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橋本治『無花果少年と瓜売小僧』

大学に入学した磯村くんが一人暮らしを始めて、木川田くんと同棲する。その短い二人の暮らしが終わるまでの話。

他人は他人で、自分の都合で生きている。若いときはまだそれがよくわからなくて、自分のなかだけで他人をああだこうだと考える。相手を見ているようで、自分しか見ていない。だから人はすれ違う。

「きっと、誰かが手を差し伸べてくれるんだ、そしたら僕だってきっとその人を愛して上げることが出来るんだって思っていた磯村くんは、その差し伸べられる手が実は色んなところから色んな風に出て来るんだっていうことを知らなかったんですね。そして、差し伸べてくれる、その相手の方だって、色々こわいから、出したり引っこめたりしてるんだってことに気がつけなかったんですね。
自分だって実はそんな風にしてるのに。」

橋本治『無花果少年と瓜売小僧』

自分と他人はすれ違うばかりで、わかり合えないかもしれないけど、だからこそ他人と付き合わないと自分のことも他人のこともわからない。手を伸ばしてごらん、大丈夫だから。この本で最後に出て来る「大丈夫」という言葉を私はこのように受け止めました。

登場人物のモノローグ(一人称)で進んできた『桃尻娘』は、第4部『無花果少年と瓜売小僧』に至り、初めて三人称になります。語り手を降りてしまった源一と薫の過去を回想して作者(かみさま)が説明してくれるのですが、ところどころあやふやだったり間違えていたりします。

例えばこんな言葉。

「試験の時かな。前の日だったか後の日だったか忘れたけど、なんかそんな感じ」

橋本治『無花果少年と瓜売小僧』

高校卒業の約1年後、源一が高2を思い出して語る場面です。第1部で、後輩の男の子とベッドにいるところをお父さんに目撃されて精神科に連れて行かれたことを磯村くんに話しています。

「試験の時」とは正しくは文化祭、「前の日だったか~」は正確には後夜祭の後。この、記憶の薄れかたにすごくリアリティがある。

一方で、創作(フィクション)だとしつこいくらいに強調します。例えば、“作者(かみさま)”という書き方もそうだし、「それはそうと、あの“医科大生”って、スゴーく、リアルでしょ?勿論全部創作(フィクション)だけどサ。」という文章でもそうです。

だいたいにして、フィクションの暗黙の決まりごとは、回想シーンに疑義の余地なしということ。映画で、セピア色やモノクロに演出された過去の回想シーンは“録画を再生するように”正確であることを前提にしているし、小説で“あれは○年前の..”などと語られることも、やはり同じような前提に立っています。ところがこの本では、ところどころ「覚えてない」し、記憶は書き変わってるし、登場人物が当時子供で、“子供の目から見たらこうだった”(ホントはどうなのかは知らない)ということを隠しません。

それは橋本治が『恋愛論』で語っていたことと関連します。

「実に人間が過去を振り返る時の間違いがこれだっていうのは、俺の思ってるその“大人の基準”ていうのがみんな、15、16、7の頃の子供の頭で勝手に作った基準なんだよね。
高校生が『大人って、こういうもんなんでしょ?』って勝手に思って、それで判断しちゃってるから、それは“当時の大人”という基準と、“それを見る当時の子供の自分”ていう、二重の曇り方してんのね。
これ、見過しがちだけど、大変なことだよ。」

橋本治『恋愛論』

橋本治が『無花果少年と瓜売小僧』でシュールなまでにリアリティをもって“過去を振り返る”ことの曖昧さを書いたのは、過去や記憶に縛られて動けなくなっている人に、振り返ることのあやふやさを示すためだったのかもしれません。作者の意図はともかく、私にはそのように感じられました。そしてそれは私をじゅうぶんに勇気づけることでもありました。


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