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80年代とゲイと「・・・」の男

橋本治『桃尻娘』第2部『その後の仁義なき桃尻娘』です。

高校一年生からスタートした桃尻娘も、第2部では高校を卒業。玲奈と源一は受験に失敗し、醒井、磯村、一浪していた“先輩”滝上は大学に進学しました。

源一は滝上に何年もずっと片思いをしています。ストレートの男性に恋をするゲイはただでさえつらいっていうのに、恋敵の醒井は滝上の子供を妊娠。滝上は醒井から逃げて、醒井は一人で中絶手術に行くことに。
それを聞いた源一は、

「『ひとりで行くのか』って俺思った。ひとりで行くのか……。行っちゃいけないって……。可哀想だもんて、そう思った。」

橋本治『その後の仁義なき桃尻娘』

恋敵であろうと、別にそんなに仲いいわけでもなかろうと、一人で中絶手術に行くなんて可哀想だ。だから付き添う。しかも付き添った先で逃げた相手(自分の好きな人)を庇いもする。その源一の行動原理は、人として一番大事なものなのではないかと私は思います(源一が「後で一人で泣けばいいんだもん」と言ってひたすらに好きな人と恋敵の間を行き来するのは、読んでいてあまりに可哀想ではあるけれども)。
ただ、残念ながら、人として一番大事なものを行動原理にしている源一が、一番ボロボロに傷ついていくのがこの物語でもあり、ひいては当時の世の中でもありました。
80年代あたりまでの同性愛者の生きづらさの一端が見える場面がいくつかあります。
それは同居する父親が源一に発する言葉であったり、同級生がバカにして見せ物にしようとしている場面だったり。ゲイが認知されていなかったからこそ、想い人の滝上も恋敵の醒井も源一の気持ちを無意識に“なきもの”にする。
残酷なことに、源一にとってつらい時期はまだ続きます。認知されていない場所では徹底的に無視されて、ゲイというカテゴライズを知った人からは蔑まれ利用される、非常に偏った不健全な空気が空気が醸成されていたのが70~90年代でした。最近においても、LGBTQ+や多様性に対する認知・理解が進みつつある一方、制度や法律は頑として動かないところを見ると、ダブルスタンダードになっているだけのようにも感じます。

自分が属するカテゴリーにプライドが持てる人から、「カテゴライズが一番つらい」と書く橋本治のような考え方は「許せない」という意見も目にします。マジョリティにいいように使われて、マイノリティが不可視化するのは「カテゴライズがなくなればいい」と言うマイノリティのせいだ、と。でも80年代に書かれた桃尻娘などを読むと、ゲイとカテゴライズされることで身の危険を感じたり偏見にさらされたり不利益を被ることはあまりにも多すぎた。そんな中で生きていたら、「カテゴライズなんてなければいい」、「カテゴライズが一番つらい」という考え方になるのも無理はないと私には思えます。LGBTQ+というカテゴリーでさえ窮屈に思える人もいます。自分の性にプライドを持てる人も、カテゴリーがなくなればいいという人もいます。制度や法律も含めてマイノリティも生きやすい世の中になるのが目標なので、マイノリティ同士で批判し合うのは逆効果だと私は思います。

ところで、『桃尻娘』第2部には有名な“・・・・”で埋め尽くされる話があります。滝上が主人公になる話です。


この“・・・・”にはいくつか意味があります。
滝上は自分を語るモノローグを持っていない。だから自分を語ろうとすると“・・・・”になってしまうことの表れだという説が支配的だったし、私もそうだと思い込んでいました。
文學界6月号で桃尻娘評論を書かれた千木良悠子さんは、コクトーの『声』を参考にしたという橋本治の証言から、新たな仮説を立てています。

「『・・・』だらけの一人称語りは、滝上圭介が自己を語る言葉を持っていないがための沈黙のようにも見えるのだが、(中略)あの意味深な大量の『・・・』の背後には、他者たちの声によって構成される小説『桃尻娘』の読者には聞こえない、『ある別の語り手の声』が響いているのかもしれない」

千木良悠子「小説を語る声は誰のものなのか
─橋本治『桃尻娘』論」

この点について、橋本治はポプラ文庫版の『その後の仁義なき桃尻娘』著者インタビューでこう言っています。

「滝上くんについては、彼を主人公にしようと思うよりも、先に『日本の男って“・・・・”かもしれないな』っていう気がつき方をしたの。
いきなり滝上くんを主人公にしちゃっていいのかなと思わないでもなかったんだけど、やっぱり『・・・・』相手に恋愛しているしんどさをはっきりさせるには、一度『・・・・』でしかない男を主役にして書かないとなって思ったんです。
『・・・・』でしかないっていうのがどういうことかって言うと、『世の中のあり方がこうだから、こう言っておけば大丈夫』で生きていて、自分なりのオリジナルな思考が芽生えないんですよね。
だから『一般的に言えばこういうものなんだから、私はこう言う』で生きていくんだけど、『あなたの場合はどうなの?』って突っ込まれると、もう『・・・・』になる。
愛感情がある場合だったら、この相手の『・・・・』につきあおうって気になるんだけど、感情が若干醒めて来ると『いい加減にしてよ!はっきりしなさいよ!』っていう風に変わって来るんだよね。
それが日本の倦怠期の夫婦の典型な気もする。」

橋本治『その後の仁義なき桃尻娘』(ポプラ文庫)
著者インタビュー


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