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その親子はいつも陽だまりに包まれていた

「お子様たちはお元気?」と久しぶりに会った彼女に聞かれて、
「ええ。お陰様で元気すぎるぐらいです。」と、私は答えます。

私の家は350戸もある大きなマンションの6階で、彼女の家はその真下の5階です。
ピッタリ上下の位置に住んでいながら、めったに顔を合わせる事はなく、たまにエレベーターやエントランスでバッタリ出会うと、こういうやり取りになっていました。

昨日、久しぶりに会って、
あぁ、お元気なんだなと、ホッとしたのです。

もう7年も経つでしょうか、彼女の最愛の息子さんが亡くなったのは。

「筋ジストロフィー」という難病で、いつもいつも、親子はどこに行くのも寄り添って行動していました。
いつも可愛くて仕方がないという目で接していた彼女の姿は、私にはとても神々しく映っていたのです。





筋ジストロフィーは不可抗力

筋ジストロフィーとは筋肉を構成するタンパク質の遺伝子の変異 によって、筋力が低下し運動機能など各機能障害をもたらします。

3歳ごろまでに、走れない、飛べない、転びやすいなどの症状が出始めて発症し、運動能力は5歳頃を境に低下し、全身の筋力が衰えて、やがてはあらゆる合併症を引き起こします。

嚥下障害、心不全、糖尿病、良性・悪性腫瘍などの重篤な病気に発展してしまう可能性もあるのです。

不思議な事に男子のみが発症するのですが、遺伝するわけではなく、突然変異による遺伝子異常なので、防ぎようもなく特効の治療法も解明されていない難病中の難病なのです。





ベランダ締め出し事件

彼女の息子さんは、私の息子たちより10歳ほども学年が上ということもあって、お互いに接点はなく、見かける事はあったものの、話をする機会もなかったのですが、ある出来事をキッカケに話をするようになりました。

21年前の春、洗濯物を干そうとベランダに出たら、当時1歳半の次男に内側から鍵をかけられて締め出されてしまいました。

ベランダ側に大きな窓は隣の部屋にもありますが、そこも施錠したままだったのです。

4歳の長男は幼稚園に行っているし、もちろん主人もいません。
おサルみたいな次男と二人きりなので、仕方なく、外側から次男に鍵を開けるようジェスチャーで指示しますが、まったく通じません。

そのうち知らん顔して、おもちゃで遊びだす始末で、何度か窓を叩きながら、次男を呼んでも、私の真似をして窓を叩くだけなのです。

途方に暮れていると、ベランダの下から、
「どうしたの?」と声が聞こえてくるではありませんか。
下をのぞき込んで事情を話すと、
「玄関は網戸になってる?」
「な、なってます!」

あー!そうだった。
まだ肌寒いので玄関ドアを網戸にするような季節ではなかったのですが、その日はたまたま先に掃除機をかけたので、空気の入れ替えのために玄関をルーバータイプの網戸にしていた事を思い出したのです。

「ちょっと待っててね!」と、彼女はいったん引っ込むと、やがて、手鏡を片手に玄関方向から走ってきて内側から窓の鍵を開けてくれたのです。

なんと、手鏡の柄の部分を、ルーバー網戸の郵便差し込み口から入れて、手探り状態でレバーを回して開錠してくれたのです。

「網戸やから、何とかなったけど、ドアに鍵がかかってたらプロに頼まなあかんかったね。」と、彼女はにっこり微笑むのです。

お礼を述べて心の底から感謝するとともに、この人が真下の住人だったのかと、あらためて認識できたのでした。

確か引っ越してきた時に挨拶に行ったきりで、いつしか名前も顔も忘れてしまい、たまに見掛けてはいたものの、お互いに名前と顔が一致していなかったのです。
もちろん、どの部屋に住んでいるかも知りませんでした。

この日をきっかけに、彼女は見知らぬ人から「ご近所さん」になりました。


会うたびに進行する症状

それ以来、彼女と会うと二言三言話すようになり、そうなってからまだ最初のうちに、
「この子は先天性の筋ジストロフィーやねん。小さい頃はちゃんと歩いてたんよ。」
と、聞きづらい私の気持ちを察してか、彼女の方から告げられました。

その様子には暗さなど微塵もなく、カラッとした明るさに満ちていました。

同じマンションに住んでいるとはいえ、たまにしか会えないのですが、息子さんの症状がどんどん悪化してゆくのがわかりました。

最初は普通に座れていたのが、腰や首を固定する器具が取り付けられ、次に頭を固定。
そして手足も固定具で支えるようになり、とうとう目だけしか動かせないような状態になっていきました。

自家用車を車椅子用のものにし、毎日の学校もリハビリや病院もすべての送迎をして、どこに行くにも行動を共にしていたのです。

マンションはコの字型で、その内側が駐車場となっています。
ちょうど玄関を開けると、下には駐車場が広がっていて、身体が大きくなった息子さんが乗る車椅子を押して歩く彼女の姿をよく見かけました。

雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も車椅子を押す。

おそらく重たくて全身を使うであろうその労力は、本来なら辛い作業のはずなのですが、彼女にとってはとても幸せな日課であり、息子との大切な時間の共有でもありました。

その様子は障害者である息子の世話をしているというのではなく、障害があろうがなかろうが、そんなことは関係なく、ひたすら我が子を愛して、育てさせてもらっているんだという姿勢がにじみ出ていました。


子育ての壁に当たったら思い出す

息子さんを亡くして、一人暮らしとなって寂しい思いをしているのではないかと、心配していたのですが、その後も何度か短い会話を交わしましたが、彼女に悲観さはカケラもありません。

おそらく、息子さんの病名を告げられた時から、最期までしっかり見守る事を使命と覚悟し、心から愛を持って育て上げ、できるだけの時間を共に過ごしてきたという、ある種の「達成感」みたいなものがあったように思います。

それにしても、意識はしっかりしていているのに、身体がまるで動かないなんて、そんな残酷な事があるでしょうか?

息子さんの気持ちを考えるといたたまれなくなって、胸が張り裂けそうになります。
さらに母親である彼女の気持ちを考えると、心の狭い私は究極に悲観してしまいます。

ところが彼女はいつも笑っていて、大変な子育てをしているという傲りなど皆無で、ただただ一人の凡庸な母親を全うしているのです。

彼女との出会いによって、子育てで思い通りにならない事で悩む自分が、とても小さく感じて恥ずかしくなってきました。

些末な事はどうでもいい。
五体満足で生まれてきてくれただけで、感謝だ。
そして元気で育ってくれればいいのだ。

と思えるようになりました。

その後も、悩みかけた時、この親子の姿を思い出してリセットするように心がけてきました。

何か事情があるのでしょう。ご主人の姿は見かけた事はありませんが、一人で障害をもつ子供を育てるのは、並々ならる苦労があったと思います。

にもかかわらず、彼女には一点の陰りもないのです。

親も子も、笑顔に溢れて会話しながらのゆくその光景は、私にはまるで柔らかな暖色系の光に包まれているように見えたのです。

その姿は、いつも私の胸を打ち、こみ上げるものがありました。
「今日もいってらっしゃい!」と心のなかで言いながら、しばらく目が離せなかったのを覚えています。

今でも思い出すと目頭が熱くなり、心も熱くなるのです。

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