殴るのよ。お金が足りないから。まあ貢いでいた時点でお金の流れは決まっているから。キャバクラからヘルス。その子、まだ20歳で遊びたい盛りだったのね」

 僕はポットに入ったジャスミン茶を茶碗に注ごうと思ったけど、ポットを持ったまま、カウンターに戻した。注いだジャスミン茶がこの後の話で飲めなくなるような気がした。リーさんはそのポットから自分の茶碗に注ぐ。

「お父さんも遊びたい盛り。だから離婚。しばちゃんは7歳になっても小学校に行かなかった。ランドセルを背負った事がないの。家にお母さんはほとんどいなくて、玄関に500円が落ちてるの。置いてるのじゃなくて落ちてるの。それ持ってコンビニ行くんだけどそこで会ったの、私と。瘦せた子が栄養にもならないお菓子とか買うの。パジャマみたいの着て、それが汚くて臭いの。このままじゃ死んじゃうと店に連れて来た。お粥と柔らかくした蒸し鶏。眼に何にも映っていない。食べ終わったら何も言わずに帰ろうとしたからヤンに風呂入らせて。新しい服着させて。暴れたら困るなと思ったけどまるで動かない。生きた人形よ。でもそれを3日に1回ぐらい、もう少したくさんかな、繰り返してたら段々何見てるか分かるようになったし、ヤンが目の前でおどけたら少し笑う様になった。知ってる?子ども一日に何回笑うか。大人は4回だって」
「20回ぐらいですか?」
「400回。400回笑わなきゃならないのにしばちゃん、ここで何とか一日2回しか笑わない」
 僕の周りから少しずつ音が消えていく。リーさんは続ける。
「お母さんがここに怒鳴り込んできたの。役所からお金もらえなくなるって。全部勘違いしてるの。子どもが貧しそうにしているから、児童扶養手当とか子ども手当をもらえるって。ヤンが説明したけど、分かる訳ないよね。まあ、他人の子だから、あんまり関わるのもどうかと思うし。しばちゃんにはここに来たらご飯あるからって言っておいた。時々来るから少しだけ安心」
 リーさんは2本目の煙草に火をつけた。
「お母さんが男と旅行に行った。3週間」
 リーさんは続けた。
「それまで3日に一回ぐらいは来てたけど、全然来ないから心配になって。マンションの場所までは分かっていたんだけど、部屋が分からない。そこ3棟で200戸もあるの」
「警察には?」
 リーさんは鼻で笑う。
「他の奴らに声かけようと思ったけど、子どもの問題になると勝手に自分の子どもに重ね合わせて突っ走る奴いるでしょ。私とヤンで200戸探すことにした。探すって言っても住んでいる人いるわけだから。ノックとかインターフォン鳴らして、出ない所には目立たないところに付箋貼る。それ繰り返した。2巡目は付箋のある所だけノックする。でも1巡目で見つかった」
 リーさんはジャスミン茶を飲み干して言う。
「外から見てすぐわかった。あんな玄関のドア見たこともない。内側から開かないように、外のドアノブに大きなチャイルドロックつけてあるの。鍵が付いたチャイルドロック。チャイルドロックって子どもを安全にするためのものでしょ。それだけじゃなくてドアの隙間に補助錠も。ドアノックしても反応ないし。ヤンが鍵に詳しいのに連絡して待ってた。そしたら中から聞こえるの。小さい音でひゅーひゅーって音が。何の音か分からない。耳をドアにつけてようやく聞こえる、ひゅーひゅーって。ドアが開いたら玄関にしばちゃんが倒れてる、ガリガリに瘦せたしばちゃん。指を鼻先に持っていってようやく息しているってわかる。ヤンが片手で簡単に持てる体重。すぐに林先生ところに連れていった。とりあえず点滴。栄養治療食ってわかる?」
「いや」
「手のひらぐらいの袋に入ったピーナッツバターみたいなの。プランピーナッツとか言ったかな。エチオピアとかタンザニアの飢えた子どもたちに食べさせる。林先生どっからか持ってきて、まさかこれをここで使うとは思わなかったって」
「次の日、しばちゃんがいた部屋見に行った。ドアの色んなところがへこんでるの。集合住宅のドアって鉄でしょ。よく凹ませたよね。窓もボンドとかで固定されてるの。全部ひびとか入ってるけど割れてない。あれ丈夫なのね。もともと痩せてた子どもの力じゃ無理なのかな。菓子パンの袋が5枚。冷蔵庫はドアが外されて倒れてた。シーツが散乱してた。端が千切られている。何でかなと思ったけど、食べてたのね、シーツ。至る所が壊されていた。全部しばちゃんが生きようとした跡。ドアの外からひゅーひゅーって聞こえたのもしばちゃん。声、頑張って出した」
「3週間閉じ込められた子どもがひゅーひゅー言うのは強い。閉じ込められた子は強くなる」
 7歳にして絶望の淵に立たされた。鍵が絶望そのものだった。

 しばちゃんが運転免許を取りたいと言い出した。
「偽造すれば何とかなるかもしれないけど、後々結構面倒だから、住民票だけでも何とかしなくちゃね」
 僕が言った。
「んー、それ結構大変そうだから、準備だけしよう」
「準備って?」
 しばちゃんはふんふん言いながら席を立った。
 準備。なるほど。
 運転免許はともかく、この際文字を勉強するのはいいかもしれない。書店で小学校一年生のひらがな書き方を買ってくる。気が付いた。この部屋にはテーブルがない。床で書きものはさすがにしんどい。
 調達しよう。ついでにベッドや新しいマットレスも欲しい。
 
 しばちゃんとおそろいの作業着と帽子を用意する。それを着て昼間、大きな家具屋の地下搬入口から営業中に入る。事前に目星を付けておいたものを売り場から運び出す。売り場で搬入業者のふりをして大きな声を出す。
「この一式、来週頭に同じものが柏支店から戻ります」
 丁寧に一式の型番と品名をあらかじめ店の伝票に記入していた。店員に渡す。伝票はしばちゃんが前もって盗んでいた。
 誰も追って来ない。ベッド、マットレス、リビングダイニングテーブル、椅子。一式手に入れる。夏用のカーペットまで運ぶ。掛け布団を忘れたので、また伝票に書いて持ってくる。それとカーテン。
 ついでにエアコンも設置したい。夏にエアコンなしは中々厳しい。さすがに伝票で持って来ることが出来ないので家電量販店に行く。
「一番大きいのって何畳なの?」
「29」
 ぶっきらぼうに答える中年の店員に見覚えがある。
「殴られた耳の後ろは大丈夫?」
 店員が僕を見る。眼が見開き、顔色が土色になる。
「エステでホンバンってどうだったかな?」
 気が付くと店員の後ろにしばちゃんが回り込む。
「俺たちの部屋さ、30畳ぐらいあるんだけど、どれがいいのかな」
「こちらにありまするラインナップがよろしいかと思われます」
 すさまじい敬語を使い始めた。声はかすれ、震えている。
「これだと200vになるからその工事も必要だよね」
「はい」
「本体費用と工事、すべて込みでおいくらかな?」
 店員は震える手で電卓を叩く。しばちゃんが横から店員がはじき出した数字をオールクリアにした。
「これで行けるよね、あ、さっき見たんだけどさ、ここ、お風呂も売ってるんだね」
 僕は笑った。ユニットバス、工事費含めて80万は超える。いくら何でもさすがに無理だろう。しかし店員は震える手で勝手に電卓の数字をオールクリアにする。
 僕らは40万を超える最上級のエアコンと90万近いユニットバスで快適な夏を迎える事になった。
 もう一つ大切な事がある。念のために家主に聞いておく必要がある。
「ブルーシート、いかがしましょうか」
「これまで頑張ってくれたけど、そろそろ良いと思います。ありがとうございました」
 しばちゃんはそう言ってブルーシートを優しくなでた。 
 コンクリート打ちっ放しの上に洒落たカーペット、リビングダイニングのセット。ユニットバスにハイグレードのエアコン。噓の様にしゃれた空間が出来た。そして強い日差しから僕らを守るカーテン。
 床をごろごろとしばちゃんが笑いながら転がる。しばちゃんはずっと転がっていた。

 しばちゃんは喜んでひらがなを書き始める。勉強を教える際の一番の障害は生徒のモチベーション。家庭教師は何も言わないでも勝手に勉強する子には呼ばれない。勉強が1人で出来ない子や授業形式だと集中出来ない子から呼ばれる。
 しばちゃんと僕は一対一の家庭教師の形であったがモチベーションを鼓舞する必要はまるでなかった。
「てっちゃんは看板を見ながら高速道路走ったんだよね、看板読めないと話にならないでしょ」
「銀行とか家具屋とか電機屋行っても書いたりすることあるでしょ」
 ひらがなはある程度読めたのでいけると思ったが、読むと書くは別の次元だった。鉛筆の握り方から始める。しばちゃんは箸やスプーンと同じ様に拳で握る。
 シャーペンを渡したが続けざまに4本へし折る。鉛筆にする。続けざまに2本折った。正しい握り方を教えてもへし折るのは何故だ。上腕や指先は力が入っているように見えない。しばちゃんが書く姿をしばらく見ていた。腰が入っていた。ストレートやフックを打つときの一瞬のスピードが鉛筆を折らせた。
「あ」「ね」「わ」「ぬ」
 このあたりを苦戦するのは予想通りだが、
「い」「り」
 書いた字の区別がつかない。どちらも縦に書かれた2本の棒。「い」と「り」が並ぶと4本の棒となる。
 頃合いを見て漢字に移る。僕の時とは違う習得方法があった。10個程の漢字を1分30秒見る。そして書く。出来ないところは30秒ほど見る。そして書く。3回ほど書いて結果一度に10個覚える。しばちゃんは気持ちの良いスピードで覚えていく。
「てっちゃん、俺、九九は知ってるよ!」
「言ってみな」
「ににんがし」
「お!やるじゃん!」
 よく聞くと「し」が違う。4じゃない。2×2=「死」。死死16。死後20。「死」に関わる所だけ覚えている。どっかの店のボーイから教わったらしい。
 
 しばちゃんは暇さえあれば読み書きをしていた。
 僕らは風俗店や飲み屋に客が入る時間帯からが仕事だ。もちろん自主的に「仕事」をする時もあるけど、朝方に眠り、昼過ぎに起きる。朝8時。僕らにとって深夜。その時間からビルに響きわたる音読が始まる。

「広い海のどこかに、小さな魚のきょうだいたちが楽しくくらしていた。みんな赤いのに、一ぴきだけは、からす貝よりもまっくろ。およぐのは、だれよりもはやかった。名前はスイミー」

「むかしむかし、モンゴルの草原に、スーホという歌の上手な若者がすんでいました。 スーホはお母さんと二人で、ヒツジをかってくらしていました。ある日スーホは、ヒツジに草を食べさせにいったきり、日がくれても帰ってきません。お母さんが心配していると、スーホは生まれたての白い子ウマをだいて帰ってきました」

 最初は眠りを妨げられるのがしんどかったが、しばちゃんの音読は驚異的に上手になっていく。大きな声だが、その声は柔らかい。そしてしばちゃんが選ぶ童話はどれも優しく懐かしい。「スイミー」「スーホの白い馬」。そのうちしばちゃんの大音量音読でも眠れる様になった。

 「寒い冬が北方から、きつねの親子の住んでいる森へもやって来ました。ある朝、ほら穴から子どものきつねが出ようとしましたが、「あっ。」とさけんで、目をおさえながら、母さんぎつねのところへ転げて来ました。「母ちゃん、目に何かささった、ぬいてちょうだい、早く早く。」と言いました。母さんぎつねがびっくりして、あわてふためきながら、目をおさえている子どもの手を、おそるおそる取りのけてみましたが、何もささってはいませんでした。母さん狐は洞穴の入口から外へ出て始めてわけが解りました。昨夜のうちに、真白な雪がどっさり降ったのです。その雪の上からお陽ひさまがキラキラと照てらしていたので、雪は眩まぶしいほど反射していたのです。」

 しばちゃんは新美南吉の「手袋を買いに」を気に入った。理由を聞いた。
「何から何までみんな優しい」

 今日もしばちゃんがテーブルに向かっている。1週間で5冊はノートを使う。ここまで前のめりだと、僕に欲が出てきた。生きて行くうえでとりあえず必要な勉強って何だろう。読み書き以外だと、算数。それから大まかな社会の仕組み。この3つだろうか。
 算数も同時並行で教えることにする。読み書きを習得しないと算数は厳しいかと思ったが、問題文もそのまま読み書きの練習にすればいい。

【はとが254羽います、あとから72羽とんできました。はとはなん羽いるでしょうか】

「世の中にはとんでもない奴がいるぜ、てっちゃん。参ったな。こいつ地面のちょこまか動く鳩数えたぜ。おまけに飛んでくるまで鳩数えたよ、飛んでる時数えた?いや、さすがに飛んでる時には数えられないか。あ、でも地面に降りれば前の鳩とごっちゃだぜ」

 しばちゃんはさらに喰いつく。プラスチックが元は石油という液体であることを知る。エアコンの筐体を触りながら言う。
「これが水と同じとは」
 沸点、融点、凝固点。これは理科。理科もある程度必要と考え直す。
 社会は今の生活につながる地理を主にやり始めた。
「滋賀県ってすげぇな」
「何が?」
「滋賀県、これ、ほぼ琵琶湖だよね」
「どういう事?」
「滋賀県の人は細い道で暮らしてる。野球、出来ないね」

 小学校の漢字をほぼ終えた時に、本を渡してみる。新田次郎「八甲田山死の彷徨」、井上雄彦「スラムダンク」。ずっと一人だったしばちゃんに団体の良し悪しを読んでもらう。
 八甲田山死の彷徨。厳寒の八甲田山中、旧日本陸軍が大した装備も持たず、無謀な雪中行軍訓練を行う。その上、組織を率いる無能な上官が我田引水の指示を出し指揮系統の混乱を招く。ついには199名の死者を出す。
 スラムダンクは個性が強いキャラクターが集まるチーム。その個性をお互いに活かすチームメイトや監督の安西先生。
 しばちゃんは安西先生とゴリを崇拝し、山田少佐を憎む様になる。
「この山田少佐はここでは偉いんだよね」
「まあね」
「この山田少佐がくそ寒い八甲田山でみんなの行き先を決めるんだよね」
「そうなるね」
 しばちゃんはシャドウボクシングを2分ほどして言った。
「例え、くそ寒い八甲田山でも、上手く行かなくても、何とか自分で考えたい」

 その日は深夜2時を過ぎていた。金龍飯館で焼売と青椒肉絲飯を弁当にしてもらった。リーさんは遠慮しないでここで食べて行けと言ったが、何かあったのかリーさんの目元に疲れが見える。しばちゃんと閉店の後片付けを手伝う。
 月が綺麗に出ている。風があるせいか街から昼間の熱は引いている。気持ちの良い夏の夜。歌舞伎町弁財天の前で弁当を食べることにする。リーさんの青椒肉絲飯は豚肉が小さなブロック状になっている。絶品だ。近くのコンビニでビールを買う。缶の表面にうっすらと水滴が着く
「免許取るのに何がいるんだっけ」
 しばちゃんが米粒をぼろぼろ地面に落としながら言う。
「住民票と健康保険証はとりあえずいるのかな」
「住民票ってなに?」
「ここに住んでいますよって証明してくれる書類」
「あのビルの部屋でいいのかな」
 あの部屋は不法占拠に近い。リーさんが何かのカタとして奪ったらしいビルの部屋。それを借りている。リーさんはしばちゃんに一緒に住もうと言ったらしいが、しばちゃんは一人で住むと伝えた。リーさん曰くそんな奴は今までいなかったと言う。しばちゃんは僕と出会うまで、あの何もない部屋で鍵をかけずに一人転がっていた。
「あの部屋で住民票って取れるのかな、調べるわ」僕が言う。
「住民票がないということは住所がないの?」
「まあ、そうなるね」
「それじゃ今は僕たち住所がないのか」
「そうそう、住所不定」
「今日、テレビで車の強盗が捕まったって言ってた。その時ね、じゅうしょふていむしょくって言ってたんだけど」
「住所不定無職か」
「無職って仕事してないって意味なのかな?」
「まあ、そうだね、大まかだけど、決まった仕事についていないって事かな」
「僕たちは?」
「無職!」
 しばちゃんは大きな声で叫んだ。
「住所不定無職!」
 夏の月夜に米粒が飛んでいく。
「住所不定無職!」
 しばちゃんは大きく笑いながらしばらく叫んでいた。
 新宿弁財天には右に龍、左に虎の絵が大きく描かれている。しばちゃんはすさまじい勢いで勉強をしている。このまま行けば何かになれる気がする。
 右に描かれた龍の様に。
 

 夏の夕暮れ。新宿駅東口広場。一人地べたにすわりビールを飲む。新宿の空からは夕暮れのはじまりがビルに隠れ、良く見えない。
地表には雑踏がうごめいている。道行くサラリーマンの足を蹴っ飛ばす。向かって来たのでもう一度蹴る。
 除籍処分になった喧嘩は止めようとしたものだ。周りはかばってくれなかった。空手部と大学側と父の体面が優先された。レールが外されたどころでなく、既にレールは見えない。僕は今どこにも向かっていない。


 
 2か月ほど経った。しばちゃんの勉強のスピードは衰えない。しばちゃんが自分で問題を音読し、自分で答える。

・200mを20秒で進むワゴンRがあります。ワゴンRの秒速は何mですか。
「秒速10m!」
「それ時速にしたら?」
「時速36㎞!」
「おっそい車だな」

・4時間で960㎞進むワゴンRがあります。このワゴンRの時速は何㎞ですか。
「時速240㎞!」
「なんだよそのワゴンR、分解するぜ、問題文にあるのは本当は何?」
「最初の問題が自転車、今のが新幹線!」

・太宰治の「走れメロス」を音読する。
「やべぇ、こいついきなり怒り出したよ、もう負けてるよね」

・「地球の温暖化は、大きな森林の減少や人間の作り出す二酸化炭素の増加が原因である」
 しばちゃんは冷凍庫で大量の氷を作り、道路に撒いた。

 部屋で僕はコーヒーを淹れる。西日がカーテン越しに気だるく部屋に差し込む。少し前には考えられなかった光景だ。しばちゃんはコーヒーをブラックで飲めなかった。でかいテレビを買い、たまたま見たクリントイーストウッドのダーティハリーを見て、彼に憧れた。
 特に気に入ったシーンがある。行きつけのカフェでいつものブラックコーヒーを頼んだハリー。しかし馴染みのウエイトレスはなぜか山のように砂糖を入れる。ハリーは新聞に目を落としたまま、それに気が付かない。実は店に強盗が侵入しており、大量の砂糖はハリーに危機を知らせるウェイトレスの気転だった。ハリーは店を出たところでそのくそ甘いコーヒーを一口飲んで吹き出す。そして店の異常に気が付く。
「ダーティハリー、やりたい」
 別にしばちゃんが44マグナムを歌舞伎町でぶっぱなすわけではない。ファストフード店でブラックコーヒーを二つ頼む。そのうち一つに僕が大量に砂糖を入れる。しばちゃんは新聞片手にどちらかを選び、外ですする。砂糖に当たった時は走って僕の所までやって来る。
「Go ahead, make my day」 (やれよ、俺を楽しませてくれ)
 強盗に対する決め台詞だ。
 砂糖を入れたのは人質役の僕で、強盗も僕だ。でも付き合う。
 彼は友達と遊んだことがない。

「吾輩は猫である」から始まり「坊ちゃん」そして「こころ」。夏目漱石を攻め、そして芥川龍之介に入った。
 部屋でブラックコーヒーを飲みながらしばちゃんが聞く。
「あのさ、てっちゃん聞きたいんだけどさ」
「江戸時代のさ、東海道中、何だったけ」
「膝栗毛?」
「そうそう、あれから比べるとさ、夏目漱石とかさ芥川龍之介ってさ、いきなり悩み始めてるよね、その前から比べるといきなりだよね」
 しばちゃんは日本の小説における自我の目覚めに辿り着いていた。悩むという事は自分が他者と違うという自我を持つことだと。僕は子どもの頃から本を読み、親から勘当され、それがようやく分かりかけてきている。しばちゃんは自我の芽生えにいきなり手を掛けた。
 「しばちゃん、サブウェイ行こうぜ、サンドウィッチ、好きなもの色々選ぼうぜ」
 僕らは山の様にトッピングしたサンドウィッチを食べた。僕はエビアボガドにさらにエビとアボガドをトッピングし、しばちゃんはシーザードレッシングとまろやかレモンドレッシングとバジルソースを頼み、訳の分からない味になった。でかい声で笑いながら食べる。

「お前、何やってるんだ?」
 金を受け取りに金龍飯館に寄った時にリーさんに言われる。最近見るリーさんの顔は疲れ切っている。
「しばちゃんに何してる」
 リーさんは中華鍋を振るいながら言う。その言葉は乾いている。
「あいつ、最近ここで飯を食わない。他の大して旨くもない店で金払って食っている。今までそんな奴はいなかった」
「そんな奴って?」
「お前らみたいな奴だよ。行き場所ないからここで殴ったりする奴だよ」
 金龍飯館の空気が急に湿気た気がする。
「文字、教えたりです」
「そんなの要らないんだよ」
「でも、何かと不便じゃないですか」
「それ、余計だよ。あいつは鍵をかけられた時に、もう死んでるんだよ。鍵かけられて死んだら、もう考える事なんか要らないんだよ。あいつが今から何が出来る。考えたらやられるんだよ、だからやめとけ。暖かい飯、金を稼げる場所。何が不満なんだ」
 僕は席を立つ。リーさんはテイクアウトボックスを二つ、僕に渡した。
「ちゃんとしたもの食べれば、余計な事考えずに済む」

 部屋に戻る途中、テイクアウトボックスは捨てた。


 
 しばちゃんに影響されて僕も本を読み始めた。最初は頭が活字を受け入れてくれなかったが、すぐに慣れた。ただ、前に読んでいた経済学関連の本が読めない。なので児童文学や小説を読む。
 プロイスラーの「クラバート」。魔法使いの親方に弟子入りした少年。自由と愛する女の子を勝ち取るために親方と生死をかけた対決をする。ジョンニコルズ「卵を産めない郭公」。大人の文化の締め付けが少し緩くなった時代に、自由を求める事自体がよくわからない、青春小説。
 そして森鴎外「舞姫」。
 僕が読んだ小説をしばちゃんも読む。
「なんか、みんな檻から出るような出られないようなお話だね」
 しばちゃんは続ける。
「僕の背中に龍があるでしょ。子どもの頃入れたんだよね、リーさんの知り合いのところで。何となくその龍、消したかったんだよね」

 アジアンエステから連絡が入る。中年の男が散々オプションを付けたにも関わらず、基本料金しか払わないと揉めている。
 店に向かう。下半身丸出しの男を蹴りながら非常階段に連れ込む。
「オプションってなんだよ、全部入ってるんじゃないのかよ!」 
 財布の現金、クレジットカードやスマートフォンを吐き出させる。バッグを底まであさる。
 ボクシングジムのパンフレット。
「このボクシングジムに行くの?」しばちゃんが聞く。
 倒れている男が答える。
「僕じゃない、息子だ」
「ここ、僕、通っていたんだよ、いいジムだよ」
「息子は何やってんだ」
 何気なく聞いた。
「家にいる。家にいるんだよ、ずっと」
「引きこもりか?」
「3年家から出ないんだよ。その引きこもりの息子がボクシングやりたいって言うんだよ」
 僕らは黙った。パンツとスラックス、巻き上げた金など全て返し、しばちゃんは男の財布に2万円追加した。

 イメクラから連絡がくる。客がプレイルームに居座って動かない。僕ら2人が行くと20代に見える男が部屋のベッドで呆然としている。うながすと何も見ていない目で席を立つが、待合室のソファに座り再び動かない。女の子に聞くとプレイは抱きしめるだけで他には何もしなかったそうだ。
 いつもならここで引きずり倒して外に連れ出すが、この間の引きこもりの息子を持つおっさんの時から何となくそんな気分になれない。閉店の時間が迫っていたのでほかに客はいない。
 男は動かない。しばちゃんが何するでもなく横に座る。僕は離れたソファに座り、店のコーラを飲む。時間はあるし、しばちゃんの邪魔はしたくなかった。15分程経った。
「どうしたの」しばちゃんが聞く。
 20代の客がようやく話し始めた。
「お母さんと会ってなくて」
「お母さんはどうしたの?」
「この間死んだ」
「そうなんだ、お母さんと仲良かったの?」
「うん」
「一緒にどこかに行ったりしたの?」
「動物園とか水族館とか」
「お父さんは?」
「僕が生まれてすぐに死んじゃった。お母さんと2人で動物園でライオン見たんだ、小学2年生ぐらいの時に。お母さん、オスのライオンの前から動かなくて。何時間も。僕は飽きちゃって他の動物全部見て、またライオンのところ戻って来たら、お母さんまだライオン見てた。戻って来た僕を見て、お母さんは僕をずっと抱きしめたんだ。今日、撮影の仕事で動物園行ったら、ライオンがいた。その事思い出した。なんか抱きしめてもらいたかったんだ」
 しばちゃんはその男をしばらく見た。男を立たせて今まで見たことのない強烈なボディーブローを叩き込んだ。男は胃の中のものを床に吐き出したが、全てしばちゃんが始末した。男の顔をおしぼりで拭き、水を飲ませ、背負って外に連れ出した。

「あの子、どうした?」
「もう電車ないから、漫喫行くって。なんかもう大丈夫そう」
「そう」
「動物園、行きたい」

 次の日動物園に行った。秋が始まる気持ちの良い朝だった。平日だから人は少ない。近所の幼稚園か保育園の子どもたちが目の前を通り過ぎる。しばちゃんはしゃがんでその子達に手を振る。子どもたちもしばちゃんに手を振る。先生はしばちゃんの金髪、派手な龍が入ったスカジャンに顔を少し引きつらせて会釈する。
 ライオンは暇そうにあくびをし、直ぐに見えにくいところに引っ込んだ。僕らは少し気温が上がった園内を見て回る。キリンは所在なさげにうろついている。サルは予想通り何かを争っていた。
 しばちゃんはシロクマの前で止まった。二頭いるうちの一頭のシロクマはプールに飛び込み遊んでいる。もう一頭は3m程のスペースを行き来し、ごくたまに吠える。僕がソフトクリームを買いに行き、戻って来てもそのシロクマは同じ動きをしていた。
 しばちゃんはその3mを行き来するシロクマから目を離すことなくソフトクリームを食べた。僕らが見ている間、シロクマの3mの行き来が止むことはなかった。

 林先生から仕事をもらう。もらうと言ってもボランティアのようなものだ。親が面倒見れない小学生2人を週1回程度見てほしいと。お母さんが夜の仕事で、子どもといる時間がほぼないそうだ。
「お前、なんかそういうの得意だろ」
「そんなことしたことないですよ」
「俺がそういうんだから、やれよ。というかだ、お前だけじゃなくてしばちゃんも連れてけよ」
「なんかあるんですか?」
「いいからさ」

 少し古いマンション、5階のドアを開けると、床にゴミが入ったポリ袋が幾つか転がっている。同じ年頃の男の子と女の子がいる。小学校1年。林先生は確か二卵性双生児と言っていた。
 リビングチェアに2人並んで座ってゲームをしている。熱心にやっているようには見えない。テーブルには菓子パンやコンビニ弁当の空き容器が散らばっている。見知らぬでかい男が2人入って来てもさして反応がない。
 名前を聞いてみる。じゅんのすけとりん。二人とも瘦せている。お母さんは育児放棄などではないらしい。良くある話だがホストに入れ込んで借金まみれになり、風俗。その後妊娠し、ホストはどこかへ消えた。今は借金を返しながらの生活。キャバクラと介護職の掛け持ち。将来は介護職一本で何とかしたい。
 少し前まで介護職はブラックな職種と思われていたが、事業所によっては改善され、また国からの交付金もあることから、社会のセイフティーネットとしての意味合いもある職種らしい。林先生が僕らを放り込んだ訳がなんとなくわかる。
 じゅんのすけとりんは喋らない。でもちらちらとこちらを見るので関心がないわけではないらしい。
 突然しばちゃんが朗読を始めた。

「寒い冬が北方から、きつねの親子の住んでいる森へもやって来ました」

「手袋を買いに」。しばちゃんは何も見ずに話す。全部覚えている。二人はしばちゃんから目を離さない。僕はしばちゃんに任せて何か食べるものを買ってくることにする。
 料理は苦手だ。でもたまたま目にした小学生向けの栄養や献立を扱っているサイトは「愛情こもった手作りの料理に勝るものはありません」とある。マジかよ、手作りかよ。
 米と鮭の切り身、卵、味噌、豆腐、ブロッコリーとミニトマト。そんなものを買う。部屋に戻るとしばちゃんはまだ朗読していた。

「広い海のどこかに、小さな魚のきょうだいたちが楽しくくらしていた。みんな赤いのに、一ぴきだけは、からす貝よりもまっくろ」。
 
 スイミー。これも全部覚えているのか。二人はしばちゃんに食いついている。
 食事の支度にとりかかる。目指すは鮭のバター焼き定食。片栗粉とか薄力粉がいるらしいが、買ってない。フライパンの熱量は高いほうがいいだろう。鮭が生焼けだと危ない気がする。強火。米を炊くのを忘れる。味噌汁の豆腐を切る。大きさの見当がつかないけど大きいのは正義だ。鮭が焦げる。味噌汁が沸騰する。3人が不安な目で僕を見る。
 結果生焼けの鮭とやけに硬いごはん、椀から溢れる大きさの豆腐が入る出汁がない味噌汁、味のないブロッコリーのサラダ。ミニトマトは完璧だ。切って出しただけだから。
「てっちゃん、なにこれ」
「まあ、誰でも最初はこんなもんだ」
「最初だったのかよ、最初をここで使うのかよ、マジでさ、クソまずいよ、クソまずい、ヤバいぐらいクソまずい」
 りんが小さい声でつぶやいた。
「クソまずい」
 じゅんのすけも小さな声で続く。
「クソまずい」
「クソまずい」「クソまずい」
 3人で合唱を始めた。
 僕らは近くのファミレスに行き、みんなでお子様ランチのハンバーグセットを食べた。お子様ランチ、大人は注文できない。しばちゃんは何回も交渉し、店長の前で頭を下げて言った。
「4人で同じものを食べたいんだ」。

 久しぶりにしばちゃんと金龍飯館に行く。これまでリーさんから現金による支払いは月に1回だが、3か月ほど僕らは足を向けていなかった。
 リーさんは厨房の奥で仕込みをしており顔を見せない。今まで僕らが金龍飯館に行くと必ず顔を見せ、2~30分は喋っていた。
 ヤン君が出てきて僕らに封筒に入った金を渡す。しばちゃんはその場で封筒を開け、札を数え始めた。今まで封筒の中の金を確認したことがなかったしばちゃん。
 その様子をヤン君が見て言う。
「数えてどうするの?」
「この数字がね、自分が動いた証のような気がするの」
「知らないやつ殴った数ね」
「まあ、そうかもしれない」
「そうかもしれないじゃなくて、蹴って殴って稼いだ金だよね」
 ヤン君があんかけかに炒飯を出してきた。しばちゃんが言う。
「お金、払うよ」
「これはリーさんからだよ、リーさんにそんなこと言ったら大変な事になるよ」
「でもね」
 しばちゃんは小さな声で言う。
「お金は払う方がいい。払わないと何かよく分からない事で動けなくなる気がする。ヤクザとかチンピラとか、最初にご飯とか酒とかおごる。そこから動けなくなる」
 ヤン君は表情のない顔で言った。
「ここは何も言わず、食べておいた方がいい」
 しばちゃんは僕を見る。リーさんは厨房の奥から恐らくこの様子を全て見ている。僕はしばちゃんにうなずいた。しばちゃんはレンゲを持ち食べ始めた。

 しばちゃんの勉強は加速した。僕がポイントを教えるだけで勝手に進む。三平方の定理、2次方程式。そして公民にはまった。テレビのニュースの言葉がそのまま出てくる。消費税、年金問題、貧困問題。
 社会の歴史で面白いことを言い始めた。
「縄文時代とか古墳時代って、今に何か関係ある?」
「今って、生活とか?」
「というか、なんちゅうか、縄文時代とか古墳時代の気持ちっていうのかな、てっちゃんある?」
「まあ、古墳作ろうとかは思わないね」
「じゃ、刀もって、我こそは我こそは!って戦う?馬乗って」
「それもやらないね。馬乗って叫ぶのは楽しそうだけどね」
 しばちゃんは僕の言葉を流して言う。
「てっちゃんは空手に何かおかしいって思ったんだよね」
 僕は少し前にしばちゃんに父から勘当されたいきさつを話していた。
「空手というか、自分が空手やる理由かな」
 手にしたコーヒーカップをそのままにしばちゃんはしばらく考えて言う。
「杉田玄白ってさ」
「杉田玄白」僕は繰り返す。
「杉田玄白って今までの医学にイラッとして解剖して本作ったんでしょ」
「イラッとかどうかは分からないけど、解剖して疑問を抱いたはずだよね」
「なんだっけ、書いたの」
「解体新書」
「そうそう。てっちゃん、空手そのものににイラッとしたことある?」
「イラッとかどうかは分からないけど、空手の動きに柔らかさが少し足りないなとは思った事はあるね」
「葛飾北斎ってさ」
 いきなり飛んだ。
「むちゃくちゃな数、引っ越したんだよね」
「そうらしいね」
「そんなことは別にいいんだけどさ」
 別にいいのか。
「死ぬときにさ、あと5年生きたら本当の絵描きになることが出来たって言ったんだよね」
「知らなかった。そうなんだ」
「そうそう、北斎は何かになろうってしてたんだよね」
「そうだね」
 しばちゃんの語りは熱い。手にしたコーヒーカップはそのまま宙に浮いている。
「てっちゃんは何かになろうとした?」
「何かになろうとは思わなかったけど、何かを勉強しようとはしてた」
 しばちゃんはふんふん言いながら冷めたコーヒーを飲み干した。
 しばちゃんは続ける。
「あのさ、豊太郎ってエリスを捨てたんだよね」
「豊太郎って、それって舞姫?森鴎外の?」
「そうそう」
 ついて行くのがやっとだ。
「あれはクズ男の話かもしれないけど、そうじゃないよね」
 前もって読んでいて良かった。
「基本、クズ男の話だけど、今と違うからね。自分の事と家とか藩の事とかの板挟み物語」
 しばちゃんは「家とか藩」を何回か繰り返した。 
「僕はてっちゃんと違うし、僕が何かになるというかそれを探すことは、どういうことなの」
 すごいのが来た。ここで何を答えるのか、しばちゃんに大事かもしれない、僕にも大事かもしれない。そして、今後しばちゃんの僕を見る目がここで決まる気がする。二呼吸、間を開けて言った。
「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっごい、大事」
 にこにこしながらしばちゃんは言う。
「牛丼食べに行こう」

 じゅんのすけとりんの部屋に時々行く。二人ともなついてくれた。特にしばちゃんにべったりだ。しばちゃんは「手袋を買いに」を繰り返し朗読する。そして子狐と母さん狐の役をじゅんのすけとりんが、帽子屋さんの役をしばちゃんがやる。

 「今晩は」
 すると、中では何かことこと音がしていましたがやがて、戸が一寸ほどゴロリとあいて、光の帯が道の白い雪の上に長く伸びました。
 子狐はその光がまばゆかったので、めんくらって、まちがった方の手を、お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手をすきまからさしこんでしまいました。

 ここがハイライトだ。間違った手を出したのをつかまえる。3人でワーワーやる。
 しばちゃんは歯磨きを二人に教え始めた。歯ブラシも買って来る。大人用のレギュラーサイズにスーパーエクストラクールミントの歯磨き粉。二人は本気で歯磨きが嫌いになりそうになった。小さな子ども用の歯ブラシといちご味の歯磨き粉で何とか挽回する。
 他のお話も読みはじめた。しばちゃんが図書館で自分の貸出カードを作り、借りてきた。「ながいながいペンギンの話」。しかし1ページ目から進まない。
「でも、ゆきのなかの、おとうさんぺんぎんのおなかの下はほっこりとあたたかでした。
 おとうさんペンギンは、おなかの下に、たまごをふたつ、だいていたのです。もしもいまおとうさんペンギンがここをうごいたら、ほかほかとあたたまっている、ふたつのたまごは、すぐにつめたくなってしまうでしょう。そして、たまごのあかちゃんも、つめたくなってしまうでしょう」
 ここでしばちゃんが号泣し、それから進まない。

 しばちゃんは僕が教えたように、算数とひらがな、漢字を教えた。
「いやぁ、すごく覚えが速いよね!」
 3人でしばちゃんを先生と呼んだ。しばちゃんは照れながら鼻が膨らむ。
 しばらくすると、お母さんが介護職の資格試験にも受かり、生活が落ち着いた。それでも僕らは時々部屋に行き、5人でファミレスで食事をした。しばちゃんは毎回別れ際にじゅんのすけとりんと長いハグをする。

 その日は程々忙しかった。デリヘルの客が指定のレンタルルームが狭すぎるというクレーム、飲み屋で料理に虫が入っているとクレーム、アジアンエステで俺がイカないのはサービスが悪いとクレーム。クレームが実際どうなのかは僕たちには関係ない。クライアントの要望に答えるだけだ。
 19時に出て、帰ってきたのが深夜3時。
 部屋の扉を開けるといつもと様子が違う。ベッドとダイニングテーブルと椅子だったと思われるものが木材になっている。薪の様にされ丁寧に束にされている。本やノートはきれいに分解され、3つほどの山に束ねられている。そのまま紙ごみに出せる。エアコンは壁から外され床に置かれている。冷蔵庫は無事かと思いきや、上下逆さまに置かれている。風呂場やキッチンは止水された上で蛇口が「きちん」と外されていた。
 床に布に包まれた15㎝ほどの円柱が500個ほど並んでいる。
「これ、なんだろ」
「わからない」
 部屋を眺めて気づいた。部屋にマットレスがない。円柱はマットレスの中身だ。
「これ、泥棒なのかな。でも何も取られてない」
 何も取られていない。全部手の込んだやり方で分解されている。その中でも本は背表紙から丁寧にばらされ、その上でシャッフルされたうえで束ねられている。一番手間がかかっている。界隈の暴力団や黑社会はこんな手の込んだことはしない。
 警告だ。リーさんからの警告。
 しばちゃんは勘づいているのだろうか。
 僕に笑顔を見せながらしばちゃんは言った。
「もう一度、部屋作ろうよ。今度はお金払ってさ。でさ、鍵は大事かもね」


 
 日曜の昼間に林先生に呼ばれた。点滴とかの手伝いはしょっちゅうしていたが、改めてこの時間に呼ばれるのは初めてだ。林先生は診察室で僕に緑茶を出した。
「どうしたんですか、この時間に」
「まあな」
 林先生は歯切れが悪い。
「しばちゃん、めちゃくちゃ勉強しているだろ」
「そうですね、ほどほどの高校、都立新宿とか本郷とか学習院ならいけますよ」
「学習院かよ、というよりさ、なんかいろいろわかり始めているだろ、この間さ、ノモンハン事変でなんで関東軍が暴走したか聞かれてな」
 僕はお茶を緩く吹いた。
「汚ったねぇな。さすがに少し時間くれって言ったさ。あれこそ組織の暴走だからな」
 この間の舞姫を思い出していた。そこからのスピードが速い。
「それだけいろいろわかって来ているタイミングで、どうすりゃいいのかわかんない話があってな。お前にとりあえず話そうかと」
 診察中の林先生は迷う顔を見せない。その林先生が迷っている。
「あいつに話すか話さないか、聞いてから相談させてくれ」
 僕は頷いた。
「しばちゃんの両親が蒸発して、部屋に鍵をかけられて取り残された話は知っているだろ」
「はい」
「両親がしばちゃんを探しているらしい」
「しばちゃんを置き去りにした両親が、ですか?」
「それもどうも違うらしいんだよ」
「違う?」
 林先生はお茶を飲み干して言う。
「置き去りにはしてないらしい」
「先生、何だかまるでわかんないんですけど」
 頭をかきむしりながら林先生は話す。
「これを話す事で、お前としばちゃんに影響が大き過ぎるかなと、だから悩んだんだけど」
「そこまで聞いて何もないって余計気持ち悪い」
 そりゃそうだけどな、と言い林先生は話し始めた。
「しばちゃんは置き去りにされてない。その前に誰かに拉致された。その後、保護者不在のまま1人で生活を始めた。そこで誰かに監禁され、助け出された」
「話がわかんないですね、誘拐とは違うんですか?」
「誘拐みたいなもんだな。まあ、これ見てくれ」
 林先生はノートpcで動画を再生した。ニュース番組のコーナーの様だ。そこには小学1年生ほどの男の子が大勢の大人に混じり、ヘッドギアをつけ空手の稽古をしている。
「なんかわかんないか?」
 男の子の身のこなしは柔らかく、繰り出す技もキレがある。天性のものだろう。蹴りも出所が見えない。将来強くなる。
「天才ですね、この子。頑張ればどんな格闘技でも天下取れるんじゃないですか?」
「俺は格闘技詳しくないけど、この動画のなかで誰よりもセンスがある気がするな」
「で、この動画がどうしたんですか」
「よく見てくれ、この子」
 しばらくその子を見る。ヘッドギアの隙間から顔を探る。
 しばちゃん。
 林先生の顔を見る。
「そう、しばちゃんなんだよ」
「この動画は?」
「地方のテレビ局のニュース。古い動画。しばらく前にお前が点滴した暴力団の金融担当いるだろ、アイツが持ってきた。アイツもたまたま見たらしい」
「しばちゃんはリーさんにボクシングジムを通わせてもらう前に空手やってたんですね」
「でさ、子どもに空手やらせる親が、子ども置き去りにするか?」
 僕は本当に嫌な予感がした。
「確かに。で、空手やっている男の子が拉致されて、一人で生活。そこから誰かに監禁されて助け出されるって、誘拐としてはおかしい話ですよね」
「そう。お前、何がおかしいと思う?」
「誘拐なのに誰も得していない」
「一見な」
「一見?得しているやつがいるんですか?」
「助け出したのは誰?」
「リーさん。でもリーさんが何の得しているんですか?」
「お前、素手でやり合う時に相手が傷を残さないようにするって結構難しいだろ」
「はい」
 動いている相手、こちらに攻撃しようとしている相手にピンポイントで打つのは結構大変だ。
「それができる達人は簡単に手に入らない」
「すみません、全然話がわからないんですが」
「全部推測なんだが、たぶんそうだろう。リーさんが全部やった」
 林先生は僕と自分の湯飲みにお茶を注いだ。
「リーさんがたまたまニュースでしばちゃんを見た。リーさんはああいう商売をずっとやっている。お前が知らない駒を今もたくさん抱えている。手足になる駒をいつも探しているんだろうな。お前とかしばちゃんはその辺のヤクザよりやり方がずっと洗練されている。だからいろんな店なんかから声が掛かる。需要はある。でもそれがうまく出来る奴はなかなかいない。で、子どものしばちゃんを見てその素質を見抜いたんだろう」
「でも子どもを拉致したら警察とかが相当動きますよね」
「一家ごと拉致すればいい。しばらく誰も気がつかない」
「でもそれ、めちゃめちゃ難しくないですか?殺す訳じゃないんですよね」
「ヤンがいる。あいつはどっかの特殊部隊が束になって掛かってもなんともないだろ」
 ヤン君の身のこなしは柔らかい。そして隙だらけだが隙だらけの様に見せている。一度棚の鍋蓋が落ちてきた。ヤン君は体軸を全くぶらす事なく、平行移動し避けた。僕は見てなかったふりをした。
「拉致したとして、リーさんがしばちゃんを手に入れますよね、両親は?」
「何とでもなるだろ。殺すでもいいし、二人引き離して海外でも国内でも働かせればいいし。生かしておいた方が金にはなるよな。結構そういう話あるだろ、この界隈」
 確かに、頻繁にそんな話は聞く。噂話に過ぎないと思っていた。
「しばちゃんは拉致されて、この地にやって来る」
「でもしばちゃん、赤ちゃんじゃないんだから記憶とか残ってますよね、簡単にリーさんの言うままにならないような気がするけど」
「その辺はわからない。今言えるのは、しばちゃんは昔の記憶がない。それが何故なのかはわからないし、リーさんがそれに絡んだのかどうかもわからない」
「で、リーさんが監禁したんですか?」
「まあ、そうだろう」
「しばちゃんにあんな絶望的な監禁をしたんですか?する必要あるんですか?」
「極限状況に追い込まれたところから助けてくれた人は無条件に信頼するし、その人の力になろうとするだろ。今から考えるとリーさんは昔からお前らみたいな手練れを常に連れていた。そいつらもしばちゃんと同じ様にリーさんは手に入れていたんだ。ヤンもそうだろう」
「しばちゃんわざわざボクシングジムに入れて、ものになりそうな時に辞めさせて。先生、そこまで凝って手に入れた人間を用心棒なんかに使わなくて、もう少し金になる様な使い方すればいいんじゃないですか?」
「それって殺しとかか?あのさ、殺しってそんなにたくさん需要はない。何かある度に殺しがあるわけない。映画や漫画で殺しって、その映画や漫画の数ほどあるだろ。実際にはそんなにない。そんなにドラマティックなお話は転がっていない。それに後始末大変だろ。店の用心棒で日銭を稼いだほうがいいんだよ。細かく稼ぐって大事だ。お前らの向かいのビルにガッツリ稼いでいそうな司法書士いるだろ。ベンツのSLとGクラス、駐車場がこのくそ高い街で乗ってる奴。あいつも1件2万とか3万ぐらいの仕事を細かく毎日稼いでいるんだよ」
 林先生は続ける。
「繊細な暴力の技術で細かく稼ぐ、それがお前たちの出番」
 金龍飯館。僕は気分が悪くなり、トイレに吐きに行く。診療室の流しで水を飲む。胃がけいれんしてまた、吐いた。
 診察室に戻ると、林先生は窓の外を見ながらたばこを吸っている。
「あの金融ヤクザ。最初に動画を見て、俺に知らせて。そのタイミングで大阪のミナミの組にしばちゃんのお父さんがしばちゃん探しているらしいって話が上がって来た。それがあの金融ヤクザの同じ系列の組。多分しばちゃん一家失踪にも絡んでるんだろう、その組」
 林先生は立ち上がり、流しで顔を洗った。
「あの金融ヤクザは俺にべったりだ。組の仕事が重すぎて事務所で倒れたんだ。組に呼ばれて俺がここに連れてきた。組としてもあいつの替えが利かない。ここでしばらく養生させた。組織の奴らに俺が出向いて話をつけた。増えていく金が惜しくないのかって。そんな奴は俺を裏切らないし、俺の話をよく聞く。しばちゃんにとってのリーさんだ。お前もしばちゃんを裏切れないだろ。恩義ってな、人を縛る」
 お茶の味がしない。恩義という言葉で諦めたことを思い出す。砂を飲んでいるようだ。
「しばちゃんのお父さんは?」
「それきり消息不明」
 外はいつの間にか細かい雨が降っている。
「これ、多分あっているはず。リーさん、今まで相当手練れの奴らを連れてきている。そんな事はいくらでも出来るはずだ」
 林先生は窓を開ける。湿気た匂いが入ってくる。
「その今までの手練れの奴らはどうなったんですか?」
「知らない」
 湿気た匂いが部屋を冷たくする。
「で、聞きたいんだ。これ、しばちゃんに伝えるか?」
「伝えるわけないでしょう、伝えて誰が得するんですか。しばちゃん、確実にリーさん殺りに行きますよ、で、確実にヤン君に殺されます」
「だよな。最初は俺だけで抱え込もうと思ったんだけどさ、もう金融ヤクザの頭の中にもあるし、それがどう広がるかわからん。だから申し訳ないんだがお前だけに伝えた。本当にすまん。でも、そばにいるお前は知っていた方が何かあった時に動きやすいだろ、悪いな」

 壊された部屋を直す。今度はお金を払い、一式取りそろえる。しばちゃんの勉強机を買おうかと思ったが、しばちゃんが今までの様なリビングテーブルが良いという。同じテーブルで僕が本とか読んでいた方がいいと。
 今度は大きな本棚を備え付ける。しばちゃんが読んだ本が中心。「手袋を買いに」「ごんぎつね」。そこから始まり、系統があるようでまるでない気がする小説や漫画の数々。「スラムダンク」「舞姫」「吾輩は猫である」「杜子春」「羊をめぐる冒険」「コインロッカーベイビーズ」「69」「アムリタ」「キッチン」「蛇にピアス」「炎上する君」「火花」。
 部屋があのようにされたことから、僕たちは今までと違う緊張感に包まれていた。そして僕は林先生からしばちゃんの話を聞いている。
 

 秋が深まり、細かい雨が降る肌寒い日だった。区役所通り沿いにあるバッティングセンターで、金融やくざに会う。相変わらず高そうなスーツに革靴。雨の中でバットを振っている。途中でジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくる。ミートが上手い。長打を狙うスイングではなく、自分が確実に出塁するようなフォーム。ゲージから出て来た。
「お、空手看護師じゃないか、今日はバットで頭かち割るのか?」
「今日は元気そうですね、点滴いらないみたいで」
「うるせぇな、最近お前ら働いているんか?」
「まあ、仕事してますよ」
 彼の声がやけにでかく、うっとおしいので外に出る。
「おいおい、待てよ、久しぶりなんだからいいじゃないかよ」そんなことを言いながらペットボトルのコーラを僕に渡す。雨の中、僕らは歩き出した。スーツを着ているのに彼も傘を差さない。
「どこ行くんですか?」
「これから事務所戻るんだよ。そんなことはいいんだよ。最近顔見せてるか?リーさんとこ。めちゃくちゃやつれてるぞ、見舞いがてら顔出しとけよ。色んなところから圧、掛けられているからな、最近はリーさんの古い話じゃ通じない奴らが多いからな」
 そんな気配は感じている。あれ以来リーさんの顔を立てて金龍飯館に時々行っていた。リーさんは相変わらずの笑みで僕らを迎えてくれたが、疲れの色は隠せない。ヤン君はほとんどその姿を見なかった。
「リーさん、大丈夫かなぁ」
 金融やくざの言葉にまるで重みはない。軽い口調で話す。
「そうそう、しばちゃんの父ちゃんの事、何か聞いたか?」
「大阪で探しているみたいな話しか聞いてないです」
「実の親父が子どもを探すストーリーって絵になるよなぁ」
 彼はうつ病と言うより双極性障害、昔で言う躁鬱。最初は躁てんしてハイになっているのかと思ったが、よく見ると目がきらきらしている。瞳孔が開き気味だ。覚せい剤かもしれない。
「しばちゃん、早くお父さんに会えればいいなぁ」
「おい、お前、しばちゃんに何か言ったんじゃないだろうな」
「あ、ちゃんとお父さんと早く会えればいいねぇって言ったぜ」
 ボディーブローを奴に打ち込み、しばちゃんに連絡を取る。つながらない。今日は今のところ何も予定らしきものはない。電話がつながらない。メッセンジャーでも連絡をとるが返ってこない。
 水たまりの中に倒れている金融やくざのみぞおちと股間を蹴り飛ばし、自分たちの部屋へ走る。区役所通りのバッティングセンターから部屋までこんなに距離があるとは思わなかった。チンピラの肩とぶつかる。ぶつかっておいて何にもなしかよ!と肩を掴まれ言われたので相手の間合いに入り込み、体を沈めて腹を打つ。打った後に今日2回のパンチはしばちゃんが良くやるパンチだと気が付く。雑居ビルの階段を4段飛ばしで駆け上がり、部屋に入る。
 しばちゃんはベッドに寝転んでマンガを読んでいた。「よつばと!」。
「どしたの?」
 汗を拭き、息を切らせながら僕はコーヒーを淹れた。

 そんな簡単には終わらなかった。
 一週間ほど経った夕方。ヤン君からスマホに連絡がある。少し離れたビルの1室に来いと。
「少し早く来たほうがいいみたいだよ」
 嫌な予感しかしない。転がるように階段を駆け降り、人混みを縫って走る。何人かぶつかり呼び止められるが構わず走る。指定されたビルの階段を駆け上がる。部屋を探すが部屋番号の札がほとんど外されている。端から順に派手な音を立ててドアノブを引く。6番目のドアが開く。中は暗く、ほとんど何も見えないが、奥に人影らしきものがある。ドアを閉めると暗闇だ。血の匂いがする。
「ヤン君、いるんだよね」闇に向かって話しかける。答えがないので、前に向かって進む。 闇の中で前に進むのは躊躇するが進む。
「それ以上前に進むと、君の大好きなしばちゃんに当たるよ」
 ヤン君が闇から言う。
「リーさんが怒っている」
 ヤン君の声は静かで感情がない。
「リーさん、君たちが勝手に色々したから怒っている」
 血の匂いは少しずつ濃くなっていく。
「店で暴れた客に手加減したでしょ。客の財布もそのままにしてたでしょ」
「それでもあいつらは二度と店には来ないよ」僕は答えた。
「リーさんがそうしろって言ったんだからそうすればいいんだよ、この街で何か考える必要なんてないんだから」
 暗闇から聞こえるヤン君の声は平坦だ。
「考え始めるから、小さなつまらない話にも喰いつく。このまま暮らしていればこの街で不自由なく暮らせたんだ」
「小さなつまらない話ってなに?」
「しばちゃんがお父さんをさがしたいって言い出した。探して見つけたと言っても何になるんだ。何にもなりはしない。今よりも辛い暮らししかない」
「それでも本当の事を知りたいってそれは普通じゃないの?」
 血の匂いが気になる。しばちゃんの血なのだろうか。僕は続けた。
「リーさんがしばちゃんをさらっていい様に仕立て上げたんじゃないのか、リーさんが全ての原因何じゃないのか」
 しっかりと声を出した。相手に伝わるように話した。話せたはずだ。
「不自由なく暮らせるなんて他の人が決める事じゃない、自分できめることだ」
 ヤン君はしばらく黙り、そして口を開く。
「人から決めてもらうのは楽だろう?小さな事なら自分で決められる奴が、大きなことでは人に頼る。訳の分からない他人の意見を丸吞みにする。楽なんだよ。それでいいんだよ」
「違う。しばちゃんはそのどちらかを判断できる前に連れ去られた。それはアンフェアだ」
 ヤン君は随分黙っていた。
 ビルの外からかすかに誰かのクラクションが聞こえる。
「俺たちはここから出ていく。ここに長く居過ぎた。別の場所に行く。やり方も変える。遠くに行く訳ではない、都内だ」
「都内、どこに行くんですか」
「大手町。考え方が古い街には俺たちのような考え方が古いスタイルがあっている。お前が来て、色々変わった。俺はもしかしたらそこでも焼売包んでいるかもしれないから、来てくれよ。まあ、来ないか」ヤン君は続ける。
「しばちゃん、今すぐに病院連れて行けば助かるから。リーさん、生かすなら、顔、全てに傷を付けろと言ったけどね」
 ヤン君はそう言って気配を消した。

 明かりを付けたい。ヤン君は「今すぐに」と言った。今すぐにでないと、しばちゃんは助からない。暗闇がもどかしい。壁にあるはずのスイッチを手探りでまさぐる。部屋を半周して気が付いた。僕は180㎝の背で手を上に伸ばして探していた。スイッチがあるとしたらもっと下だ。探し当て、照明を付けた。
 倒れている。そして意識がないしばちゃんは全身が赤かった。ボクサーパンツ一枚の下着姿。全身に細く無数の切り傷を付けられていた。鋭利な刃物で線状の長い傷が無数に。腕に付けられた傷は一周している。胴体の傷も背中から腹、そして背中へ。それが胴だけで100本以上あるだろうか。全ての傷から僅かだが血が滲み、それが床に集まり血だまりを作る。
 抱えて走る。肩に担ぐ。美容外科はやけに多いこの街で救急外来は確か2件。近いほうに向かって全力で走る。息は全く切れない。繫華街を走る。肩の上でしばちゃんが死んでしまう。目の前の通行人は潮が引くかのように道があく。しばちゃんの血が僕の体を暖かく湿らせ、そして冷えていく。急がなければ。走らなければ。

 救急外来の先生はしばちゃんを見て絶句した。そして素早く看護師と全身の止血作業を始める。先生はつぶやく様に言った。
「何があったんだ、何なんだこれは」

 処置には相当苦労したらしいが、貧血の症状もさほどではなく、しばちゃんは助かった。先生はその得体の知れない傷について意識が戻ったしばちゃんに少しだけ質問した。
「これ、ナイフ?」
「いや、わからないです」
「相手は?」
「わからない。いつの間にか。気が付いたらここでした」
 先生はしばらく考え込んだ。そして「まあ、言わないよね」とつぶやき、続けた。
「オーストラリアの海でウミノシに足だけで数千箇所刺された男の子がいたけど、これはそれとは比較にならないな。この傷、ナイフだとしても、とんでもないナイフ使いだよ。ここにそんなのいるのかよ、ホントヤバいな、ここ」
 背中の入れ墨は傷で分からなくなった。顔の傷は左の耳の後ろから顎にかけて、一つだけだった。

 少ししてから林先生が見舞いに来た。しばちゃんを長い時間見つめ、そしてしばちゃんの髪をわしわしとかき回す。そしてスーパーの激安ノーブランドのウーロン茶を5本ほど置いて帰った。

 じゅんのすけとりんが新潟に行く事になった。お母さんが介護福祉士の資格をとり、新潟の介護老人保健施設に採用された。職員寮もあるらしい。
 退院出来たしばちゃん。医師からは傷が多すぎるから家でゆっくりしろと言われていが、引っ越しの手伝いをじゅんのすけとりんときゃぁきゃぁ言いながらしている。時々「いてぇいてぇ」と言う。
 じゅんのすけとりんはしばちゃんの特訓のおかげで小1に関わらず小4ぐらいまでの漢字や算数が出来る様になった。そして本を読むようになって語彙が増えた。しばちゃんとじゅんのすけがスーパーで駄菓子を買いすぎた時にりんが「欲に目がくらむ」などと言う。

 昨日までの秋雨がやみ、肌寒いけど晴れた日。トラックが来てしばちゃんは全力の笑顔で荷物を運んだ。荷物が積み込まれ、トラックは北へ向かい、5人で駅に向かう。しばちゃんが真ん中になり二人と手をつなぐ。この街に一番似つかわしくない光景かもしれない。
 新宿駅でわざわざ入場券まで買い、3人を見送る。乗る電車がホームに入ると同時にしばちゃんは号泣した。なんか叫んでいるがよくわからないので流す。
 じゅんのすけとりんもお母さんも泣いている。お母さんも入れて5人でハグをして別れた。
 帰り際に聞く。
「ホームでなんて言ってたの?」
「俺も新潟行くって。今は行けないけど、必ずそのうち行くって。今度行こう、てっちゃん」
 僕は頷いた。しばちゃんは助走をつけ、少し大きな水たまりを軽々と飛び越え、振り向いて笑った。

 リーさんとヤン君がいなくなり、僕らは仕事が無くなった。無くなったというか、殴る蹴るをして金を稼ぐのはもういい。
 仕事を探すがしばちゃんに勤まる様な仕事が見つからない。道路工事などの肉体労働をした。どんな仕事にも理不尽なことはある。それにしばちゃんはいちいち何で?どうして?と言う。考えればこれまでの殴る蹴るの仕事はそれなりに理にかなっていた。今まで理不尽な事をしていなかった。
 慣れればいいのか。慣れなくていいのか。それはわからない。
 それでもしばちゃんは勉強は続けた。大学受験レベルだと思う。本も読む。今はカミュの「ペスト」を読んでいる。「解せないぞ、こりゃ、やるせねぇ、やるせねぇ」と言う。彼は突き進んでいる。

 すぐにリーさんとヤン君が消えた事が広まった。他の所から仕事の話が舞い込む。今までと同じように店が荒れた時の後始末。
 でも、僕らはそのような仕事をやる気分ではなくなった。しかしそんな話をすると、周りに広まり面倒な事になる。僕らが店から放り投げる客をいくつかたどると必ずどこかの組織に行きつく。そして僕らが手を出さなくなった情報が廻ると僕らだけでなく、その店も危ない。
 
 冬になった。
 考えようには殴る蹴るをせずに威圧だけでいい話が来る。街金闇金。彼らは今強引な取り立てが出来ない。代わりに返済に困っている人に対して職をやる。素晴らしい話だ。当然そんな事はない。
 例えば日給15,000円の仕事を斡旋し、そのうち13,000円から14,000円を返済金として回収する。朝、郊外の駅に集合させ車に乗せる。工場など様々な現場で一日働かせ、1,000円から1,500円ほどの僅かな金を渡す。一日1,500円で彼らは暮らせない。瞬く間に使い果たす。そしてさらに借り入れる。家賃は出してやるが、勿論それも借入金に追加する。
 1日3セットの送迎で月に900~1200万の売り上げ。僕らは送迎管理で10~15%を貰う。送迎で使うハイエース定員は10人。適当なプラスチックの台を置き13人は乗れる様にする。

 暴力を振るうより遥かに安定している。労力もさほどかからない。明確に法にも触れない。生かさず殺さず。それでもギャンブル依存症の奴らがそのぎりぎりの金をパチンコに突っ込む。借金が増える。持続可能な取り立て。
 僕が運転、しばちゃんが助手席。最初は歯向かったり不平をいうものもいるが軽く威圧するだけでおとなしくなる。浪費とギャンブル。多分誰にも相談していない。親族に話が出来るほどの関係性は築いておらず、そして公的機関に相談する能力もない。
 意外な事に彼らは勤勉だ。夜明け前の集合にも関わらず遅刻はあまりいない。いても10分ほど待てば息せき切ってやって来る。
 車は都内近郊の幾つかの作業場に向かう。あらかじめ人数と仕事内容が僕らに来ているので適当に指名し、降ろす。日払い日給15,000円を超える仕事はさすがに厳しい内容が多い。建築資材の運搬、イベントの設営、オフィスの移転、交代もなく一日立ち続ける警備。仕事により多少は厳しさが違うので、彼らは仕事を振り分ける僕らに哀願の表情を浮かべる。そしてそれらの仕事は彼らの様に末端で働くと何のスキルアップにもならない。

 各々の現場での終了時間はまちまちだ。彼らは朝の集合の際に財布を預けさせられ、ポケットなどに金がないか調べさせられる。つまり、僕らの迎えがどんなに遅くなってもそこで待つしかない。時間さえも奪われている。そして以前の担当者が立って待っていろと言ったらしく、彼らは毎回立って待っている。
 そしてごくたまに、帰りの車の中で牛丼弁当と惣菜、例えば鶏の唐揚げやエビチリ、ポテトサラダ。そして缶チューハイが振舞われる。合計1,000円前後で僕らに忠誠を誓う。

 従順で文句も言わず搾取される。強く支配するものがいると彼らは思考を放棄する。煙草の銘柄など小さな事はこだわりを持って決めるが、大きなことは何も決めない。
 羊だ。牧羊犬に怯えて動く。犬がいなくなっても自由に動けない。
 しばちゃんは羊に苛立つ。彼は物心ついた頃から一人で生きてきた。勉強を始めた。本も読み始める。この間はEフロムの「自由からの逃走」を読んでいた。「自動人形」とか「自発性」という言葉をつぶやいていた。
 工場に羊を迎えに行く。羊が乗り込む。苛立つしばちゃんはプラスチックの椅子を何回も蹴っ飛ばした。羊は下を向いたまま身動きしない。

 雪が降って来た。皆、運転を控えている。走っている車はほとんどいない。道は誰かが大きな箒で掃除したかのように何もない。ごくたまに走る車の後はすぐに雪で覆われる。白い道がどこかへ伸びる。
 ラジオをつける。都内の電車がほぼ運休、駅は混乱しているらしい。後ろには仕事を終えた羊たちで満席。今日は府中に車を返さなければならないが、この車はスタッドレスタイヤで四駆だ。そこまでの道中、羊を各々家まで送ることも出来たが、全員新宿駅南口で降ろす。彼らの耳にもラジオは届いている。彼らは僕らに何も言わなかった。
 車を停め近くのコンビニでコーヒーを買う。二人でしばらく車から外を見ていた。
 しばちゃんが話す。
「人の言いなりにならないようにするためには、どうすればいいの?」
「多分、勉強して一つ一つ自分で考える、じゃないかな」
「本を読むことなの?」
「それだけじゃ足りないから、人からも教えてもらう」
「学校へ行く事かな」
「うん、それもありなのかもしれない」
 しばちゃんは少しためらって言う。
「この仕事、そろそろ終わりにしない?あの人達を見てると何か吸い取られそうだよ」

 僕は降りゆく雪を見ていた。その先のタクシー乗り場に長蛇の列が見える。タクシーは稀にしか来ない。来ても一人ずつしか乗らず、乗合をしていないため列は短くならない。

 僕はハイエースから降りてその長蛇の列に向かって叫んだ。
「この車、府中まで行きます。府中まで一緒に乗りませんか、もちろんお金は要りません、僕らも府中まで帰るところなんです、後8人乗れます、四駆でスタッドレスタイヤだから大丈夫、お金は、いらないです」
 しばちゃんも降りてきて、叫ぶ。
「お金は取りません、府中まで行くだけです、一緒に乗りませんか」
 タクシー乗り場の列は突然の提案に動かない。見知らぬ体格の良い男二人の提案。すぐさま乗れるわけがない。何回か同じことを叫んでみる。しばちゃんが僕を見つめている。

 その時、二人の女子高生が走って来る。
「一緒に、いいですか!」
 少し間が開いてから30代ほどの女性、そして20代のスーツ姿の男性が一人走って来る。
「お願いします!」
 しばちゃんは嬉しそうだ。
「あと4人です」
 しばちゃんが叫ぶ。
 40代後半の男性、20代の女性が二人、最後に50代の女性が来た。
 これで満員だ。

 その時、制服を着た、ランドセルを背負う小学生の男の子が泣きながら走って来る。
「もう、満員ですか、だめですか」
 しばちゃんは僕を見る。泣きそうな顔で僕を見る。
 大きな声で30代の女性が言う。
「私は床に座るから、この子も乗せていって」
 それを言い終わらないうちに20代後半の男性が「僕が床に座ります」と言う。そうすると40代後半の男性が「3人で順番にしましょう」という。しばちゃんが小学生の男の子の手を引いて乗せる。結局しばちゃん含めてみなで順番で床に座ることになった。
「しばちゃん、なんで泣いてるの?」
 思い切り肩パンチをされる。

 雪の国道20号を走る。しばちゃんが言う。

「僕ら、なんか、はじまるよね」















※2021年4月10日にnoteにて発表した同題(4,022字)に大幅な加筆と修正をしました。

写真/フォトライブラリー https://www.photolibrary.jp/

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