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おとなになっても(感想2)_自分と他者を赦すこと

「おとなになっても」は講談社の月刊誌Kissで2019~2023年にかけて連載されていた漫画で、作者は志村貴子。
感想を2つに分けたので、これまでの感想はこちら。
以下、ネタバレを含む感想などを。

自分の気持ちに向き合い、対話を重ねる綾乃

綾乃と朱里の出会いは互いにとって運命的だったとはいえ、35歳という年齢的なことや社会的な様々なしがらみを考えたら、その関係はいつ終わったとしてもおかしくなかった。
二人が一緒になるための障壁は独身で同性愛者の自覚がある朱里の側にほぼ無くて、ほとんどの問題を綾乃の方が抱えておりそれは学生時代まで遡る。

綾乃には学生時代、自分を抱擁してくれる奈央という友人がいた。しかし奈央が抱擁する本当の意味に向き合えずに拒絶してしまったことで、綾乃も傷ついたが、自身が何に対して傷付いたのかという気持ちの整理をできなかった。
それから長い時間が経過し30歳になってから渉と結婚した。性格の相性が良かったのはあるだろうが、年齢的なものであったり、長女だから親の期待に応えたいという思いもあったのかも。

さらに5年が経過し子供が出来ないことで渉とすれ違うようになるも、夫婦間の問題に向き合えずにいた。
そしてたまたま渉が出張のタイミングに息抜きにと訪れたダイニングバーで朱里と出会ってしまう。

そうしてようやく綾乃はかつて奈央を拒絶したことで自分が傷付いた理由に気付くのだが、綾乃は嘘のつけない正直な性格だから、不誠実だと自覚しながらも朱里へ積極的にアプローチをする。
朱里の自宅を訪れて、玄関のドアを閉められまいと力を込めた右手甲に浮き出た血管に、狂気のような思いの強さが表れていて健気だが笑ってしまう。

綾乃に共感するのは、正直な性格のおかげもあるのだが、奈央を拒絶した際に自分の中にモヤモヤとした違和感を持っていてその理由や意味を言語化できずに長いこと抱えているところにもある。

それは性的志向のことだけでなく、そのような違和感は理不尽なことや、モラルに反するような場面に出会った際に「でもそれが世の中の常識だから」と無意識に心へ蓋をしてしまい心の奥底に沈殿したりする。
その違和感はたいてい消化不良な気持ちを抱えたまま、後から何に対して気付いたとしてもそのままにしてしまうことも。
なぜなら、そういう違和感に抗ったところで自分自身も傷を負うことになりかねないから。
だからこそ後悔しないために自分の気持ちへ正直に向き合い、さらに自分が傷つけた人たちと丁寧に対話を重ねた綾乃のあり方を美しいと思うのだ。

相手を赦すことについて

『おとなになっても』では、綾乃と朱里の周辺にいる人々も様々な過ちをしでかす。綾乃の義妹の恵利は美容院の店長と不倫をするし、店長はその相手となる妻に暴力を振るわれていたり。

綾乃と渉の関係が冷え込んだ理由には、都合の悪いことに向き合おうとしない渉の態度にも原因があったろうし、綾乃の不倫をファミレスで耳にして保護者会で吊るし上げていた保護者たちもやり過ぎだ。
なかでも特に印象の悪いのが綾乃にとっての義母で、なんといっても自己中心的な行動に原因がある。

義母が恵利の引きこもりを隠して、周囲へうまくやっているように見せかけたのは、『自分が母親として失格』と思われないための見栄であって、恵利のことを最優先にしているからではない。
また綾乃が浮気していることを知るや、ペナルティだと言って自分らと同居させて、恵利の面倒も任せようとしていたのもいただけない。

しかし渉はそんな母を、他の家族も見ないフリをしてきたと、自分たち家族全員の責任についても振り返っており、義母ひとりを悪者のままにはしない。
また敢えて義母を擁護するなら、引きこもりを家族を恥ずかしいと思わせる社会にも問題があると思う。
2022年の内閣府の調査で146万人も引きこもりがいるのに、引きこもりになってしまう根本原因の改善であったり、復帰しやすい仕組みがわかりやすく用意されていないのだから。

他者への過度な期待や責任の押し付けでは綾乃の教え子だった、まなも母へ完璧を求めすぎたと過ちに気付いて反省していた。

ではそのような過ちに対してどう対処するのか。
それを最終話で義母による「赦す」という言葉で締めくくっているが、もう本当にそれしか無いと思う。

家族や親しい人にはどうしても期待をかけてしまうし、他者とのコミュニケーションにおいて期待をするのは必然だと思う。
しかしそのかけられる期待が適切か否かというのは、期待を掛けられた側にしか判断できないし、時間が経って後から分かったりもする。
だから自分または他人に対する過度な期待や過ちに対して、赦さないとするなら、いずれは心を壊してしまうかもしれない。だったら赦す方がはるかにマシだと思う。

余談だけど、改めて言葉の意味を調べたら同じ言葉の響きの「許す」は許可する/認めるで、「赦す」には”思いやりの心”で過ちをゆるす意味合いがあるとのことで、なるほどなぁと。

手放しのハッピーエンドにしない

周囲を巻き込んで同居することになった綾乃と朱里の物語はハッピーエンドだけれども、綾乃は「私たちの関係っていずれ破綻すると思うんです」とやがて関係が破綻する可能性を仄めかしてもいる。

それを聞いた朱里は取り乱していたが、それから少し時間が経過した最終話で「でも これは いつか自分たちにも起こりうる話」と落ち着いて話しており、その表情は前向きだった。

朱里にどのような心境の変化があったのか考えてみる。
そもそも二人の同居は、社会的なしがらみよりも「自分たちの正直な気持ちを優先」して行動し手に入れたものだ。
これは二人それぞれに言えることだが、今後さらに運命を感じる人に出会ったらどうなるのか? としたら、まさに前科のある二人だけに将来のことは確約出来ない。

また、二人の同居生活にはこれから様々な障壁も想像される。綾乃の父親は二人の同居に否定的だし、綾乃が受け持つ生徒の保護者に同性愛者だということがバレたら、またはどちらかが先に亡くなったら、などとマイナスなことを考えたらキリがない。

そもそも男女の結婚生活にしたって、時間が経過したら結婚当初の恋愛感情は変質していくものだ。ましてや同性同士の結婚は現在の日本では認められていないから、様々に困難なことがあると思う。
だから二人の物語を映像化したことで、自分たちのことを客観視されて様々な可能性に気付いたのかもしれない。
そうして綾乃が「その都度話し合いましょう」とも言っているとおり、実際には簡単に別れないだろうし、なにより関係を終わらせたり、やり直すにもそれなりに労力がいることを二人はよく知っている。

それでも、今後起こりうるなんらかの過ちや問題に対して「赦す」という選択肢を残しておくのが必要だし、いずれは別れが来るとことを想像し覚悟しているからこそ、日々の生活を丁寧に生きるというか、かけがいのない日常に幸せを感じて生きていくことが出来るとも考えられる。
だからこそ様々な問題を見て見ぬふりをして、キレイにまとめるよりもよっぽどポジティブで現実的な終わり方だったと思う。


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