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イノセンス(映画)感想_サイボーグの抱える苦悩へ正面から切り込む

押井守監督による2004年作品。前作『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』から3年後の西暦2032年。草薙素子不在の公安九課が、愛玩用アンドロイドによる殺人事件を追うことになる。
本作の主人公はバトー。相棒はトグサとなって難解な電脳戦や過去の名言を引用した抑揚の少ない会話シーンが多い。そのため映画としてはかなり地味。公開当時、自分は映画館で観たが内容をほとんど理解出来ず、ただ映像表現の素晴らしさだけは印象に残り、正直期待はずれだった。しかし落ち着いて観直してみるとかなり味わい深い作品だったと気付く。

<ストーリー>
西暦2032年、人とサイボーグ(機械化人間)、そしてロボット(人形)が共存する近未来。そこで人間のために作られた愛玩用アンドロイドが、原因不明の暴走を起こし所有者を殺害、その後、アンドロイドは自壊し、電脳は初期化されるという未曾有の事件がわずか1週間に8件も続発した。
テロの可能性を察知した公安九課の荒巻は、メンバーに事件捜査の命令を下した。相棒のトグサとともに、問題のアンドロイドの捜査のため所轄署に向かったバトーは、鑑識課の検死官ハラウェイから、人間と人形の関係性についての持論を聞かされる。
「人間は、何故こうまでして自分の似姿を作りたがるのか…」。
その帰り際、沿岸のボートハウスで、ロクス・ソルス社のアンドロイド出荷検査官が殺害されたとの知らせが舞い込んだ。暴力団“紅塵会"が組長をアンドロイドに惨殺された報復…ロクス・ソルス社と紅塵会の繋がりとは…この殺人事件をきっかけに、アンドロイド暴走事故は、バトーとトグサの専従捜査に切り替えられる。
事件の黒幕を誘い出すため、紅塵会に殴り込んでド派手な銃撃戦を繰り広げるバトー。だが、その後バトーは何者かのハッキングによって暴走、日も変わらないうちに食料品店で銃を乱射する不祥事を起こす。
公安九課の存在意義を問われる事態…だが、荒巻が下した決断は、組織的支援なしで捜査続行だった。ロクス・ソルス社に直接当たるしかない…バトーとトグサは、事件の真相を解明すべく、極東の北端、択捉へと向かうのだが…

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ディストピア感漂う、近未来の作画は緻密で美しい

オープニングの金属でつくられた骨格や肌のなめらかな質感の断片的なパーツから徐々に組み上がっていく映像が良く出来ている。細い糸のようなもので繋がったパーツ同士がお互いが呼び合うように寄せ集まって、段々と人らしき形が形成されていく様子が様々な角度から見られる様子は、生命を吹き込むための厳粛な儀式のようで美しい。
また、街並みの緻密な映像表現が素晴らしく択捉で催されている祭りの喧騒の細やかさ、キムの住む洋館のステンドグラスなど細部までこだわりを感じさせるつくりになっており、これは2020年の今でも高い品質だと思われる。

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音楽は前作同様に川井憲次となっており、暗くエキゾチックな雰囲気の楽曲が心地よく、サントラ単体で聴くとかなり暗いが世界観には合っている。電子、電脳、アンドロイドだからと安易にテクノミュージックにしないあたりが独特で良い。

人間と人形(義体)の境界

前作はゴースト(魂)の存在や、その人固有の記憶によるアイデンティティなどがテーマとなっていたが本作もその延長として、主に人形(サイボーグ)が取り上げられている。
主な登場人物は、トグサ(人間)、バトー(サイボーグ)、素子(物理的な躰を持たない存在)というグラデーションになっており、サイボーグは果たして人と言えるのかという疑問が投げかけられることになる。ゴーストダビングの被害者である生身の少女から「私は人形になりたくなかった」と言われるバトーの言葉に詰まる様子はその存在を否定されているようで切ないし、大半の人間の正直な気持ちを代弁する子供に嘘は無い。

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トグサと乗り合わせた車中、バトーが素子について語るシーンがある。

元々アイツの所有物は脳みそとゴーストだけだ。
もっとも本人はその存在すら疑っていたがな。
義体も電脳も政府の備品に過ぎないし電脳内の機密情報を含めた記憶一切が政府の所有物だったんだ。・
上の連中が回収したいのはその記憶であって、アイツの生死それ自体は問題じゃない。

これはバトー自身にとってもほぼ同様で、生身の部分がほとんど残っていないことに加えて、自らに意志で動かしている義体すら自分の所有物では無いのだ。つまり存在そのものが政府管理であるところの公安九課によって制限されているといえる。仕事をこなす分には生身のトグサを遥かに凌ぐ性能を持ち合わせているが、生身の人間には手に負えないような犯罪が起きるからこそ、バトーのような存在が必要ということ自体が皮肉だ。つまり、凶悪な犯罪者が不在であればバトーの存在意義が無い。

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また、本作では人形の持つ不気味さがよく表現されている。CGの人間に対して「不気味の谷」という言葉で語られるとおり、ロクス・ソルス社製の少女型、愛玩用ガイノイドが中途半端に人間に似せてつくられており、未成熟で弱々しい存在の少女を模倣した外見から、表情ひとつ変えずに俊敏な動きで人間を襲ってくる不気味さはまさにホラーだ。

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バトーは、今後何を生きがいに生きていくのか。

大事なパートナーである素子を失ったバトー。荒巻によれば「失踪する前の少佐を思い出す」と気にかけられている程に、生きることへの興味や関心が薄い。生きることの意味を失いかけていることは、素子への問いからも想像出来る。

バトー「ひとつ聞かせてくれ。今の自分を幸福だと感じるか」
素子「懐かしい価値観ね。少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ」
孤独に歩め、悪を為さず、求めるところは少なく、林の中の像のように。
素子「バトー、忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき。私は必ず
アナタの側にいる...」

素子にすれば正直な回答なのだろうが「懐かしい価値観ね」と、義体ありきで存在しているバトーからすればまるで共感出来ないセリフであり、ある意味コンビを解消された立場からすると酷だと思う。なので「側にいる」と付け加えたのは、素子なりのフォローなのかもしれない。いずれにせよバトーは今後も自分のことを人として認識しながら生き続けることしか選択肢は無いように思える。

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そうして、サイボーグであることへの折り合いを理屈で理解しているからこそ、意図的に手間のかかる犬を飼って現世との繋がりを保っているのかもしれない。
また、素子との再会シーンでは、バトーが素子の乗り移ったアンドロイドへ自分の上着をかけてやるシーンがある。これは素子を一人の女性として扱っているからだと思うのだけど、少しの間とはいえ再度コンビを組めることへのバトーの喜びの感情を感じられる。
それに対する素子の反応は「変わってないわね」とほんの少しだけ意外そうにつぶやくのだが、二人の親密な距離感が、かつてと変わっていないことを再確認出来る印象的なシーンとなっており、自分はこのシーンが好きだ。

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草薙素子の存在と、これからについて

ネットワークと融合したかのような素子が死ぬまたは存在の消えることは今後有り得るのか。前作で人形使いから死と再生を求められて素子と一体化したと思うのだけど、物理的な実体すら持たない素子に死が訪れることが想像しづらい。(それはきっと、すべてのネットワークが死に絶えた時だろう)
命は有限であるからこそ尊い。幸せという概念も無く死ぬことすら出来ない素子は何のために存在するのか。自分の一部を義体へダウンロードし、世界へ干渉することは出来るのだが、その存在はある意味昔話などに登場する神に近しい存在にも思えるがその行動範囲は限定的に思える。自分にはバトーとの関わりにおいてのみ世界へ干渉する未来しか想像が出来ない。
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イノセンス_チラシ

攻殻機動隊のアニメは、「Stand Alone Complex」や「ARISE」などもあってどれがどれっだたか、いつも混乱するのだけど自分は押井守による暗い劇場版2作品が好きだ。人間の存在意義についてストレートに訴えかけてくるので余計なことを考えなくて良い。

余談だが、2004年は東京都現代美術館でハンス・ベルメールなどによる「球体関節人形展」が開催されていた。人形の持つ不気味さにイマイチ興味を惹かれなかったのだけど、今にして思えば行っておけば良かったと思う。

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