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ニュートラルな絵画と主張する絵画

マガジンを増やしました。

芸術系のもので、画家や芸術家やその作品に関してのエピソードを集めたものです。


実は絵画も好きで、いや元々はそうではなかったのですが、過去に画廊に勤めていた事があって、20代後半になった頃に、知識など何一つないくせになぜか興味が湧いて、試験を受けたら受かってしまったのです。

入社してしてすぐに3ヵ月間、みっちり研修を受けて、仕事だと割りきって学んでみると、これがまたなかなか面白い。

その画廊は、主にヨーロッパ系の画家のものをあつかっていて、ピカソミロシャガールゴーギャンカシニョールなどの|リトグラフ《版画の一種》などの多くの絵画を見る機会に恵まれました。

それをキッカケに様々な画家の事を知るようになり、また折を見て心に残る画家の人生と画風をに触れていきたいと思ったのです。


部屋に飾るなら抽象画

その当時はまさしくバブル真っ只中で、純粋に芸術を好む購入ではなく、土地と同じようにその値打ち価格の上昇を見越しての、投資目的で買うお金持ちがは非常に多かった。

彼らはそれこそ、一枚何百万もするような絵画を、スーパーで野菜を買うような手軽さでポンポン買うのです。

その絵の芸術性など全く観ずにです。


私も最初こそ見てわかりやすい写実的な絵が良いと思えたのですが、たくさんの絵をみているウチに、だんだんと抽象的な絵に惹かれて行くのが、自分でも不思議でした。

その時の同僚から結婚の際、お祝いに頂いたジョアン・ミロのリトグラフです。⇩ ⇩ ⇩

当初からずっとリビングの飾っているので、色が随分褪せてきています。
おそらくミロの死後、刷られたものなのでしょう。エディションナンバーはないので、それほど高額ではないとは思いますが、それでも印刷ではなく、リトグラフなので、十数万はしたかと思います。

ミロの比較的古い作品は、まるで「星新一」の小説の挿絵になりそうな、ちょっとコミカルな宇宙的な絵なのですが、たまに日本の「書」を思わせるようなダイナミックな絵があります。

検索しても、これだという画像は出てこないのですが、若い私はその作風に目が釘付けになってしまったのです。
それ以後、ジョアン・ミロの絵を見直すようになりました。

ミロに限らず、明るい抽象画はには不思議な力があって、同じ絵でありながら毎日眺めていると、観る側のその日の心持ちによって、その絵の雰囲気が違って見えるのです。

もしかしたら、私だけかもしれませんが…

自分の気持ちを表してくれる上、写実ではないので想像力をひたすら肥大させてくれて、飽きないのです。

そういう所が、抽象画の最大の魅力でしょう。
名画はたくさんありますが、脱力して眺める事が出来るニュートラルな抽象画は、私とって部屋に飾るべき”絵”なのです。


強烈な印象の自画像

逆に、一目見ただけで強烈に心に刺さる作品があります。

それは脱力してなんとなく眺めて和むという次元では全くなく、見た途端に直接心の奥底にまで語りかけてくるような絵です。

例えば、砂川さんが記事にされていた「村山槐多かいた」です。

彼の自画像に久しぶりに衝撃を受けました。

槐多かいたは、親の反対を押し切って芸術の世界へ進み、文学や美術の才に恵まれ、数々の賞も得、成功の兆しを見ながらも、若いうちから酒や女に溺れ、同性愛にハマり、結核やスペイン風邪などの病魔に侵されて、精神的に追い込まれた挙句、たった22歳で生涯を終えた画家です。

なぜ彼は成功を治めながらも、荒れた生活へと進んでしまったのか??
なぜ彼は満たされなかったのか?

私は彼の事は知らなかったので、余計に衝撃でした。
そしてその自ら破滅へと向かうかのような自虐的な人生は、頭の中で世界的に有名なゴッホのものとリンクしてしまったのです。


ゴッホの訴えるものは何だろう

※画像引用元サイト ↓ ↓ ↓

村山槐多かいたと同じく、表情はいかにも神経質っぽく眉間にしわがより、その目はグッとい力強くこちらを睨んでいます。

そしてその背景は実際に存在している物ではなく、禍々しくもあるオーラ的なものを表すかのような抽象的な表現になっています。

ゴッホは何点か自画像を描いていますが、私はこれらを見るたびに、しばらく凝視せずにはいられないのです。

人と上手く付き合う事が出来ず、ずっと弟・テオの世話になり続け、それでも描くことを止めなかったゴッホは、生きている間にはたった1枚しか売れなかったと言います。

死去する5カ月前に知人の女流画家が400フランで買ってくれたそうです。1フランを20円として換算するとたったの8,000円です!
狂ったように生涯を通して描き続けた絵の報酬が、たったそれだけだったのです。

※画像引用元サイト ↓ ↓ ↓


それに、「ひまわり」も何点も残しているのですが、その理由を偶然見つけたこちらのnaomiさんの記事で知って、哀しくなりました。

他の画家との共同生活を夢見て、その食堂にかけるために何点も描いたというのです。

そんなにも寂しい思いをしていたのかと思うと、とてもやりきれなくなりました。
きっと人恋しくて、いつも人情に餓えていたくせに、人と上手く接する事が出来ず、誰とも仲良くなれない。
その激しいジレンマがダイレクトに響いてきます。

※写真は過去に大塚国際美術館を訪れた時のものです。

秀でた才能を持ちながら、あまりにも孤独だったために、自分の精神を保つことが出来なかったゴッホと村山槐多かいたが重なってしまいました。

彼らの絵は、孤独だったからこそ生まれた独自の才能だったのか?
才能があるからこそ孤独になってしまったのか??

自分の才能のせいで追い詰められたのか?
追い詰められたからこそ才能が発揮したのか??

自己を主張して攻めるような絵から感じるのは、
どちらにしてもその起因は「寂しさ」だったように思えて、
なんだか、彼らの”心の叫び”が聞こえてくるような気がしました。

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