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お茶漬けの味(感想)_素朴さを好む男のこだわり

『お茶漬けの味』は、小津安二郎監督による1952年公開の日本映画。
理解し合えない夫婦関係を通して男の隠された魅力を掘り下げるの本作は、かなり地味な印象。しかし、夫婦関係や嫁入り前の娘の結婚感などは、他の小津作品との比較してみると興味深い作品。
以下、ネタバレを含む感想などを。

素朴な夫と、育ちの良い妻

佐竹茂吉(佐分利信)は地方出身者で質素な生活を好み、丸の内の会社で機械部の部長として働いている。その妻の妙子(木暮実千代)は裕福な家庭に育ったせいか、夫のことを軽んじているところがあって、友人の雨宮アヤ(淡島千景)や、姪の山内節子(津島恵子)と共に温泉旅行や野球観戦に行ったりと外で遊び歩いている。

この二人の価値観には大きな隔たりがあって、妙子が優雅な生活を好むのに対して茂吉は安物タバコを吸って汽車の3等に乗るような気易さが良いという。

ぼくの場合、なんて言ったらいいかな。
インティメートな、もっとプリミティブな、
遠慮や気兼ねのない気易い感じが好きなんだよ

これを聞いた妙子は「もうたくさん」と、聞く耳を持たずに去って行ってしまうのだが、過剰な幸福を求めない茂吉の生き方には、なんともいえない共感を覚える。
質素も行き過ぎると貧乏くさくて卑屈になったりもするが、茂吉にはそういうところがなくあくまでも自然体。自分の価値観を妙子に押し付けず、むしろ外で好き放題に遊んでいても、目をつむる懐の深さまである。

茂吉と妙子は見合い結婚だが、二人の価値観が対照的なのは実家の資産や家の格に格差があるからではと想像する。

裕福な黒田家でのびのびと育てられた妙子が、質素な生活をしてきた茂吉と結婚しているのは、ひょっとすると、黒田家の側からすると妥協だったのかもしれない。
つまり、黒田家と釣り合いの取れる家柄の夫候補が見つからず、「せめて稼ぎの良い真面目な男を」ということで、家柄は良く無いが丸の内の会社で働く茂吉が選ばれたのではないか。だから妙子は茂吉に対して見下した態度を取るのかもと考えた。

見合いを拒む姪に理解を示す茂吉

小津作品では、世間的に適齢期とされる娘が見合い結婚に抵抗を示す描写がよく見られて、本作では茂吉の姪となる節子がそれにあたる。

節子は男女の出会いに対しての理想が高いから見合いから逃げ出すわけだが、それを知った茂吉も表面的に節子を諫めるものの、見合い結婚した自分と妻の冷えた関係のことがあるから「嫌だってものはしょうがない」と節子に寄り添いもする。

茂吉がいかにも若い娘に理解のある男のように映るが、それは節子が姪だから寛容な態度でいられる可能性が考えられる。
というのも『彼岸花(1958)』での平山渉は自分の娘が見合いを拒むのをよしとしないが、知人の娘に対しては理解を示すようなダブルスタンダードだった。
その平山渉の役を同じく佐分利信が演じていることもあって、比較すると興味深い

いずれにせよ、物語は最終的に茂吉と妙子が夫婦の絆を深めて終えるから、これは見合い結婚でソリの合わない夫婦であっても、長く一緒に居たら分かり合えることもある、というメッセージが込められているのではないかと思う。

急に心変わりする妙子の不可解さ

妙子は茂吉の出張をきっかけに態度を改めることになるのだが、急な心変わりの理由が分からず、妙子に対しては印象が悪いままだった。

妙子が夫に嘘をついて外で遊び歩いていることに対しては同情する部分もある。
子どもは不在で女中がいるから家事は必要無いし、茂吉は仕事で残業や付き合いで帰りが遅くなるだろうし、妙子のやることを許容しているのは見方を変えたら妻への無関心とも受け取れる。
そんなだから妙子はある意味誰からも必要とされておらず、拗ねていたのかもしれない。ひとり家に残されてやることが無いし、金に困っても無いから外で友人と遊ぶくらいしかやることは無いだろう。

しかし、そんな妙子が飛行機の故障で帰宅した茂吉に対して急に態度を改めた理由がよく分からない。電報を受け取った旅先でなにかあったのか?
ポジティブに捉えるならば、妙子がやっと質素な生活の良さや茂吉の魅力に気付いたということだが、そのきっかけがどうも解せない。

見送りに来なかったことを友人たちから厳しく言われた後に、自省したというのは可能性として考えられるが、裕福な家庭でのびのびと育てられて強気な性格の妙子がそれだけで茂吉の全てを受け入れるような態度を急変させるように思えないのだ。

クライマックスともいえる、茂吉の魅力が引き立てられ、夫婦水入らずでお茶漬けを旨そうにかっ込む印象深いシーンが、妙子の心変わりの理由が分からずモヤモヤする。

これは想像だが、長期間日本を離れる夫の見送りに行かなかったことで、体裁の悪さから離婚される可能性を考えて、茂吉に擦り寄ったのではあるまいか。
つまり、友人たちや節子への惚気けもすべて自分が妻として相応しいことをアピールするための嘘なのではないかと。
友人と節子が去った後に首を掻く仕草をする瞬間に暗い表情を見せるのは、友人たちに自分が薄情な女だと思われないために嘘を並べたからなのではと邪推してしまう。

本作は1952年の公開作品というだけあって、戦後を思わせる描写もある。
競輪場や野球場の観客席は長椅子が並ぶだけの殺風景な様子で、茂吉が偶然パンチンコ屋で出会う平山定郎(笠智衆)は、戦時中に部下だったからいまだに班長と呼ぶ。
経営するパチンコ屋が流行っていることに対して「こんなもんが流行っとる間は世の中はようならんです」と否定的なのは、せっかく戦争で生き残った大事な命なのに、享楽的な娯楽を提供していることへの申し訳無さもあるのかもしれない。

また、本作で印象的な女優として、くわえタバコで銀座で仕事をする雨宮アヤを演じる淡島千景の格好良さが際立つ。仕事中なのに唐突に温泉に行こうと友人を誘う思い切りの良い性格も素敵。
夫が金の無心に来たら、夫のプライドのことを考慮してその場は渡して帰すけど、その後こっそり金を巻き上げたりと抜け目ないところも良い。


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