見出し画像

ちいさな色たち

あんがい冬はいろとりどりだな、と思う。

色鮮やかな花がぱあっと咲きはじめる春から紅葉の秋まで、にぎわっていたものがすうっと引いて、残されるのは冬枯れの木々たち。葉っぱ一枚つけない黒い枝。草も枯れ果てて土がみえる。
色が褪せたように感じるけれど、世界から色が引いてゆくからこそ、残された色が鮮やかに感じるのかもしれない。

道を歩いていると常緑の木々に、赤い実をつけたものがそこかしこにある。南天。千両。くろがねもち。ときわさんざし。
深い緑のなか、映えるような赤い色。
色味の引いた、しんとした冬の景色のなかで、そこだけ冴えるくっきりとした緑色と赤色に惹かれるからこそ、クリスマスカラーはその色なんじゃないかな、と思う。



いちばん体を壊していたとき、とてもふつうの生活ができる状態ではなかったので、たくさんのお薬を飲みながら実家で過ごしていた。
生活をいとなむ以前の問題で、まずとにかく命をつなぐことだけを優先した時期をすぎ、とりあえず食べて眠る人間としての生活をとりもどし、まずしたのは歩くことだった。
ちょうど冬の入り口で、すごく寒かった。

ちいさな農家集落の、あまり人の通らない小路を歩いた。
生垣から伸びる南天の実や、藪のなか蔓を這わせるからすうりの実、そういう、木になる赤い実ばかり見ていたことだけよく覚えている。
そのほかのことはよく覚えていない。

毎日悪い夢を見て、しかもその夢があんまり極彩色で、目をさますと世界がとても色褪せて見えた。
原色の油絵を塗りたくられるような夢からもどってくると、現実はほとんど色味がなくて、淡い水墨画みたいだった。
夢であんまり消耗するので、夜が来るのが怖かった。そして、起きてから広がる色のない世界が哀しかった。
わずかな濃淡しかない世界をふらふらとさまよいながら、ここに色味があることを思い出すために、赤い実の存在をひとつひとつ、確認していたように思う。



冬至十日前、とよく祖母がいい習わしていて、どんな意味なのかはっきりしなかったけれど、どうも日の入りがいちばん早いのが冬至からすこし前のころらしい。いちばん早く夜が来るころ、ということ。夜がいちばん長いのは冬至の日だけれど、実は夜のおとずれが最も早いのは冬至ではなく、その十数日前になるという。
あっというまに夜になる、その凍える時期を注意して、すごす。そういう感じで祖母はつかっていた気がする。


歩くより他には何にもできなくて、赤い実ばかり眺めてたころ。
毎日毎日すこしずつ、夜が来るのが早くなる。深い夜に埋もれるみたいに、ぐっと冷えこむ時期を堪える。
冬至十日前。その時期は注意してすごす。日が短くなってゆくのは思いのほか心身に来るみたいで、とにかく厳しいときはじっと身を縮めて、しんとたえて待つ。夜の長い、暗い時期。冬至十日前、いちばん夜の来るのが早い日。冬至、夜のいちばん深い日。
一月も二月もほんとうは寒い。でもそのころになれば、すこしずつ日の光はふえてゆく。冬芽もしだいにゆるんでゆく。わずかに春のきざしがこぼれてくる。

だからいまできることは、じっとして、日々をたんたんと送ってゆくこと。目をとじて祈るように。
土のうえに霜はおり、常緑の木々が赤い実をつけ、柚子や金柑の黄色い実がなる。北風がふくときは家のなかに。体をあたためてすごす。


そうするうちに、ふきのとうが顔を出し、梅のつぼみがほころんで、お日さまのある時間は長くなる。
毎日のように続いた長くて重い夢が浅くなっていって、そこまで夢は見なくなって、春風がふき、あちこち花が咲いて、そのころには人と関わって日常生活ができるくらいには戻っていた。
ひたすらに赤い実を眺めなくても、あちこちに色味はあって、色とりどりなのがあたりまえになっていた。



いまはときどき夢を見るけれどあのころみたいに絡みつくような濃い夢は見ない。
現実にはちゃんと色味がある。そして冬は、白黒と、赤い実の色だけじゃないこともわかっている。野菊の花びら、雲のない空、夕暮れの黄色や紫、さざんかの桃色。
このまえは彩雲も見た。ピンクや水色、黄色、なかなか空にない緑色まで、とりどりの虹色に淡く光る雲。
派手ではないけれど、つつましやかな色たちが冬にはたくさんある。


霜のおりた地面を歩きながら、霜柱をくずして、白い息をはく。
冬至を過ぎた。あとは日がのびてくる。きっとだいじょうぶ。
いっせいに花が咲きはじめるまえの、ぐっと身をかがめているようなこの時期、それでも身のまわりにある色をひとつひとつ慈しむようにしてすごす。
たしかにそこにある色たちに、そっと手でふれる。
ひとつひとつが、とても愛おしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?