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創作大賞2024恋愛小説部門投稿作「大雨が世界を滅ぼすまで、またね」


あらすじ
残酷な境遇にある「君」を救う小説を書きたいと願い、創作している如月万葉。文学フリマに出ることになり、ネットで知り合った友人の竹原さちと東京に向かう。竹原はその新幹内で、万葉の所業がいかに人の心を踏みにじっているか罵り、憎いとすら口にする。万葉はその言葉を受け止めつつ、脳内でずうっと君に語りかけながら文学フリマでフリーペーパーとして配る小説を綴っていた。文学フリマ当日になってもその小説は完成せず、会場でも書くことになる。そして、少し席を外した際に荷物や小説をそのままにして、君が告げた住所の最寄り駅に向かおうと閃き、実行してしまう。二人の運命が重なる一瞬、救いはあるのか。


 たとえば僕には救いたい女性がいるとしよう。その人とは距離も離れていて、実際に顔を合わせたこともなくて、だけど心情に共感して、辛い記憶を共有している、そんなかけがえのない人。その人は親から虐待を受けていて、家庭に居場所がなくて、なにをしても罵声を浴びせられる日々を送っている。僕がその人を救う手立てはない。僕には自由にその人のところへ行ける金もないし、その人の心を一瞬でも癒す弁舌もない。どころか、その人に嫌われてさえいる。その人の前では僕は価値がない。そんなとき、どうすればいいか。
 僕の持ち物でいっとう価値があると思うものを捧げたい。

 私はそこまでiPadに打ち終えて、新幹線の窓の外を眺めた。
 晴れた空の下にビル、車、電線。東北のあまり変わりばえのしない風景が広がっている。今から私が向かっているのは、文学フリマ東京だ。秋田でこまちに乗り、岩手や仙台を経由しながら、東京に向かう。過去に岩手の文学フリマに出たことはあるが、東京は初めてだった。新幹線にロクに乗った経験もないので新鮮に感じる。あとで日記に書いておこうと思う。
 文章を書くことは祈りに似ていると誰かが言っていた。祈り。口の中でもごもご呟いてしまう。私の中では文章創作に祈りより切実に、もっと汚れた欲望を持っている。最低な、浅ましい欲望だ。こんな作りこまれていない粗雑な文章や物語で君が救われるわけはないのに、それを願ってしまっている。物語に触れることで癒せる傷があることを知っている。だから私も君を癒したくて、こんな回り道をしている。回り道すぎて、迷路だ。もう。
 この文章も私の感情も君には届かないのだろうな、と思っている。
 こんな粗い文章やなにもならない慰めが君に届いてはいけないのだろうな、とも思う。
 読んでも悲しませるだけだ。それとも滑稽だと思われるか。笑ってくれるならいいけれど、悲しむなら、ぜんぶなにも、伝わらないままでいい。君を救いたいと願いながら、この文章が君の目に届かなければいいという、臆病な気持ちも併せ持っている。
 文学フリマで私は自分の本を売る。全然売れないとわかっていながら本を売る。表現者として未熟だから、狂おしいほど、届かせたい場所に届かないから、全然ダメな文章しかつくれない。君が脳髄に刻み込んでくれるくらいに、鋭利な文章をいつか書きたい。あまりにも荒唐無稽な夢だろうか。まあ私は凡愚だから一生そんな文章は書けないかもしれないね。君に無様なところをみせたくない。君のために綴っている文章のすべて、君の目に触れる前に消してしまいたくなる。製本してとっておいて、どうするのだろう。自己満足なのかな。
「万葉(まは)、シンカンセンスゴイカタイアイス食べる? 奢るけど」
 現実に引き戻してくれたのは、隣に座る竹原さちだった。一目で毛が細いとわかる繊細な黒髪をウルフカットにし、今日は青いワンピースを着ている。竹原は私が東京に行くのが不安だと言ったらついてきてくれた。親切な人。竹原もネット上で知り合った友人だ。私は学校繋がりで知り合って親交が続いている友人は、二人くらいしかいない。うち一人は千葉にいるため、ただLINEだけの繋がりだ。ネットでの繋がりは、私にとって呼吸するように自然で大切で当たり前のもの。
 君とのつながりもネットだね。もう、繋がっていたアカウントは消失しているし、LINEはブロックした上でブロックリストからも削除されている。もう君を友だちリストに戻すことはできない。楽しかったあの時が戻ることはない。君とのこれからはない。離れていくだけの関係だ。
「てか新幹線乗ってまで小説書くとかすごいね。無料配布とか書いてるんだっけ」
「そう、無料配布」
 私は三万する持ち運び可能の小型のプリンターもキャリーの中に持参している。ホテルで刷って、文学フリマ通称・文フリの当日に会場で配るのだ。本当に用意がきちんとできている人は、そんな前日に刷るような真似はしない。なんでこんなにぎりぎりになっているかというと、私が、全然ベッドから動けなかったからだ。近頃、通っている精神科で「うつ症状が出ている」と指摘を受けたばかりだった。精神状態は傾斜をごろごろと転がり落ちている。そんな状態で東京に行ってイベントに参加しようとしているのが自分でも不思議だ。でも参加費も三か月前からもう払っていたし、一か月前から新幹線の予約をとったし「やっぱりやーめた」は許されないと思った。
「……私さ、そういう万葉が文章に対して真摯なところは尊敬するけど、なんかこのごろの万葉の行動については思うことがあるよ」
 無言で続きを促す。竹原が言いたいことはおおむね理解していた。
「ネットで未成年と仲良くなるのはいけないことだと思う。彼らの気持ちを踏みにじるのもやめてあげなよ」
「そうだね」
 納得しかない。
 私は君以外にも仲良くなった男の子がいた。私のなかで彼は好きだったけれど、それは友達の好きのはずだった。なんとなく、文学フリマの日に会うかという話になったが、やっぱり未成年と会うのはよくないと考えて通話で断ろうとした。そのときに「俺は会いたい」と言われたので心が荒れた。「なんで会いたいの?」「友達だから。友達に会いたいのはおかしい?」という会話。初恋もまだだという彼の純真でまっすぐで真摯な言葉に、私は自制心が壊れてしまいそうだった。
 私はそんな綺麗な大人じゃない。君のことを踏みにじったように、私は人の想いを踏みにじるのが得意だし、煙草を吸ったのは七歳のときだし、リスカ痕で腕もずたぼろだ。風呂に入らないし、風呂に入ったとしても同じパジャマを一週間着るし、自分の身体から異臭を感じるなんてよくある。障害者手帳だって持っているし、メンタルクリニックに通っているし、無職だし、親は私にもう期待なんかしてないし、終わりだ、終わり。解散。未来ある若者に触れてはいけない劇物だと自認している。「こんな大人になっちゃいけません」のいくつかのパターンのうちのひとつ。私はだめな大人だ。
「その男の子の話すっげえ万葉がバカだって思っちゃう。そのまえの加賀美君のことも、万葉はずっと私は悪くないですって顔しているけどさ、私は全部、万葉が悪いと思うよ」
「そう言ってもらえると、嬉しい。ダメなことをダメだと言ってくれる人がいると安心する」
「ていうか……私は万葉が憎い。痛い目に遭ってほしい」
 その男の子には、LINEをブロックしてと頼み込んで、してもらった。見ようによっては喧嘩別れかもしれない。
 竹原、ずっと私のそばにいてよ――と、心の中で語りかける。言葉にしなければ伝わらないんだって知っている。知っているけれど、きっと、言わないでおいたほうが竹原にとっていいだろう。
 竹原には君のことも、その男の子のことも全部打ち明けて相談していた。そういう彼女が私のことをバカにするなら、私はバカなのだろう。
「万葉は自分の擁護が得意だよね。いまも自分が悪くないっていう顔してるもん」
「そうだね」
 肯定しかできない。どういう意味かわからないけど反論して喧嘩になりたくなかった。私の顔はわりと涼しくみえるのは知っているけれど、顔がどうとか言われたのは母親から責められたときだけだった気がする。
 いつも竹原は、君の側に立つ。君が可哀想と言って、私を一緒に責める。責められるのは心地よくて、なにもかも聞き流してしまいたくなる。君はもう私を責めてくれないから。その男の子も私を責めてはくれない。その子には「好きだよ、大好きだよ、恋愛感情じゃないけど」と私はたくさん伝えたし、それは確かに絆を作ってきたはず。きっと竹原から見たら、壊すことが決まっているだけの絆で、作るだけ可哀想な絆で、私が縋るような気持ちを持ってしまったのも咎められるのだろうけれども。
 私はたしかに悪いことをしたけど、持っていけない感情はないと思っている。私は自分にもそれを許すし、他人にもそれを許す。だめな大人だ。
「万葉は自己中だよ」
 竹原は私の内心を見透かしたみたいに言った。
 竹原の言葉は私には刺さらない。私はずっと防御している。なにを言われても傷つかないように、心の準備をしている。ただ罵倒してくれさえば私の思う通り。人を利用しているというのだろうか、こういうのも。私は自傷で気持ちよくなるクズで、他人を利用して気持ちよくなるカスだ。
 車内販売が来たので、竹原はアイスを、私はコーヒーを頼んだ。アイスはべつに興味ない。車内販売のおじさんのレシートと袋を渡す恭しい態度は、コンビニの適当な接客に慣れた私からすると、ものすごく仰々しくみえてびっくりした。
「ねえ、万葉、私この旅行が終わったら万葉のことブロックしたい」
「わかった」
 私は平然と答えた。なんにも私のなかに感情はなかった。よくここまで、一緒に来てくれたなあとぼんやりと思った。

 僕にはなんの才能もなかった。音楽も、歌唱も、詩作も、料理も、文章も、おおよそなんの才能もなかった。僕はその人とは釣り合わない、その人を救うことはできない、平凡で惰弱な人間だった。
 もし僕が魔法をかけてあげられたら、大空にたくさんの金魚が舞う光景を、紫とピンクのガスが美しく覆う銀河の誕生を、月でたくさんのうさぎが跳ねるところを、見せてあげたかったなあ。毎日が幸せだという魔法をかけてあげたかった。瞼を閉じて一日を終えるまで、その瞳にたくさんの神秘と楽園を映してあげたかった。燐光を放つ青い薔薇の、幻想的な花束を創造してプレゼントしたかった。虐め殺そうとする言葉なんか消しちゃって、愛に満ちた優しくて単純な言葉をあげたかった。その人を害す人は僕の必殺技で内臓をぶちまけて内側から破裂して死んでしまって、綺麗に掃除されて、跡形もなく消去。あたたかな光と青い空と足元の草花と、吹き抜ける風だけ。時間はその人を置いていく。永遠の場所。永遠に生きていける。お友達がほしいなら作ってあげよう。呼んであげよう。いくらでも。君が楽しく笑えるように。
 言葉を手繰ってその人にたくさんの嘘をつきたかった。目を閉じて想像してごらんと促して、夢の世界へ誘いたかった。

 僕ができることは、これくらいだった。

 僕が持つものでいっとう価値のあるもの、それは嘘。捧げられるのは、嘘を吐くことを躊躇わぬ舌だけ。

 東京駅に着いた。群衆の間をぬるい風が吹いていて、日よけのために帽子をかぶった私は汗を垂らした。私は全身真っ黒い恰好だったから尚更暑く、竹原の青いワンピースはいやに涼しげだった。私の小説は電車内であまり進まず、夜にホテルの中でも書くことになりそうだった。今日は五月十八日。明日十九日が文学フリマ。だからまだ猶予はある。
 竹原とは事前に予定を決めており、今日は浅草に行く予定だった。まったく電車などはわからないから、乗り換えアプリ頼みで移動する。
 浅草はものすごい人混みだった。外国人観光客がたくさんいた。さらにお祭りも開催されているらしく、神輿が仲見世を通るために、人通りが規制されているのだった。
 浅草寺のご本尊は、聖観世音菩薩。一般的な名称として「観音さま」といわれる。私は信心深いほうではないから、仏教については常識程度の知識しかない。キャリーをひいて、雷門の写真を撮影した。仲見世を見て歩き、浅草寺でおみくじをひいた。吉だった。「なんでもうまくいく」というようなことが書いてあり、皮肉すぎて笑ってしまった。
 なんでもうまくいくならさ、願いが叶うならさ、地球から全人類滅んで永遠に雨が降る世界にしてくれよ。君も多分そう願っているよね、人間なんて醜いってわかっているだろ。君もよく死にたいと口にしたじゃないか。地球ごと滅べばいいと思っているのは、君のこと関係なく私の願いごとだけど、いい考えだろ。
 観音さまの前でなんてことを願っているのだろうね。罰として私の来世は虫になるに違いない。それでいいよ、もう言葉を操る生物になりたくない。言葉に囚われ、言葉に妄執を抱き、言葉で人を救えると思う、私は思いあがりがある。いつか私も、私より言葉巧みな人間に、ぶち上げられて落されて、滅多刺しにされてしまうのが、お似合いだよ。
 竹原がなにか喋っているが、私はそれにうなづいたり少し笑ってみせるだけで済んだ。もう暑さに負けてしまっていて、売店で買ったレモネードやお茶を啜っているのが精いっぱいだった。べつに人混みは大丈夫だったけれど、日光がよくなかった。すっかり参ってしまった。
 十六時くらいになって、私たちはホテルへ移動した。小説の続きを書かねばならない。フリーペーパーとして配る小説に命を懸けているわけじゃないが、ほどほどの本気で挑みたいと思っていた。竹原は私をひとりホテルに置いて、飲みにでかけてくれた。私のためにそうしてくれたことはわかっている。ありがたかった。一人の時間がいちばん集中できる。
 一人になると幻聴が聞こえる。女性の悲鳴。九階だというのに、外から聞こえる。家にいるとき、なぜかいつも聞こえる。どうしていつも叫んでいるのだろう、暴行でもされているのか、大切な人が亡くなってしまったのか、叫ばずいられないような不幸に見舞われたみたい。わからないけれど、ずっと叫んでいる。叫び声をBGMに小説を書くのはいつもは愉快だけども、今日は君のために文章を書いているのであって、文章だけに集中したかった。うるさいなあと叫び返したところで私は狂人になってしまうので黙る。
 喫煙可の部屋なので、私は荷物からしまっていたタバコを取り出して咥えた。タバコを吸うと、ヤニで良い感じに頭が回らなくなって胸が満たされた心地になる。いつもは吸わないのだけれど、マルボロブラックメンソール、タール8mm。ストレスがあったときだけ吸うようにしている。依存したくない。タバコ一箱600円は高すぎる。小説の文庫本が買えてしまう。メンソールの煙が口の中に張り付くような感覚がする。この間、久しぶりにタバコを吸ったとき、ヤニクラしてしまってふわふわしてすごく気持ちがよかった。ODしたときと似たような感覚だった。ODすると最悪文章を全然書けなくなるので、ここ十年は我慢している。ヤニクラはODよりも健康的で、素晴らしい。
 タバコを吸うことに集中すると、幻聴は遠のいた。絶叫はこんな五月じゃなくて真夏に限る。真夏のガンギマリの絶叫は、うまいこと詩にできる気がする。

 僕の中でいっとう価値があるものは、命だと思うかい。
 そうかもしれない。けれど人間は知性の生き物だから、知性の産物を人に捧げるのが正しいと僕は思う。命を捧げるのは動物だってできる。でも僕が命を捧げるのなら、最後に、美しい記憶のなかで死にたい。今、その人の記憶を美しく保ったまま、死にたい。
 あの人は僕との会話のなかで「幸せだ。いまが死に時かもね」というようなことを言ったが、僕も今それを感じる。
 僕にとってその人は宝石で、記憶すらきらきらと輝いていて、抱きしめたまま眠りたい。写真を散らしたベッドで、ひとおもいに、死にたい。
 僕が死ぬことでその人は喜んでくれると思う。最後別れる前に「なんで死んでないの」って言われたし、死んだら笑ってくれるでしょう?
 大雨が世界を滅ぼさないかな。その人のイメージは透明で、ビニール傘を持って水たまりを笑って蹴っていそう。ずうっと雨の世界を、ひとりきりで鼻歌をうたいながら、くるくると廻っていそう。風邪のときに見る終わりのない夢みたい。その人からしたらきっと悪夢だ。僕は雨が好きだから、雨で世界が滅ぶのは願ったり叶ったりなんだけどね。
 死んだ僕は幽霊になって雨音だけが響くその街を歩きまわる。その人のために花束を持って。その人に出会いたいと願ったまま、出会えずにさまよう。
 僕とその人の間に赤い糸はつながっていない。お釈迦さまが垂らす救いの糸だってない。もう離れてしまったら二度と会えない。
 でも、奇跡が起きたら、僕と君は出会える。神様が僕たちを引き寄せてくれたら。そんな奇跡が起きたら。

 そこまで書いて、私は灰皿にタバコを押し付けてすりつぶした。小さな瓶に、インスタントコーヒーを詰めてきた。いまからお湯を沸かすつもりだった。湯沸かしポットに水を注ぎながら考える。
 恋情は腐る。「この思い出が腐らないといいね」と君に言った私だけれど、たぶんもう腐ってしまっている。冷蔵庫にいれるだけで保存しておける感情ならよかったのに。まあ、そんなすぐに消費される感情を私は引きずるわけもない。君と別れてから、今月で八か月経った。忘れようと何度言って、何度言い聞かせた。いまだに君と笑いあう想像というか、かなり都合のいい妄想をして、愉快な気分になってみたりする。痛いだろう。これが二十八歳なんて笑えるな。
 君と会って、話がしたい。ずいぶんと人に聞かせられない下品な話もしたものだけども、とりあえずそんな下心じみたやつは叶わなくていい。ただ純粋に君に会って話がしたい。きっと君は、私を罵倒すると思うのだけど、私は単純にそれが怖くて君のいるところに戻れない。臆病でごめん。君のネットの居場所なんてわかりきっていて、本当は戻ろうと思えばすぐ戻れるのだけども、戻ったら竹原は私に失望する。竹原は君とも繋がっている。竹原がいまも君とやりとりを少しずつしていると聞いて、ふつうは嫉妬するのかなあとも思った。嫉妬はしないよ。こうして取り上げて考えると、なんだか複雑な気持ちになるけれど、竹原に君と連絡をとるのをやめてほしいとは思わない。どころかずっと取り続けてほしいとすら思っている。竹原が私のことをブロックしてもいいから、君と関係を続けてほしい。竹原は君の支えになる。私じゃなくて、竹原をずっと、支えにしてほしい。竹原は正直な人だから、言葉で君を持ち上げることもしないし、裏切りもしない。君が望む人だと思う。私じゃなくて、私なんかのことは忘れてしまって、どうか幸せになってほしい。どうか「万葉なんか」と軽蔑しながら、私のことを忘れてほしい。
 竹原が「自己中だね」と私を切ったのは、こういうところかもしれない。君の動きも気持ちも一切考えていない。君は私のことが嫌いなんだろうと思っている。通話したとき、泣きながら「好き」って言われたけど、もう過去のことだ。きっと今は嫌いになっているはず。そうでなければ、いけない。そうでなければ、私の言葉に君がどれだけ傷ついたことだろうか、もう考えたくない。なんで君は私のことが好きになっちゃったんだろう。たいしたこと、してあげられないのに。私は情けない弱い大人で、いまももう君の前に戻ることができないでいるのに。
 感情的に泣き叫んで悲嘆に暮れられたらどんなに楽か。先程の幻聴のように絶望的な絶叫をあげられたら、狂ってしまえたら、もうなにもかもわからなくなってしまえたら楽なのに。私の理性は君を好きになった時点でもうとうに狂っているのに、さらに君に溺れることを拒絶する。恋愛における幸福な感情というものをしっかり享受しながら、けれど頭のどこかはとても冷静なのだ。
 もう私たちは会わないほうがいい。接触しないほうがいい。お互いの未来のために。君は私を忘れるべきだし、私も君を忘れるべきだ。忘れたいよ、忘れられるなら。この君のせいで味わった幸福もぜんぶなかったことにしてしまいたい。
 水を入れ終わり、顔をあげると鏡の中の自分と目があった。私は日中の日差しもなんのそので、死人のような顔色になっている。黒い恰好も、今はお葬式を連想させた。私は死にたいのだろうか。いや、うつ症状が出ているとはいえ、そんな考えは自分の中にはないはず。いまは文章のことだけ考えよう。書いて、終わらせることだけ。
 物語の主人公は要素を意図的に付け加えないと、すべて自分になってしまうそうだ。俗説だけれど。私はいまそれをとても痛感している。けれど後悔はしていない。君を救いたい。私も救われたい。二つは両立し得ないのか。
 コーヒーをいれよう。薄い味のインスタントコーヒーが好きだ。今日は夜、竹原にはコンビニで済ませると言ってあった。が、コンビニに行く気力もない。空腹感はあるものの、なにも口にしたくはなかった。コーヒーとタバコでお腹を膨らませよう。不健康かもしれないが、私は最近肥満なので、一周回って健康的かもしれないと思うことにする。
 タバコをもう一本吸う。美味い。ほっとする。
 あぁ文章が書けない。こういうときは風呂に入ろう。旅塵。司馬遼太郎の小説は読んだことはないのだけど、旅塵という単語は知っている。酔ったような頭で服を脱いで裸になる。君と出会った頃から、十キロくらい太ったはずだ。腹が膨れている。あまり綺麗な体ではないが、元婚約者はなぜか私の裸を撮りたがったなあと思い出した。結婚するつもりだったから許していたが、別れたからなあ。いまにして思えばトラウマになり得るかもしれない。私をレイプしたおじさんも行為中の写真撮影なんて面白おかしいことはしなかった。二十八歳にしてセックス時にトラウマを植え付けてくる元婚約者すごい。異性愛者なのでセックスなんていつも同じようなことしているように感じられて、違いはそこに気遣いがあるかどうかくらいだから飽きてしまって、写真撮影も刺激になればいいかと思って許した。結果としては、なにもつまらなかった。リベンジポルノが怖くなっただけだった。
 大学生のころに週三回くらいでセックスしていたときが一番楽しかったかもなあ、泣きながらやっていたし、感情が多分乗っていた。その彼氏と結婚することもできず、最後すれ違いの果てにレイプされてクソみたいな別れ方をした。
 もういま私を高揚させるものは普通のものじゃなくなってしまって、人の感情を揺り動かす力に酔っているときが多い。言動じゃなくて、文章で揺り動かさないといけないのにね。どうしてか、私は、感情を尊いものだと感じる性質があって、君に感じた切なさの虜になった。君からお返しの感情をもらいたかったわけじゃない。そんなものは私が君を尊く勝手に思うことだけで足りていた。本当に、君から、なんの感情も欲しかったわけじゃない。私は君をただ愛している。君と離別した今は君との記憶を愛でている。それだけで十分じゃないか、お返しなんていらない。
 ホテルのシャワーの操作が難しかった。操作のしかたによってはシャワーヘッドじゃなくて天井から降ってくるようにできるみたいだった。ふつうにシャワーしたけど、なんだか熱かった。
 体を拭いて寝間着を身に着けたけど、気分が悪い。鏡の中の自分は青白い。今日はこのまま寝ちゃおうか。竹原もなぜか帰ってこないし。竹原にLINEしてみたが既読がつかない。どこで飲むつもりなのか訊いておけばよかった。竹原も東京に元交際相手がいたはずだ。会っているのかもしれない。突っ込むのは野暮だ。もう疲れた、どうでもいい。竹原を待たずに寝よう。ピンクと白の錠剤を、私は麦茶で飲みくだした。

 覆水盆に返らず。
 その人を救うのは、僕じゃない誰かだと信じていた。自分を騙していたのかもしれない。その人は魅力的だし、人に囲まれていたから、僕に感情を傾けてくれるなんて期待してなかった。僕だけが大切に想っていたかった。それだけでよかった。僕は羽虫のように思われてもよかった。というかそれくらいにしか思われないだろうと予想していた。予想は裏切られ、僕以上にその人は心をくれた。
 その人の家庭環境を聞くたび、憤り、涙に共感し、慰めた。くだらない冗談も言った。本心かはわからないが笑ってくれて安心した。
 人間のなかでもっとも尊い行いはその知性でなにかを遺すことだという話にも共感してくれていた。というのも僕は小説を書くのだが、その人も書くタイプの人だった。趣味が合致していた。
 その人は国語の教科書に出てくるような文豪の作品をたくさん読んでいた。太宰治や泉鏡花など。僕は夏目漱石の「こころ」が好きなのだが、その人は一文だけ読んで置いたと言っていた。太宰治の「人間失格」は人気をとりにった感じがして嫌い、「斜陽」こそがよい。いちばん文章力があると感じるのは泉鏡花。おすすめは「龍潭譚」と言った。
 僕はそのときには斜陽は読んだけど話を忘れていたし、さらに人間失格を読んだことはなかったため、なんとも言えなかった。龍潭譚は読んでみることにして、青空文庫を読めるアプリの本棚にいれた。
 その人と小説の話をずっとしていたいと思っていた。
 その人と別れて、八か月経って、ようやく龍潭譚を読み終えた。斜陽も読み直したし、人間失格も読んだ。僕は斜陽より人間失格のほうが面白かった。
 ――「年若く面清き海軍の少尉候補生は、薄暮暗碧を湛えたる淵に臨みて粛然とせり。」(泉鏡花、青空文庫)
 その人が言った通り、龍潭譚は最後の文章が美しかった。話は全部理解できているかと問われたらわからない。泉鏡花の日本語の能力が高すぎて、圧倒されてしまった。龍潭譚はすぐ読める短編としてその人がおすすめしてくれたのだが、アプリで開いたときのページ数が嵩んで少しずつ読んでいたらなぜか八か月もかかった。すぐにその人に感想を伝えられなかったのが惜しい。
 泉鏡花を好くほど日本語能力が高いその人が、僕の作る文章を好いてくれたかは非常に疑問なのだが、それでも僕が捧げられるものといえば文章の嘘しかない。

 小説とは難しいものだ。感性に依存しすぎても論理的な文章は書けないし、感性がない文章にも私は惹かれない。夢の中で私は頭の中に流れる文章を書き留めようと必死になっていた。このシナリオなら傑作になると、夢の中の私は確信していて、けれど朝起きても一文も憶えていない。記憶の狭間に置き忘れられた小説。
 朝起きてカーテンを開けると、窓ガラスに小粒の雨が張り付いていた。スマホの画面を確認すると、朝七時。私の起床は規則的だ。
「おはよう、万葉」
 一台しかないベッドの隣に竹原が寝ていて、彼女はカーテンを開けた音で目を覚ましたところだった。黒髪は少しボサッとしていて、それでも竹原は浮腫みなどなく、見惚れてしまうほど綺麗。竹原は今日はどんな服を着るんだろう。昨日みたいな真っ青な恰好をするのかな。竹原みたいになりたかったな。竹原みたいな性格だったら、私はとりこぼすものはもっと少なかった気がする。
「おはよう。いつのまに帰ってきたの。心配、してたんだけど」
「ありがとう、一時には帰ってきたよ。小説できた?」
「あ、」
 そこで思い出した。完結していない短編。口に手をあてる。
「できてない……」
「まじか。会場で書く?」
「そうする」
 荷物は多くなるけれど、しょうがない。プリンターには小型バッテリーも買ってあるから、長机でも作業できる。限界すぎるけど、まあ、いいか。そういうのも。
 文学フリマの開催場所は東京流通センター。開場は昼の十二時からだが、サークル出展者の入場は十時半からだった。私と竹原は身支度を済ませ、ホテルの一階で朝食を摂った。
 今日は竹原は元恋人と会うらしい。これまたブランドものの真っ赤なスカートを履いていて、閉じた瞼の裏に焼き付く。
 今日の私の恰好は白いレースの上着に黒いワンピース。
 竹原とはホテルの前の交差点で手を振って別れた。グーグルマップの予想では会場まで四十分くらい歩かなければならないらしい。いまの時刻は十時過ぎで、気合をいれなければならないようだった。背中のリュックが重い。
 文学フリマに出るのは今回が二回目だったが、緊張はない。今回は横浜に住むサークルメンバーも参加する予定だった。彼は神崎といって、今回販売する合同誌の原稿を書いてもらった仲だった。ブログから仲良くなり、当時発足したばかりでほぼ名ばかりのサークルに加入してもらった。
 今日のためになにも顔写真など交換していない状態だったが、LINEの通話でなんとか合流できた。彼はさっぱりとした茶髪ツーブロの青年で、年齢は二十だった。君と同じ歳だね。君はたしか三月で二十歳になったはずだよね。
 神崎は灰色のリュックを背負って、黒っぽいシャツを着ていた。
「はじめまして、っていうのも変ですけど、如月万葉(きさらぎまは)です。今日はよろしくお願いします」
「神崎宏(かんざきひろむ)です。よろしくお願います」
 良い声だなあと思った。実は神崎とは通話を一回だけしたことがある。こんな声だったか、あまり気を払っていないので覚えていなかった。ともかく君のほうが良い声であることは確かなのだけれど、それでも神崎の声は世間一般で言えば低すぎず高すぎず女の子が好みそうな気がした。そんな感想を文芸サークルの人にぶつけてもいいものか迷って、結局言わなかった。私は社交辞令的な笑みを浮かべたまま、神崎と列に並び、腕輪型の入場パスをもらい、割り当てられたブースまで移動した。
「実はLINEでも話したのですが無料配布をまだ作ってる最中なんですよねえ」
「当日になってから作るんですか。ぎりぎりすぎませんかそれは」
「思い出になるよ。文学フリマ当日は会場で小説を書いていたってね」
 神崎は笑った。コミュニケーションができるタイプの人で良かったと私は思った。
 設営が終わったら、iPadを膝の上に置く。私は君の心も救えなければ、私自身の心も救えない。本当は原稿から逃げてしまいたかった。このまま十七時まで完結できなければ、こんな不出来な小説誰にも見せなくて済む。君に知られることも絶対に起きない。まあ君は私の文学フリマでの活動なんてどうでもいいと思っているだろうけれど。君が私の小説を読んで、感想をくれたのは気まぐれだった。きっと、そう、私がウェブサイトに上げている短編を全部読んでくれたと言っていたけれど、やっぱりどう考えても、そのとき気分が良かったからに違いない。そう思いたい。君は口が上手かったね。ほかの友人のよくわからないSSに、SSよりきちんとした文章で感想をつけてあげていたね。当時は感じなかったけど、いまは君にそこまでのことをさせる人間が憎い。君に余計な嘘を吐かせるレベルの人間がまとわりついていることが鬱陶しいし、嫉妬する。そんな人はいなくなっちゃって、君が太陽みたいに自然な温かさをもつ女の子に愛し、愛されて、幸せを感じていることを祈る。そういう女の子には、私は純粋に負ける。私は絶対にそういう存在にはなれないから嫉妬の念すら失せる。君は、私に人生をくれようとしたね。君は人生を諦めていて、どうでもいい命だからといって、私に「あげてもいい」なんて言って。ばかげてるよなぁ。愛している相手のために、人生を使おうね。それが正しい、感情と世界の在り方だから。
 せめて小説の中だけでも君を救いたいのに、全然なにも思いつかない。タバコが吸いたくなって、ここは禁煙だと思い出した。

「この湖には、バケモノが棲んでいるのです」
 空は橙と夜のグラデーションに染まっていた。うすぼんやりと輝く湖に舟を浮かべて、僕はその人を案内していた。手漕ぎでゆっくりと進む舟。やわらかな風が僕らの頬を撫でている。
 その人は薄いレースのワンピースを纏っていて、ひょっとすると、花嫁みたいだった。
「バケモノはひとびとの願い事でできています。学校なんてなくなってほしい、好きなあの子の好きな人がいなくなってほしい、嫌なやつが嫌な目にあってほしい、死にたい、そういった負の願い事で」
「なんだかどろどろしているね」
 その人は言った。
「寝る前に願った、どろどろの願い事は、この夢の狭間に落ちてきてバケモノになります。ほら、こんなふうに」
 湖からボッシャと音がして、僕のちょうど目の前に白い物体が跳ねてくる。僕は刹那その白い物体を掴み、その人の目前に晒した。それは白い糸くずが寄り集まった魚のような体をしており、始終うねうねと動く気味の悪い物体だった。
「わあ、きもちわるい」
「もっと大きいのも湖には棲んでいます」
 くすっとその人は笑う。きもちわるいと言いながらも、余裕そうだった。バケモノが跳ねる際の飛沫も気にした様子はなく、肘をついた。舟がすこし揺れる。
「人間の欲望には果てがないね。セツもたくさんいろんな不幸を願うけれど」
「親が死んでほしいとか?」
「そう、あとは君に死んでほしいとか。セツの願いもこうしてバケモノを産み出しているんだね」
「バケモノとは言ったけど生きているわけじゃないんです。こうすれば、ほら、消えます」
 僕が念じると、僕の片手に不可思議に淡く光を宿す青い花が現れる。その花をさっとバケモノの上にかざすと、バケモノは光の塵となり消えてしまった。バケモノを持っていた片手の濡れた感触もいっしょに消える。
 どこからか大きなオルゴールの音色が響く。懐かしい音が呼んでいる。湖の周りに住んでいるクマは寂しがりだから、よくネジを巻く。
 その人は手を差し出した。その手の上に光が宿り、薄い紫色の花が形成される。繊細な花はその人に似合っていた。
 舟は湖の中心にくる。おもむろにその人は立ち上がる。舟はぐらぐらと揺れる。不安定を楽しむようにその人は笑いながら、花を振った。湖に光が満ちて、バケモノが消えていく。その人の手による浄化。薄紫色の花びらが空から降り注ぐ。その人は笑っていた。幻想的な光がその人を照らして、酷烈に、その風景は私の心を焼いた。
「子守歌をうたってあげよう」
 その人は言った。それから大きな声でなにか叫んだ。高すぎる声だった。
「全然寝られる感じじゃないですね。デパートで騒ぐ幼児の声みたい」
「えへ」
 その人はおどけてみせた。
 僕はなにもかも愛おしくなって、写真に収めたくなった。この幸福がずっと続きますようにと考え、よく眠れない日にこの幸福を思い出したいと思った。すこしずつ、今この瞬間も過去になっていっている。幸せな過去へ。
 終わることが決まっている、けれどまだ始まったばかりの永遠の岸辺に、僕たちは立っていた。

 僕たちはそれから、天使の友達のところへ遊びにいった。純白の翼をもち、同色のローブを着た彼は、僕らを歓迎しなかった。彼は真実しか吐けない辛辣な舌の持ち主で、神様がそう作ったからそうらしい。彼は僕には「ブサイク」と言うのに、その人の外見はとても褒める。
「来てくれてうれしいけど、はやくかえってほしい」これまた無表情で彼は言う。
「今日もセツはかわいいね。君はブサイクだけど」と、彼は続ける。
「まあ、正直者の言葉は嬉しいっちゃ嬉しいかな」
 その人はまんざらでもなさそうだった。
 翼が目立つ彼は、人間のすみかから離れて森で隠遁して生活している。オルゴールのネジを巻くクマとなかよし。
 まあ、この世界に「にんげんのすみか」なーんてないんだけどね。僕が作ってないから。この世界はその人のための世界。その人の意に沿わない行動をするのなんて、この世界じゃ僕くらい。彼だって、その人が嘘を吐かない人がほしいんじゃないかと思って、用意したお人形さん。もし僕よりもそのお人形さんのほうが好きになっちゃったらどうしようなんて、少し考えてしまったけれど、それならそれでいいや。その人のための夢の世界だから、現実じゃ味わえない幸せな感情を味わってほしい。
 たくさんの幸せな嘘がその人に降り続けますように。
 僕は天使のこぢんまりとしたキッチンで、その人と天使のためにココアをいれる。その人が好きだったオムライスだって、僕はいま作ってあげることができる。その人のことを普段無視するというお母さんが、いつか作ってくれたオムライス。もういつごろに作ってもらったのかわからないほど遠く霞んだ記憶にある食べ物だって僕は用意してあげられる。
 でもその人は言うのだろうな。
「お母さんが作ってくれたオムライスがいちばんおいしい」
 なんて。
 あーあ、ひとりあそびだ、こんなの。
 その人は僕じゃやっぱり救えないんだ。

 私の隣に座る神崎は、無料配布をきちんと作ってきていた。配りつつ「麦茶ほしくなりますね」と話しかけてくる。快活なその笑みに、私も笑みを返す。無性にタバコが吸いたかったけれど、都内って全面禁煙なのだっけとぐるぐると考えていた。
 ぐるぐる。君が愛情を求めているのは知っていた。君が愛情を求めてくるくると同じところを廻っているのを、指摘したのは私だった。だから「愛情をあげる」と言った。でも本物の愛情をあげることは叶わなかった。距離的限度がある……なんてもっともらしく言ってみて、それが正解ではなくて、終わりのある関係であることは最初から理解できていたから、全部中途半端だったのだ。私は結婚を予定していた。婚約者と同棲中に君と出会った。君が「ぼくのものにならないならいらない」と言い始めた日に、私たちは結婚指輪をオーダーした。グロテスクだろう。私は君を下敷きにすることでより幸福を感じようとしたのか、単純に君のことを好きになってしまっていたのか、わからない。わからないほうが私も君もいいね。曖昧なほうが君は好きに理由を設定できる。私はそれを否定しない。どれだけひどい理由をこじつけて、私をサイコパスのように語っても、私はそれを許す。私はそれだけの罪を犯した。
「後悔していても、反省はしていないようにみえる。万葉は」と竹原は私を断罪した。
 反省なんて、事態が終息してから考えるものでしょ。私のなかではまだ終わってない。まだ君のことが好きだ。まだ君とのやりとりを妄想して笑うときがある。みんなで楽しく話していたころの記憶が、私の中で生きている。生きていちゃいけないのはわかっているけど、どうしたって殺せない。ね、こういう言い方をすると、私の感情を正当化できるでしょう。私は言葉を操るのが上手い。君も少しばかり褒めてくれたから知っている。でも君のほうが上手いんだけどね。なぜ君が文章のプロを目指さないかわからない。君のほうが感性に訴えかける文章を書ける。レポートは論理的な文章を書かなければいけないから点数が低いと嘆いていたけれど、私は君の文章が好きだ。見せてもらった小説も、私には書けないものだと思った。独創的なストーリーも表現もだれも真似できない。私は君の創造性も愛している。処女作も二作目も読ませてくれたのに、新作は読ませてくれなかったね。君が書くのは短編ばかりだったから、長編でどんな物語を作るのか知りたかった。
 二者間で世界が閉じてしまえば平和なのに、と私は思春期にとある小説を読んで思った。
 もし君と私で世界が閉じたら、そんなに幸福なことってないよね。私ははじめ君を愛玩するけど次第に狂うかもしれない。もしかしたら私は君のことが好きではないのかもしれない。確かめたくはないな。
 二者間という言葉を持ち出したけれど、現実では、ここに明確な被害者がいる。婚約者だ。婚約者に落ち度はない。彼はふつうのひとだった。手取り十四万で、私の執筆活動に理解がなくて、家事を私に押し付けられていたけど文句は言えなくて、ただ孤独になるのが怖いだけの人。彼は君との関係が明らかになって、私をぶった。そして首を絞めて避妊なしのセックスをした。私は行為の最中に笑いながら、妊娠検査薬を使える時期になったら確認をちゃんとして別れようと冷静に考えていた。
 もし君と交際中に――ああ、いや、君と交際したいという願望は今も昔もないのだけれど――浮気なんかしたら、きっと君は私を刺すだろう。ある夜「万葉を刺し殺してずっといっしょにいたい」と君は言ったね。それくらい苛烈で、後に引けない執着を抱いてほしい。それくらい私も必要とされてみたかった。なんていうと、君は「きもちわるい」って言いそう。というか今もずっと言っているかも。君のために書いた文章と思考のそのすべて「きもちわるい」でダメ出しされるかもしれない。それでもいい。
 他人の滑稽な恋愛感情を笑えばいい。
 前に君が「女ってどうしてこうも刺さる言葉を使うんだ」って愚痴を垂れるから、なんと言われたのか訊ねたら「君もお父さんみたいに私をぶつんだ」だと。放ったのは元彼女だったらしいが、私も君に対して同じ印象を抱いたのは秘密だね。君は女の子とか殴りそうだよ。一般の人より激情を抱いている。泣いて電話をかけてきたのはびっくりしたな。男性の泣き声なんか耳慣れない。私は君を受け止められそうな大人にみえたのかい。私は全然そんな大人じゃない。かわいそうにね、私に騙されていたんだよ、君は。もうわかっているだろうけれど、私は卑怯で弱い大人だ。
「擁護がうまいよね。万葉は自分の擁護が」と竹原も何度も新幹線内で言っている。
 擁護ではなくて、自己弁護の誤りではないかと思う。まあそんな些細な言葉の間違いはどうでもいいのだ。君とは違う。君は気に入らないときに言葉を一間違うと十指摘して揚げ足とりしてくるようなヤクザみたいな人だったが、私はそんな厄介な性質は持っていない。その能力はプロ作家になるのでなければ、日常生活にないほうが幸せな能力だと思う。竹原も君とやり取りするときは言葉に気を遣うと言っていた。君の日本語能力と鋭い知性が合わさると、平均的な人に恐怖を抱かせるに十分な凶器になる。
 ああ、君の長所でもあり欠点でもある部分の話がしたいんじゃなくて。そんなんじゃなくて。
「私なんだか気分が悪くなってきたので、ちょっと歩いてきます。麦茶、ほしいんでしたよね」
「ええ、ああ、大丈夫ですか」
 神崎は気遣ってくれた。
 小説はいつできるんだろう。この君への独白はいつ止まるんだろう。君とやり取りしている最中、このままじゃ気がおかしくなると感じたことは多々あったが、君と離れて八か月経ってからもそう感じるなんて、君は薬物かなにか?
 通路で人の流れに乗りながら、自販機を探し当て、お茶を二本購入した。一本私はその場で口をつけて空にしてしまう。くらくらする。酩酊感とは違うふわふわとした感じに襲われている。ヤニには依存していないはずなので、単純に文章に集中してしまって気分が悪いのだろうと想像する。
 手元にあるのはスマホ、ウォレットに入ったSuica。
 会場のどこかへ行こうとする人の流れを見つめ立っていると、突然、私の文章がなんの価値もないという思考がふってきた。書を捨てよ、町へ出ようって言ったのは誰だっけ。
 君になにかを捧げたいという衝動だけがあった。なにか、意味のあるものを、君に。
 唐突にひらめいた。いや、その考えは元からあったのかもしれない。私はスマホの中からスクリーンショットを探し出す。君が「今夜、親に殺されるかもしれない」と言った晩に、「通報してあげるから住所を教えて」とねだったときのスクショ。グーグルマップに入力する。ここから遅くとも二時間半ほどで行ける。私は膝から崩れ落ちそうだった。がくがくと足には力が入らないくらいになっていた。それをしちゃいけないと思った。私の理性がセーブをかけていた。そもそも住所は君が「あのときの住所は嘘だよ」と言っていた。「引っ越す前の住所だから半分しか合っていない」と。それでも、私は、そこに行きたかった。私は小学生のときから、よく理性的なほうであると言われていたが、精神を患ってからおおよそ感情の我慢がつかない人間になりつつあった。大失敗な大人。君は「僕のせいでもっとおかしくなってほしい、普通の二十八歳がしないことをしてほしい」とよく言っていたよね。してあげようと思う。警察を呼ばれたら、破滅する行為をしてあげる。
 君と連絡もとれないのに、向かおうだなんて、だいたい独り善がりだよな。と思いつつ、私は文学フリマの会場を出て、流通センター駅から東京モノレールに乗った。
 もう死ぬ。死ぬ。そもそも荷物はどうしよう。神崎にまとめてもらうしかない。四万ほどの釣銭を用意したのも私なのに、限度額三百万円のクレカもリュックに入れたままなのに、神崎をそこまで信用していいのかわからない。どうしよう、神崎はともかく、竹原は絶対もう私と会話してくれないよ。頭の中で様々な想像をしながら、私はモノレールに揺られた。そこから何回か乗り換えをして、千葉行きの電車に乗る。千葉行きの電車に乗ったときには覚悟は決まっていた。
 竹原にLINEを送る。

 万葉:自己中心的な行為を謝罪させてください。これからの千葉県に行きます。

 すぐ既読がついた。

 さち:これから千葉県って、まさか、加賀美君のところに行くの? 文学フリマはどうしたの?
 万葉:全部すっぽかしてきた
 さち:いやいや戻れよ。てか加賀美君に、万葉のこと思い出させるなよ。踏みにじるなって言ってるのがわかんないの
 万葉:けど、それじゃ私が終われないの。終わるためにあいつに会いに行くの。加賀美にも言ってみて、お願い。
 さち:橋渡しなんかする気さらさらないけどね。私は私で予定があるんだから迷惑。これだけ教えて。何時に駅?
 万葉:十四時五十七分

 それきり連絡は途絶えた。もう神頼みじみていた。君の予定なんか知らないから、会ってくれるのかも全然わからない。そもそも君は最後別れたとき、私の不幸を願っていたから、わざと置き去りにされる可能性がある。それでもよかった。なにかひとつ君にしてあげたいと思った。ネット上のよくわからない愛情をあげる謎の関係ではなくて、リアルで会って、君がしたいようにできる関係になりたかった。私が千葉駅のさらに君の最寄り駅まで行って、夕方まで待ちぼうけをくらうなんて、むしろ当然だろう。君は私を許さない。「不幸になって」と君の言葉を信じるなら、私はもういなくてもいい存在のはずだから。君のためにいてはいけない存在のはずだから。来てくれなくていい。っていうかむしろ来ないで。私を拒絶して。私を受け入れないで。こんなクソみたいな女を、許容しないで。許されてしまったら、私、最後には君に縋って生きるしかなくなる。終わりだ、もう。君を好きになったときから、本当は終わりなんて決まっていた。
 そもそも私がしたのは浮気で、しかも法律的観点から言えば慰謝料を請求されかねないほどのことで、私はすっぱり君と縁を切るべきなのだ。婚約者から別れる時にも「加賀美君と繋がらないよね?」と確認されていた。「繋がらないよ。繋がるわけないでしょ」と返答した。結果が、これだ。情けない大人だ。死にたい。もし私が主人公の物語があったら、行動が倫理観の坂道を転げ落ちすぎていて、しかも感情的で、読者から蔑まれるはずだ。しかも離れてから八か月経っている。なぜ今まで君の住所に凸らなかったのか、急に思い立ったのか、不可思議な点が多いかもしれない。それは君に嫌われていると竹原に言われるまで思っていたから。竹原が私のことを「憎い」と言ったとき、君は本当のところ私が婚約者と別れたら自分の元に帰ってきてくれることを期待していたのだと直感した。竹原と君は共感しすぎている。感情も思考も共有しすぎている。私より、ずっと。
 電車が最寄り駅に着いた。
 もう汗がだらだらと背筋を、頬を、伝っていた。今日は雨も降っており、寒いと感じる人もいそうなくらいなのに、私の身体の反応は異常だった。
 繰り返すが、私はもう君に望んでいない。感情を返すことも、なにもかも。なにもやらなくていい。
「私がやりたいだけだ、こんなこと……」
 古びた駅舎を出て、曇天の下、一人で立ちながら、つぶやく。私はバカだ、本当にバカ。文学フリマから手に持ったままの麦茶の蓋を開けた。
 神崎には道中のLINEで謝罪していた。

 万葉:気分が悪くなったのと、加賀美に会いたくなってしまったので、千葉に向かっています。
 神崎:えっ。えぇ……む、麦茶……

 そうだよね、本当にごめんね。神崎が荷物をまとめることを拒否したら、めちゃくちゃ大変なことになる。そんなに人に負担をかけるべきじゃない。私は善良な人じゃない。神崎から尊敬などされていない。加賀美のことも正直に書いたエッセイを神崎に読ませているので、私がしでかしたことは知られている。神崎を頼れば頼るだけ、ヘイトが溜まるに決まっている。神崎とのこれからの付き合い方も考えなければならない一大事だった。この年齢になって、こんなバカみたいなことばかりしているのだろう。みんな呆れかえっているに違いない。
 タバコが吸いたいと、ふと思った。そうじゃなきゃ耐えられない。膝が笑っている。このまま倒れて、自分が地面に吸収されていくところを想像してしまう。実際に倒れたら、出血、コンクリートに頭をぶつけるくらいで足りればいいのだが。
 ああ、タバコを吸ったり、飲酒したり、セックスしたり、やっていることは大人だけれど、自分のしでかしたことの尻拭いがまったくできない。笑ってしまうほど無力だ。君を救いたかった。私も救われたかった。その手段が文章の嘘で、高潔な雰囲気でそれを捧げようなんて言ってみせても、それも嘘だった。私は嘘つきだ。もう私は人と関わりを持たないほうがいい。竹原には悪いけれど、彼女とも縁を切る。これで最後にする。
 君に来ないでほしいとも、来てほしいとも、願っていない。私がここにいることを君が知ってくれたらいいなとも、思っていない。私がここに来たいから来た、それだけ。君の使う駅に、君の住んでいる場所の近くに、来たかっただけ。
 私は君が好きだ。本音を今更述べると、君を傷つけるのでなく、君で私が壊れたかった。
 感情は尊い。恋愛感情は特にゲーム性を帯びている。私は異性を攻略するのが面白くて、それに夢中になって、君を攻略した後、こっぴどく振った。というか振らざるを得なかった。「婚約者と別れて」と君には散々言われていたし、四六時中君が好きすぎて、どうにかなると思った。どうにかならなかったのだけどね。だから私はここにいる。
 私は地面から視線を離す。なんだかこちらに向かってまっすぐに歩いてくる人がいるのを知覚した。彼は若くて、直感で私はそれが君だとすぐにわかった。私は表情が強張るのを自覚した。
 君は洒落た茶色のシャツを着ていた。帽子をかぶって、サングラスをしている。人相がわからない。知らない、そんな恰好をすることなんて。写真やビデオ通話では君の普段の服装なんてわからない。
 来てくれたんだ。
 来なくてよかったのに。
 第一声はなににしよう。逡巡している間に、君は私に腕を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。
「如月万葉?」
 それは確認のためだけに発せられた言葉だった。
 私が惚れた君の美声に間違いない。
 私はうなづく。
 次の瞬間、君はズボンのポケットから折り畳みナイフを取り出した。私は事態を察しながらも、動けなかった。動くべきではないとも思った。君が私を害すなら、甘んじて受けるべきだと思った。私の顔はきっと醜く歪んでいたに違いない。
 君がナイフを振りかぶったとき、周りの人がどよめいたのが感じ取れた。
 最後の瞬間、私は生理的にあげてしまう悲鳴の狭間で「好き、大好き、愛している」と叫んだ。君に聞こえたかは、定かではない。それで君は止まらないと予想したし、事実止まらなかった。
 あやまちだった。君と出会ったことも、君を愛したことも、すべて。君で壊れたいという欲望は叶った。君に書きかけの小説をみせて「クソだな」と笑われたかった。あの頃にもどりたかった。ばいばい、永遠に、さよならね。愛しているよ、君が最期のひとだ。私を殺した罪を一生――
「ちがう、私を殺しちゃったら、君は幸せになれなくなる」
 刺された腹を抑えながら、私は叫んだ。指の隙間から、すごい勢いで血が滴り落ちているのがわかる。傷口が猛烈に熱い。
「なにがいまさら幸せだよ」
 そんなことを言ったように聞こえた。耳元でわーわーと雑音が鳴り響いていて、君の声がよく聞き取れなかった。外野の人からも悲鳴があがっていた。どうでもいい外野の人なんて。ぱっと見、君のシャツには返り血はついていないように思われた。私は君の手からナイフをもぎとる。手は血でぬめっていたが、一回刺したら君は満足したのかわからないけれど呆けた感じで、簡単にナイフを奪えた。振動。体が痙攣している。痛みで、おかしくなりそう。ナイフを私は地面に落とした。
「行って!」「いいから行って」「はやく逃げて」「はやくはやくはやく警察が来る前に」「はやく」「バカ逃げろって言ってんだよ」
 まくしたてた。私の口が回らなくなる。出血で気が遠のく。多分ひっくりかえったのだと思う。視界は空一面。君がどこかに行ったかはわからなかった。ああ、もう、やっぱり会わないほうがよかった。君を追い詰めたのは私だ。愚か。くらくらとする思考のなかで、そう考えた。

 私は総合病院に運ばれて、一命をとりとめた。そんな表現をするほど大袈裟なことではなかった。
 病院のベッドで私は空を眺めている。腹部がものすごく痛い。何針かしか縫っていないから小さな傷だが、私は動かさずじっとしていた。
 出血があれ以上になったら少々処置が必要だったようだが、この程度の傷で死ねると一瞬でも考えるなんて、やはり私はバカなのだなあと思った。
 君はまだ捕まっていない。あの日来たのは君じゃなくて、別の人だと、私が一生懸命警察に主張しているせいかも。ナイフを持つとき、手袋をしていたようだし、指紋もとれないみたいだ。竹原がきちんとLINEの証拠を提出したのかはわからない。逃げおおせた君も犯行を否定しているのだろう。それは救いだった。
 私は愚かさの罰を受けたにすぎない。加害者と被害者の立場になって、君に苛烈な人生を背負わせたくない、なんて上から目線か。とりあえず、この件で罰せられるのは私だけでいい。たとえ私が死体になっていたとしても、君は罰せられるべきではない。
 私は死体にはなっていないけれど、ああ、でも感情面では君に尊さを感じている証明をするために死にたかったよ。現実では君のために死ぬのは難しいみたいだけど。
 清々しい青空を見上げて思う。
 私はどこか静かな場所で、君と心中がしたかったな。
 君は近所の川で溺死することを目論んでいたよね。
 べつに二十歳の五月に人を刺したって幸せになる権利はある。私に言われなくても、君はわかっているはずだ。でも君が今自分を責めているなら、そんな君の気持ちを受け入れて包んであげたかった。「私と一緒に生きよう」なんてもう言わない。私を否定して生きてほしい。実際にそれをしてくれているのは竹原なのだろうから、竹原に感謝。
 君には、生きて、大人になって、歪な環境や私みたいなの、すべてから逃げてほしい。
 本心では一生忘れてほしくない。ずっとずっと、いっしょにいたい。「おはよう」と「おやすみ」を毎日言える関係でありたかった。恋愛の話とかも普通にしたかった。くだらないやりとりで一緒に笑いたかった。君の声をたくさん聞いて、たくさん褒めたかった。
 でももう今更そんな関係にはなれないから、君が私を忘れるのを、楽しみにしているよ。
 私は自分で自分の腹を刺したとこれから主張しようと考えている。精神錯乱で病院に入れたら、ようやく止まれるかも。自分じゃもう、止まれないから。行政にブレーキをかけてもらおう。

 これは僕の慰めのための、ひそやかな小説。

 もう今後一生――大雨が世界を滅ぼすまで、またね。

〈了〉


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