わたしの10年もの〈はじめに〉

「一生ものだから」と自分に言い訳をして、アンティークの腕時計を買ったことがある。一日の始まりに手巻きでネジを巻くと、手首の揺れで自然にカチコチと時を刻み、電池の交換がいらない。おばあちゃんになっても使うだろうと思っていたけれど、ある日壊れてしまったまま、いつしかスマホが時計代わりになった。時代は変わるのだ。

「一生もの」とか「永遠のスタンダード」とか、そういったうたい文句を目にすると、懐疑的な自分がいる。好みが変わったり、手入れをおこたったり、持ってはいてもスタメンから外れることが普通じゃないか? 流行に振り回されず長く愛せるものを選ぶ人に憧れつつも、そうなりきれない自分を受け入れよう、と最近は思う。

私自身も年を取り、外見も、体型も、家族も暮らしも働き方も変わる。
だから、好きなものが変わるほうが自然だし、自分に嘘がない。

そう気づいたら、「ブレない好き」があることよりも、その時々の「好き」に正直であることのほうが、自分らしいんだと思えた。

ところが、そんな自分の持ち物にも「一生とまではいかないけれど、10年使っている(使いたい)」と思うものが、いくつかあることに気がついた。

10年というスパンはもしかして、持ち主の変化に対応しつつ、飽きずに使える最長の期間なのかもしれない。洋服の新陳代謝は早いし、そそっかしいのでうつわや雑貨もよく壊してしまう私のそばに、10年居てくれる(居てください、と思う)ものには、どんな理由があるのだろう。自分でもそれを知りたくなって、数は多くないけれどいくつか書き留めておきたい。

ただでさえ物質的なものを所有する意味はどんどん薄まっているのだから、ものを買うときに「一生ものだから」とか「10年使えるだろうか?」などと自分に問う必要はない、と思う(大抵、その読みはアテにならない)。

けれど、結果的に自分のそばに残ってくれたものを見つめることは、迷ったときや流されてしまいそうなとき「こっちだよ」と指し示す、コンパスになってくれるような気がしている。

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