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わたしのとこのま

古道具店で一目惚れしたスウェーデンの陶人形を、玄関に飾った。

こういう抽象的なオブジェへの感想として、「私でも作れそう」という台詞がうっかり出そうになるが、いやいやそこがいいのだ。

家族を見送るとき、宅急便を受け取るとき、出かけるとき。
何度となく目にするからこそ、表情も性別も印象も特定されない曖昧さが心地よい。

ところで、気に入りのうつわやオブジェ、ポスターなどを手に入れたとき、まず飾ってみるのはうちの場合、玄関だ。他にも、リビングのガラスケースの上とか、階段を上がってすぐのスペースとか、家の中にも「一等席」とされる場所がいくつかあり、最もしっくりきたところが晴れてそのものの居場所となる。

こうしたワンコーナーをインスタグラムに上げたりすると、すみずみまで片付けられていて、家中を好きなものだけで満たしているように思われることも多いけれど、そんなことはない。
リビングには常に、工作付きの息子の発明品とその残骸があり、いたる所にBB弾が散らばっている。好みじゃなくてもコストの問題や家族が必要で使っているものだってたくさんあるし、それらが出しっぱなしになっていることも日常だ。

でもだからこそ、玄関やショーケースの上といった、生活感から一歩離れた「聖域」があると救われる。
使ったり長い時間を過ごしたりする場所ではないところに、ものを飾るためだけのスペースを作る。スツールひとつぶんでいい。そこに、季節の花を時々飾ったり、新しく迎え入れたものを並べたりしていると、子どもでもなんとく「ここはむやみに散らかしていい場所じゃないんだ」と察する。

実家の和室には床の間があって、お正月や祝い事、親族が集まったりする時は、花がいけられ掛け軸が掛けられた。そうした特別な日じゃなくたって、スーパーの生花売場で調達した花がいけられていることもあったし、飾りものは時々、旅の土産物になったり五月人形のカブトになったりした。床の間で遊んだり、ものを持ち込んだりした記憶はあまりない。子どもながらに、床の間は聖域のような場所だと認識していたのだ。

床の間のある家に暮らす人は少ないだろうが、床の間的な聖域を作ることはできる。
「ここは床の間だ」と自分でも意識するといい。
すると、小さなその一角に対する解像度が少しあがる。
せめてここだけは美しくしておきたいと思うし、ここだけ美しくしておけばなんとかなる、という支えになる。
食卓やリビングのように暮らしに密接に結びつき、役に立つわけではない。けれど、家時間のすきますきまに目に入るたび、私の床の間的な場所はシャララン、ときらめく。

あわただしい生活の匂いは、小さな聖域を持つことでより愛おしく、寛容になれると思うのだ。

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