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愚痴る理由と愚痴らない理由

人生どうせなら楽しく過ごしたいと思うのは基本的には誰しも同じです。
しかし、そうありたいと思っていても、無意識のうちにそんな生き方が出来ていない人は大勢います。

それはなぜか?

当たり前ですが、一人一人、考え方は違うし、受け取り方も違います。
その考え方や受け取り方によって、180度違った世界になる事に早く気付くべきだと思うのです。

フッと方向を変えて考えてみると、今までは何だったのか?
と憑き物が落ちたように軽い気持ちになれる事もあります。

そのコツを得ることで、ずっと楽に生きて行けるのに「もったいない」の一言に尽きます。

そういう私も過去に勤めてきた長い社会生活の中で、やっとわかってきた次第です。そこにたどり着くまでには数々の失敗を重ね、反省する事で、自分なりの教訓みたいなものが出来てきたように思います。


人の振り見て我が振り直せ

同僚の文句や愚痴話を聞いていて、共通して思う事は、「あなたもそうよ」という事。

たいてい、自分の事は棚に上げて他人のあら探しをしています。
じゃぁ、あなたはどう?
同じことしてるよ。
パターンは違ってもその基本は同じこと。
そこにまったく気づいてない事に、第三者の私にはよく見えてしまいます。

自分が、他人の言動に関して不快に思ったのなら、自分だけは同じことを他人にしないように、心掛ければいいと思うのです。
いい教訓を得てラッキー!というぐらいに思っていればいいのではないでしょうか?

きっと誰かに話して同調してほしいだけなのでしょう。
第三者に愚痴っても何も解決にもならないにもかかわらずです。

聞かされる方は簡単に何でも同意する事も出来ず、返答に困る事もあったりします。

あ~ぁ、ゆっくりお昼休みを過ごしたいなぁ。
話長っ!いつ終わるん?

と、内心は話の本筋よりも、聞くこと自体にうんざりしてしまいます。

こんな風に、自分が愚痴る事でその相手に不快感を与えているかもしれないと、ちょっとだけ気づく配慮は必要なのです。


五十歩百歩

会社の方針に対して不満の場合、本当にとことん嫌なら転職を考えるべきで、愚痴っている場合ではないです。

部下に対する評価基準がどうもおかしくて、えこひいきしてるように見えたりする時、まずは上司に対しての不満を膨らます前に、自分はどうか?と考えて見てください。

自分に落ち度はなかったか。
評価してもらえた人と自分との差は何か。
会社の基準はどこにあるのか。
と、考えてみる事が最優先なのです。

少なくとも、そこで上司に食って掛かったり、あろうことか評価してもらえた人にイヤミを言うなどは、愚の骨頂で、何の解決にもならない。
自分が不快に思っている人達と、同じレベルに自身を置いてしまったという事なのです。

それどころか、自分で自分の値打ちを貶める行為になるのです。

どう考えても職務は果たしてきたと思うなら、一時的な感情がこみ上げてきても、いったん飲み込んで、自分なりに精査してから、意見として冷静に言べきではないでしょうか。

それでもダメなら、その上司を選んだ会社の方針が自分には合っていないという事です。

自分に非がなく、会社の方針に対して疑問と不満を感じた時にはどうするか?

きっぱり退職するか or 割り切って職務を全うするか

大きくこの2択になりますが、いずれにしても、不満に感じた会社と同等レベルの人間にならないよう心掛け、自分のための行動を起こすべきなのです。


愚痴と相談は違う

同じ愚痴でも、それこそオチをつけて最後は笑い飛ばすぐらいのものなら、それはかえってその場を和ませ、聞いた側にとっても良い教訓として残るものです。

そう出来るという事は、ある程度自分の中で結論を出している愚痴なので、まったく性質の異なる物だからです。

そして、そこからが本題で、結論付けたその愚痴話から、これからどう進むべきかという前向きな相談事は、むしろアリだと思います。

そういう風に相談されたなら、こちらも誠心誠意、自分の知っているノウハウを語り、少しでも役に立ちたいと思うのは当然の人情です。

それは、ダラダラとした結論付けしていない愚痴話で終わらず、未来に向けて展望が開けた話となっているので、聞く側も答えようがあると言うものです。

ただ、一生懸命、ノウハウや答えを話しても、結局何も行動してくれない人も、中にはいますが…
そんな時は、逆にこちらの方が、そこまでの人だったとハッキリと判断できるので、自分にとって結果はOKではないでしょうか。

誠意が伝わる人と伝わらない人は必ずあって、ここで誰にでも伝わると思ったら大間違いで、伝わらなかったのならその人との意思疎通に齟齬(そご)があるという事で、無理にわかってもらう必要もありません。

それがわかっただけでも、誠意を尽くした事は無駄ではなかったのです。


愚痴る時間と労力は無駄

愚痴る人の共通点は、裏を返せば、周りの人たちや自分が属している組織に対して依存している傾向にあります。

この人だけは味方になってくれる。
会社がきっと何とかしてくれる。
私がこう思うのだから、相手もそうだ。
常識がなさすぎる。

それらは手前勝手な妄想で、自分サイドの考えでの思い込みに過ぎませんし、それこそ依存しているという事なのです。

人それぞれ、考え方が違えば常識の範疇もまた大きく違ってきます。

自分の狭い物差しだけで物事を図っていると、思ってもいない反応や対応が返ってきたり来たりします。ましてやそういう時に、つい戸惑ってしまって感情的になるは愚の骨頂です。

常識や考え方は違うのは当然ですし、周りの人は自分の思い通りにならなくて当たり前なのです。

それが理解できていない人は愚痴るのです。
得てして、そういう人は職場を変えるなどして、環境を変えても同じ事でまた愚痴が出ます。

与えられた環境の中でどう過ごすかは自分次第です。


対して愚痴らない人は、そんな当たり前のことに文句を言っている時間が惜しい。

ましてや久しぶりに会ったにもかかわらず、愚痴る事に時間を費やすなど、もったいない以外の何物でもないのです。
同じ時間を過ごすなら、共有できる話題で楽しく過ごすべきではないでしょうか。

自分のやりたい事やしたい事をちゃんと見つけて、適切な目標を持って、自分の人生の時間をどう過ごすかを常に考えているのです。
結論の出ない事に、不平不満を吐いている暇はありません。

自分の人生が充実している人にとって、どうでもいい事なのです。


ポリシーを持っている人は強い

若い頃は経験不足が経験で、咄嗟の事に対応できず感情的になったりする事もありました。
後で冷静になって考えると、ああ言えばよかった、こうすればよかったと、口惜しい思いが湧いてきたものです。

しかし、定年退職して、還暦を迎えた今、それらの事を繰り返して積み上げてきた教訓は、私の中でファイル分けして、たくさんの引き出しに仕舞い込んでいます。

これらは何よりの財産で、咄嗟の時には、この引き出しからこのファイルを出して対応しようと、判断できるようになってきたと思います。

要するにこれが年の功なのですね。

それらの財産によって、自分なりのポリシーは出来上がり、かといって違う教訓にも素直に気付ける柔軟性もできてきました。それは、妥協という言葉の方が近いかもしれません。

年の功で、ちょっとだけ先が読めるようになると、いい意味で諦める事が出来しまうのです。

「諦める」という言葉は、「明らかに見る」というのが語源で、決してマイナス思考の意味ではなく、物事を見通せるという意味なのです。

こうありたいと自分の中でポリシーを培い、ビジョンが描けたのなら、もう愚痴っている暇などありません。
前を向いて、生きてゆきましょう!


要するにまとめると

・自分がされて嫌な事は人にもしない。
・一時的な感情での言動は自分のレベルも落とす。
・物事や人は自分の期待通りにはならない。
・依存心は捨て、自分で結論を。
・与えられた環境で自分の立ち位置を考えよう。
・諦らめる事は先を見る事。
・教訓を積み重ねて、自分のポリシーを築こう。

ほんと、単純な事なのですが、それがなかなかわからない人が多い。
そういう私も、気を付けようと思います。


今日はふと、ある人の愚痴話を思い出して、私もまた思った事をかいてみました。
あれ?これってもしかして愚痴かな。。。

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