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制約と創作のあいだ

先日、2組の作り手にインタビューしたら2組ともが、似たニュアンスのことを言っていた。

「制約の中で表現することで、自分たちのスタイルができた」という。

一人は型染め作家・kata kataさん。
もう一人はイラストレーターの高旗将雄さん。
2組とも、手法は違えど絵でものづくりをする作り手だ。

kata kataさんは型染めや注染、高旗さんはシルクスクリーン印刷を用いた作品が主力だが、どちらもその技法ならではの特性や、表現の条件がある。
具体的には、型染めは「破れない丈夫な型紙であること」、シルクスクリーン印刷は「限られた色数で、シンプルな線であること」だ。型紙はなるべく絵柄をつなげて彫らないと早い段階で破れるし、シルクスクリーン印刷は色数を絞らなければ、色の数だけ製版コストがかさんでしまう。
そうした制約の中で絵柄を考え、ものづくりを続けるうちに、自然と自分たちらしい作風ができあがっていったというのである。


その言葉が、私はとても意外だった。
絵を描く人というのは、もっと自由なものだと思っていたからだ。

思いもよらない描き方を試したり、従来の技法そのものを疑ってみたり。
当たり前のやり方を壊すことで、自分らしい表現を確立しているのが「作家」だと思いこんでいた。もちろん、そういう作り手だっているし、そうすることもできたはずだ。けれど、彼らはしなかった。不自由なルールの中で、知恵をしぼった。

そうした姿勢を「縛られている」と感じるだろうか。
私にはむしろ、真摯で、創造的で、愛にあふれた表現に思えた。
だって、技法の特性に逆らわず表現するということは、言い換えれば、その技法に敬意を持って接している、ということだ。

型染めやシルクスクリーンで出せる味わいやタッチを敬愛しているからこそ、その得手と不得手に寄り添う。
一定の枠組みの中からはみ出さず、かといって縮こまりすぎず、フレームいっぱいまで自分たちが描きたいものを表現する。
それは、自由にふるまうよりもずっと難しく、はるかにクリエイティブなんじゃないだろうか。

そう考えると、制約は足かせではなく、むしろ自分らしい表現にたどりつくためのヒントなのかもしれないと思う。

文章なら?

文章における制約とはなんだろう?

経験上、文字数は限られている方が、贅肉のないスッキリした文章になる。
短ければいいというのではなくて、内容に見あった心地よい文字数がある。WEBの記事はついキーボードを叩くがままに書いてしまうが、後から読み返して冗長だなと感じることは多い。
また、ライターや編集者ならば誰しも、自分の中に「NG表現」を持っているはずだ。単語や常套句、前置きの有無や語尾のニュアンスなど。どう書くかよりどう書かないかの方が、書き手の価値観を映していたりする(この話はいつか掘り下げて書いてみたい)。

こうしたテクニカルな要素以外に、「書く」ことについて自分なりの制約を課せられないだろうか、とインタビューのあとずっと考えている。

できれば、言葉や文章という表現形態にとって自然で、必然的で、それらを愛しているからこそ生まれるような制約がいい。
制約というより、約束という方がしっくりくるかな。
私と言葉との、約束。

それを見つけられたら、書くことはもっとクリエイティブで、新しい景色が広がるような気がするのだ。

*kata kataさん・高旗将雄さんの記事はこちら


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