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古事記を読んで、旅に出よう〈橋本治読書日記〉

出雲大社に初めて行った。事前準備として、橋本治の『古事記』も初めて読んだ。
出雲大社とは関係なく、旅行前には『武器よさらば』も読了。肝心の書簡は私信なので、書簡の内容よりはあとがきのほうが興味深かった。私は手紙を送るのが苦手で、何年も前から年賀状は書いていないし、紙の手紙はおろかメールやLINEすらほとんどしない。送るのにすごく時間がかかってしまうから嫌いということもあるけれど、送ることで相手に与える影響を考えると「やらないのが一番良い」と思えてしまってできない。だから、年に数回も手紙を送ること自体がすごいと思う。入院している相手の病室宛に送るとか…。
書かれてから時間も経っているし、相手との関係性もわからないので、他人が読んでわかりやすい手紙はこの書簡集にない。確か『恋愛論』で、橋本治にとって他人は神聖で特別なものなのだということが書かれていたが(記憶を頼りにしているので間違っているかもしれない)、それなのに全然守りに入ってないことに驚く。手紙を受け取る相手との関係をその都度作る言葉をおそらく書いているのだが、そのやり方が私には“体当たり”のように思える。
これを読んだのは「少年軍記」に関する記述があるという情報を拾ったからだが、少年軍記を書いているということ以上のことは書かれていない。強いて言えば、その手紙が書かれた1981年10月7日には少なくとも「少年軍記」を書いていたことはわかる(p.59)。

出雲大社のうさぎ

この旅行は移動が長かったので比較的本を多く持って行ったし、実際たくさん読めた。
上間陽子『海をあげる』を一日目に読んで、途中だった橋本治『若者たちよ!』を二日目に読み切った。よしながふみ『きのう何食べた?』最新刊&『環と周』も読了(これは電子)。そのほか、高島鈴『布団の中から蜂起せよ』、森山至貴『LGBTを読みとく』、井上光貞『日本の歴史1』はそれぞれ途中まで。もう少しで読み終わりそうだったのが『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』(波戸岡景太)だ。もともとソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を買って(積んで)いるくらい気になる存在ではあったが、今回この本を読みたいと思った最大の理由は第10章「故人のセクシュアリティとは何か」にある。
橋本治の研究をするにあたって、セクシュアリティをどこまで関連付けるかは非常に大きい問題になってくる。まずは自分のスタンスを決めなければならないと思った。橋本治は必要なことは自分で書いているし、別に自分を隠しているわけでもないから、橋本治のセクシュアリティに関しては橋本治自身が書いていることだけで十分だ。基本的に、セクシュアリティはあくまでも本人がオープンにしたい内容も範囲も決めるべきだと思うので、他人が言うべきことはない。もちろん、作品によって言及しなければならないときは来るだろうが、そのときは橋本治が書いていることを基準に書くことにしたい。
橋本治が亡くなったあと、“橋本治のセクシュアリティに触れずに橋本治の作品を論じるなんてナンセンスだ”とか“そもそも橋本治のセクシュアリティに触れない(隠す)のがおかしい”のような意見が旧Twitterにはあった。だが、橋本治は自分をカテゴライズして書くことはなかったし、むしろカテゴライズされることを否定した文章を書いていたので、あえて隠すつもりもないが、積極的に書くことでもないと思っている。積極的に書かないことによって隠され、見えなくなってしまうので、LGBTQ+の人の中には「カテゴライズしない」ことに対する反発がかなりあることはわかる。そうやって隠す人がいるから世の中が前に進まず、マイノリティの権利や人権は踏み躙られ続け、その他大勢に影響があるということももっともだ。でも橋本治の文章を読む限りカテゴライズされたくないことは明らかで、本人は隠してもいないが積極的に公開していたわけではないので、他人の私が何につけてもセクシュアリティと結びつけて結論付けることは避けるべきと考えている。安易な相対化は避けるべきだが、人に依るとしか言えない。自らのセクシュアリティを公表するかどうかは本人が決めるべきであり、公表しないという決断も尊重されなければならないし、自分で公表していたとしても(同じことを)他人には言われたくないという立場も当然ある。カテゴリーとして同じところに帰属していようとも、他人は他人で、公表を強要などできるわけがない。ましてや他人のセクシュアリティを公表することを強要するなど意味不明なほど非常識だ。だから橋本治に関しては今後も私は最低限の言及にとどまるだろう。それは橋本治一人に限ったことであり、LGBTQ+を再び社会に埋没させるためではない(橋本治を埋もれさせるという意味でもまったくない)。社会の中でのLGBTQ+に関して私が書くことは、私個人のことに限られ、そこに橋本治は関わらない。橋本治は自分をどこかに帰属させて主語を大きくして論を進めることはしなかった。あくまでも「自分は」ということを書いていた。だから私もそれでいいと思う。

「『私は何人かの男性を愛し、何人かの女性を愛した』とソンタグが語ったのだとしたならば、それはつまり、『私は何人かの男性/女性を性的に欲望すると同時に良心にしたがって求めもした』ということになる。
さらに換言すると、『私は何人かの男性/女性を、その瞬間瞬間の性的欲望によって求めてきたし、そのことを今、あくまでも過去のこととして思い出している。同時に、私は彼ら/彼女らのことを、みずからの道徳的感覚にしたがって想い求めてきたし、そのことを今、善いこととして歴史的に思い出している』ということになるだろう。
ただし、あくまでもそのようなソンタグの主張にしたがうならば、この『瞬間瞬間の性的欲望』というものは、過去の経験とは関連を持たない。だから、たとえそれを『今』という時制で思い出し、そうした欲望が確かにあったという『過去』を告白したとしても、それがその瞬間のソンタグの欲望を説明しているとは言えない。」
「『これまでのソンタグの性的欲望』がなんであれ、それをもとに『これからのソンタグの性的欲望』を決定することは誰にもできない。そして、『過去』のセクシュアリティがそのまま『未来』に持ち越されるとは、たとえ当事者であっても予見はできないのである。」

波戸岡景太『スーザン・ソンタグ』pp.189-190

そこで次に問題になるのは、作家個人のセクシュアリティに関連付けずに文学研究が果たしてできるか?ということだ。できるか?というか、その方向性の指針または方法論を知りたかった。
以前の記事でも書いたが、『同性愛文学の系譜』(伊藤氏貴)はこの点において指針になるものだ。それはこの本の冒頭、「序章」に明らかである。

「しばしば当事者性を問われることがある。同じことを言うにしても、立場によって受け止められ方が変わってくるのはある意味当然だ。つまり、お前は『LGBT』の一員なのか否か、という問が一見重要な意味を持つ。
本書はしかし、この問自体に潜む暴力性を問うものである。それはこの問が当人の望まぬカミングアウトを迫るから、という意味ではない。この問によって、当人の自覚がないところでどこかへの帰属を決定させようとの圧力を加えかねてしまいかねないからである。
(中略)書き手のセクシュアリティに関する問そのものを私は拒否する。」

伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』p.2

作家個人のセクシュアリティと作品とを必ずしも関連付ける必要はないという指針を、私は上記2冊の本(『スーザン・ソンタグ 「脆さにあらがう思想」』および『同性愛文学の系譜』)によって、得られたように思う。

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