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彼の「得意」に甘えて生きる。

ここ最近、昼下がりに珈琲を淹れるためにキッチンへ向かうと、シンクに溜まっていたはずの食器たちがきれいになくなっている。ぼくはそのことについて、ひそかに苛立ちを募らせていた。

食器洗いはぼくの担当だと決まっているのに、気がつくと要領の良い夫がちゃちゃっと仕事の合間に済ませてしまう。自らのできなさを突きつけられているようで、有難さよりも惨めさが胸を支配した。「やるから置いておいて」と言っても、「でも手が空いてるから」「できるほうがやればいいでしょ」で終わらせられてしまう。そして数日前、ついに「しばらくは洗濯も俺がやるよ」と言い出されてしまった。

溢れかえった洗濯カゴ、たびたび不足する衣類やタオル。その把握がぼくは不得手で、しょっちゅう夫に迷惑をかけている。新しい仕事が一気に増え、心身の調子を崩していたここ数ヶ月、それらはいっそう酷くなった。しまいには彼が明日履く下着の在庫まで切らす始末。それを見兼ねての申し出だったのだけど、ぼくは必死で「ほんとにごめん、もう二度とないようにするから」と抵抗を試みた。

だって、食器洗いに加え洗濯まで取り上げられたら、ぼくの担う家事はほとんどなくなる。未だに家計の大半は正社員である彼に担わせてしまっている上、家のことまで任せきりにしてしまうだなんて。これじゃぼくはいよいよただの穀潰しじゃないか。

彼からその申し出を受けたのは、実は初めてじゃない。そのたび「もうちょっと工夫して頑張ってみる」「次からは気をつける」と交わし続けてきたのだが、たぶんいよいよ限界が来たのか今回は彼も頑として譲らなかった。「俺が気になるだけだから」と押し切られた数日後。

情けなさと恥ずかしさと不甲斐なさで、ぼくは爆発した。

ぼくを役立たずにしないで。最近はちょっと調子が悪かっただけで、その前はどうにかこなせていたじゃないか。頼むからできるようになるまで、もう少し見守ってくれ。

そんな具合に。我ながらめちゃくちゃな言い分である。すでに回っていないからこそ、彼に任せるハメになったというのに。

みんな当たり前にできてることが、ぼくにはなぜだか死ぬほど難しい。掃除も片付けもてんでダメで、時間通りに行動することもできない。朝はまともに起きられないし、お金の管理もやりくりも下手くそ。計画を立てることも、物事に優先順位をつけるのも、とてつもなく苦手だ。一度落ち込むと気持ちを立て直すのに数日かかるし、泣いた翌日はとてもじゃないけど仕事なんて手につかない。そして最悪なことに、ぼくのできないことそのぜんぶを軽々と目の前でこなしてしまうのが、日常でもっとも近くにいる夫なのである。

それでも、精一杯工夫と努力は重ねた。タスクアプリに細分化した家事を放り込み、リマインダーも活用して対策を立てた。しかしタスクを消化できないと、今度はそれが気になって気になって仕方なくなって、最終的には罪悪感でぺしゃんこになってしまうのだ。いやはや面倒くさい体質である。

なんだかいつも、ぼくの頭の中はごちゃごちゃだ。物があふれかえっていて、散らかっていて、雑然としていて。容量はすぐにいっぱいになるし、余裕というものが常にない。

しかし夫の頭の中は、なんだかいつだってすっきりとしている(気がする)。然るべきところに然るべきものがきちんと整理整頓されていて、いつなんどきでも素早くそれらを引き出してくることができる。いらないものは早々にデリートして、必要なものだけ取っておいて。その作業を自然体でやってのけているように見えるのが、ぼくの目に映る「彼」なのだ。

「俺だってなんでもできるわけじゃないよ。苦手なことだってあるし、落ち込むことだってある」
彼はそう言うけれど、でもぼくよりはよっぽどマシだ。少なくともぼくに比べたら、彼はきちんと「社会人」をやれている。
「でも、ぼくは一度落ち込んだら翌日どころか1週間後まで引きずるよ」
「それは君と俺が違う人間だからだよ、個体差だから仕方ないんだ。仕事が落ち着いて気持ちに余裕が出たら、食器洗いも洗濯もまた君の担当に戻せばいいよ」

わかってる、これも彼の言う通りだ。ぼくは彼よりもストレスの消化に時間がかかる体質で、彼はぼくよりも立ち直りが早い体質で。本当はただそれだけなんだけど、劣等感は拭えない。それに苦手なことを数えたら、圧倒的にぼくのほうが多い。ていうか、彼にとってのぼくと一緒にいることのメリットって、いったいなんなんだろう。

さらに数日が過ぎ、ちょっぴり沈んだ気持ちのまま以前から計画していた小旅行当日を迎えてしまった。旅行といってもこのご時勢なので、ひたすら旅館に引きこもって温泉を堪能するだけのものだけど。

予定より早めに小田原駅に到着したため、旅館のシャトルバスが来るまで時間を持て余したぼくと夫は、当て所もなく駅構内をぶらついていた。何気なく土産物なんかを見ていると、ふいに“Excuse me.”と声をかけられた。アジア系の旅行者っぽい若い女性で、「はい、なんでしょう」と答えると、「この旅館に行きたいんだけど、行き方がわからないんです」とたどたどしい英語で訊ねてきた。

ぼくも英語がそこまで得意なわけじゃないので、かえってそのたどたどしさに安堵してしまった。自分のiPhoneで彼女の旅館へのHPを検索しながら、「どこからいらっしゃったんですか?」などとついつい雑談を振ってしまう。相手もぼくの英語の下手くそさにちょっとほっとしたような顔を見せてくれて、「台湾から来てるんです」と返してくれた。

へえ〜台湾! ぼくいつか行ってみたいと思ってるんですよ、『千と千尋の神隠し』って知ってます? あれの舞台になったとこに行ってみたくて。
知ってます知ってます、観たことあります! たぶんそれ、九份だと思います。

HPに掲載されているバスの停留所と直近の時刻を教え、降りるべき駅名を彼女のスマホに漢字表記とアルファベット表記で打ち込んでから、「楽しんでくださいね」と言って彼女を見送った。礼を言って去る彼女の後ろ姿を見ていると、横にいた夫が「なんか今のすごかったね」と声をかけてきた。

「別にすごくはないよ。あの人もこっちもペラペラじゃなかったし、簡単な言葉しか使ってないし、なんならだいぶデタラメだったよ」
「でも俺はいきなり英語で道を訊かれたら、すぐに反応できないよ。びっくりしちゃうし、雑談なんてしてる余裕もないと思う」すごいね、と心底感心している彼の顔を、ぼくは思わずまじまじと見つめてしまった。

そうか、彼にとって難しいことが、ぼくにとってはそうでもないこともあるのか。ぼくにとって難しいことが、彼にとってはそうでもないのと同じように。

彼は英語がまったくできないわけじゃないし、ぼくと同じく簡単な会話くらいなら抵抗のない人である。仕事の関係で難しい専門用語が頻出する論文を読みこなしたりもしてるし、今の道案内くらいだってできたはずだ。でも、そういえば渡航経験そのものはあまりないと以前言っていた。海外旅行でホテルのフロントに用事を言いつけるのも、現地でレストランに電話をかけて予約を取るのも、だれかに道を訊ねるのも、自然とぼくの役割になっていた気がする。それは英語力そのものの問題ではなく、単純な「慣れ」によるものなのだけど、そのときもそういえば「すごいね、助かったよ」と言ってくれていた。彼にそうやって頼られると、むず痒くて誇らしい気持ちになった。

じゃあ、べつにいっか。彼より不得手なことを一つひとつ数えて、惨めな気持ちになってぐずぐず泣かなくても。彼がぼくの苦手なところをカバーしてくれるのと同じように、ぼくも彼にとってちょっとハードルが高いことを代わりに担いさえできてれば。もちろん比率で考えたら彼の方が負担は大きいけれど、でも彼のためにぼくができることだってたしかにあったのだ。ずっとそれが0なのだと、いつからか思い込んでしまっていたけれど。

平日だったため、乗り込んだシャトルバスはがらんとしていた。乗り物酔いをしやすい夫に合わせて、タイヤの上からなるべく離れた席に落ち着く。「あのさ、やっぱ食器洗いと洗濯、しばらくお願いしてもいいかな」と、座るなりぼくは言った。「新しい仕事に慣れて、気持ちが落ち着いたら、また元通りやるから。それまで甘えてもいい?」
いいよ、と彼は微笑み、座席を倒して目を閉じた。

ぼくの誕生日祝いを兼ねたこの旅行から帰ったら、きっとぴかぴかのシンクを見ても空っぽの洗濯カゴを見ても、素直にありがとうと言える気がする。たぶんずっと長い間、勝手に責められてる気になっていたのだ。彼はぼくを思い遣って、助けてくれようとしてただけだったのに。

ぼくたちはパートナーで、日々の生活を一緒に営む。しんどいときは相手を頼って、辛そうなときは手を貸して、そうやって毎日を繰り返していけばいい。いちいち卑屈になって彼の差し出した手を振り払うより、笑顔でありがとうと言ったほうが、ぼくも彼もよっぽど気分がいい。比較して勝手に情けなくなって落ち込むんじゃなくて、夫がいてくれてまじで助かるわ最高すぎるとるんるんで鼻歌歌って原稿に向かいたい。

苦手なことや難しいことは、夫に有難く任せよう。彼の不得手は、ぼくが喜んで引き受けよう。そうやって彼をパートナーにできた自分の幸運を、噛み締めながら生きていこう。彼の「得意」に甘えて生きるのは、ぼくだけに許された特権なのだから。

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