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わたしの10年もの 〈2〉

岡田直人さんのうつわ

「実家のうつわ」といえば、それぞれに思い浮かぶ絵柄や形があるだろう。私の場合は、ピンクと水色の唐草模様の銘々皿、隅に草花が描かれた長方形の刺身皿、もちろん、ヤマザキ春のパン祭りの白いプレートも。母は料理上手だったが、うつわに贅沢することに後ろめたさがあったのか、ものを捨てられない性格だったせいか、食器棚の多くをいただきもののうつわが占めていた。驚いたことにそれらはまだ現役で、お正月やお盆にきょうだい家族がそろうと、大人数となった食卓に見覚えのあるうつわが次々と登場し、私の記憶の扉を叩く。テーブルの真ん中に置かれるのは、野アザミが描かれた益子焼の大皿。これは、私が社会人1年目の時、母を東京に呼び、妹と一緒に益子を旅行した時のものだ。成人した娘2人と女同士で旅行するなんて初めてだったから、母はとびきり楽しそうで、奮発してこの大皿を買ったのだった。

さて、母と違って、料理はそこそこでうつわに贅沢することを覚えてしまった私が、10年愛用しているのが陶芸家の岡田直人さんのうつわだ。「10年使える」というのは、うつわではそれほど珍しいことではないだろう。ただし、

週2、3のペースで使っていて
割れることも欠けることもなく
デザインに飽きていない

そんなうつわを、岡田さんの作品以外に私は持っていない。

「気に入っているうつわほど割れるの法則」は、誰しも心当たりがあるのではないだろうか。気に入っているということは、それだけ食卓に登場する回数が多いということ。洗ったり運んだりする回数も多くなるから、ダメージを受けるのは必然だ。思い返せば私にも、毎日のように愛用していたのに失ってしまったうつわはたくさんある。

しかし、私が初めて買った岡田さんのうつわは、10年現役で使い続けているのに、カケ1つ見当たらない。正直、ていねいに扱っているとは言い難い。急いで洗うのは日常だし、しまうときは重ねて持ち運びする。コツン!と洗いかごにぶつけたことなど、何度あることか。それなのに、このシンプルな白いうつわは、美しい輪郭を一度も崩さない。

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岡田さんのうつわは、ミニマルで飾り気がなく、釉薬も白だけだ。ヨーロッパの食堂で使われているような食器のデザインに通じるものはあるが、業務用のストイックなフォルムとは全く違う。厚すぎず、薄すぎないちょうど良い質量に、すっと手に寄り添うようなわずかな丸みがある。多分、落としにくいように設計されている。一見どこにでもありそうな白は、使いはじめると、どこにもない白だと気づく。洒落た料理だけでなく、ふつうのカレーライスでも絹さやのない肉じゃがでも、絶対においしそうに見せてくれる。白が柔らかいのだ。青すぎず、くすみすぎず、光りすぎず、ただ柔らかく陽光が漂っているような、白。

岡田さんのうつわの威力に気づいたのは、実はここ数年だ。大切なうつわを割ってしまったとき、「そういえば、これは10年以上使っているのに割れないね」と夫と話した。土っぽい陶器に飽きて、岡田さんのうつわに煮物を盛り付けてみたら、不思議とよく似合った。そういった少しのきっかけがないと良さに気づかないほど、毎日に溶け込んでいた。個展でご本人とお話した時、「そそっかしいのでよくお皿を割ってしまうのだけれど、岡田さんのうつわは欠けることさえないんです」と伝えると、「丈夫さを一番に考えていますから」と仰っていた。

このタフさも、使いやすさも、柔らかい白も、たまたまわが家に合ったのではなくすべて計算された美しさなんだと気づいてから、もっと岡田さんのうつわを集めたいと思った。最初に購入したパスタ皿から少しずつ数が増え、今では食器棚の中で一番多いのが岡田さんの作品かもしれない。

夫はふだん料理をしないが、自分で作れる数少ないレパートリーの一つがナポリタンで、休日に時々作ってくれる。パスタの茹で加減にやたらとこだわるし、ケチャップもバターも惜しみなく使うから、私が作るよりずっとおいしい。もちろん岡田さんのうつわに盛り付ける。そのたびに私は「このうつわはナポリタンでも似合うなぁ」と関心する。「おいしそう〜!」と息子は喜び、口の周りを真っ赤にしてちゅるちゅる食べる。

息子が巣立ったあと、「実家のうつわ」として思い出すのが岡田さんのうつわだとしたら、なんとも洒落た実家ではないか。

......なんて考えて、ハタと思い直した。
きっと、息子は食器のことなど憶えてはいないだろう。

実は私も、実家のうつわの色柄をちゃんと憶えているわけではない。イメージとしてはあるのだけれど、何柄とか何色とか言葉にしようとすると、途端にそれはあやふやになる。冒頭ではぼんやりと記憶にあるうつわの特徴を書いたけれど、実物を見るとちょっと違っているような気がする。うつわのデザインよりも「あのお皿、和風なのにショートケーキのせてたな」とか「献立がお刺身とクリームシチューだった時があった」とか、たわいもない食卓の風景ばかりが思い出される。野アザミの大皿だけをはっきりと憶えているのは、それが旅という非日常で、母が特別な気持ちで買ったものだという記憶があるからだ。

パパが作る休日のナポリタン、二日目のカレー、クリスマスのポトフ。ありふれた献立も、特別な日のごちそうも「おいしそう」と一目で感じる。それらが息子の食卓の記憶になる。うつわは憶えていなくたっていい。だってそれは、そのうつわが日常の一部だったという証明なのだから。

どんな料理もおいしそうに見せてくれる魔法のうつわは、それが魔法だと気づかせないまま、家族の風景にいつも寄り添っている。

◯岡田直人さん

買い物のない人生なんて!


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