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初夏

新しい日々が流れてゆく。シャワーみたいに、肌を伝ってさらさら流れて洗われてゆく。


新しい仕事のためにブラウスを買った。真新しいブラウスに袖を通す。
肌ざわりが心地好い。うすくてしなやかで、かすかに張りがあって、ふんわりやわらかい。私もまたそうありたい。


昔、東北の雪深い町をおとずれたとき、タクシーに乗った。しんしんつもる真っ白な雪のなかを行く。

 雪道の運転は、いつかは慣れるものですか。

そう訊くと、運転手さんは、頷かなかった。

 慣れたら、いけないと思うんです。
 どこかでずっと怖いと思っていないと。

そう小さく呟いた声をよく憶えている。真摯だと思った。

慣れることも、大切かもしれない。でもどこか、慣れずにいる部分も、とても大事なのかもしれない。うすいブラウス。つくりたてのしなやかさ。いつか慣れてやわらかくなっても、どこかしゃんと背筋をのばすような、張りを自分のなかに持っていたい。



新しい日々が流れてゆく。さらさら音たてて遠くなる。

ハナミズキが咲いて散った。白山吹が咲いて、散った。エゴノキがたくさんの花をつけて、雨のように降った。ながめ暮らしている。日々が雨のように流れてゆく。


誰かの隣で本を読む夢を見た。大好きな作家の、読んだことのなかった本。

言葉を大切に辿りながら、あぁこのころはこんなに実験的な書きかたをしているんだ、と考えていると、隣で彼は仕事をしていた。
私は本をとじたけれど、ほんとうはまだつづきが読みたかった。その本の世界にずっと浸っていたかった。

 ページをとじてもその本のことを思っていたら、私はまだその本のなかにいることになるのかな。

そう訊ねたら、彼はPCの画面を見つめたまま、そうだね、と言っていた。自分がその本をかつて書いたことなんて忘れているらしかった。

 じゃあ私はまだその本のなかにいるんだね。
 たぶんね。
 そっか。私はまだ、さざ波のなかにいるんだ。


目が覚めてシーツのうえで窓から風が流れてきて肌をさらってゆく。五月の風。波のようにさらさら流れる。


さっきまで見た夢、隣にいた人のことを、私はまるで知らなかった。誰ともわからない人との時間。読みかけの本。交わしたことば。とじて消えたもの。でもその時間を思うとき、私はまだ夢のなかにいる。シーツのうえ。さざ波のなかにいる。



からだを起こす。風を受ける。夏のにおい。今日も新しくなってゆく。日々が愛しい。

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