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【臨床と宗教】 第4回 宗教が医療に溶け込むとき

前回まで
あらゆるものが効率化を求められるなかで,アナログ的な側面をもつ宗教は人々の意識から抜け落ちてしまう危機にあります.しかし効率を求めてきた医療でも打つ手がなくなった,死を目前にしたなかではアナログなものでしか掬い取れないものの割合は大きくなっていきます.「死」の向き合い方のヒントにもなりそうなスピリチュアルケアは今後どのように広まっていくべきなのでしょうか?

医療と臨床宗教の親和性


 ここまで私ばかり質問してしまっておりましたが,逆に森田先生から私へご質問などはありますか?

森田
 私が活動をしているなかでは,臨床宗教師としての動きに共感してくださる宗教者の方々に接することが多いです.また医療界のなかでそういうことに関心を持っている方,あるいはすごく大事だということで応援してくださる方々に触れる機会をありがたくもいただいています.そこで,孫先生からご覧になって,いまの医療のなかで宗教的なもの,スピリチュアルなものというのはどういう潮流になっているのでしょうか?


 現在の医療のなかでは宗教に関してほとんどノータッチです.医療のいろいろな研修教育のなかでは滅多に触れられない分野だと思っています.そのなかで臨床宗教師の動きは最先端のものではないかと思っています.

 スピリチュアリティに関してはスピリチュアルケアのところですね.緩和ケア学のなかでしっかりスピリチュアルペインが身体的,心理的,社会的苦痛と並んでトータルペインのなかで教えられるようになり,かなり普及してきています.私たち総合診療医も緩和ケアの研修をしますが,スピリチュアルペイン,スピリチュアルケアは必ず学ぶ項目になっています.

   島薗 進先生の『現代宗教とスピリチュアリティ』1)を読んでいて,「スピリチュアル」をどう訳するかはまだ揺れがあるといったことが書いてありました.「霊的」と訳すのか,そのままカタカナでスピリチュアルとするのかでイメージがかなり変わってくると.英語のspiritualにも二重の意味があって,キリスト教の伝統における「物質(matter)」の対立項としての「霊(spirit)」という用法と,個人の中に養われるものとしての「spirituality」という異なる用法があるということです.緩和ケアにおけるピリチュアルペインは,存在論的な苦痛,つまり「生きていることの意味とは何か」,「なぜ私がこの病いにかかるのか」といったことをめぐる苦痛のことと認識されており,この用法での「スピリチュアル」はある程度普及していると思います.

森田
 医師と看護師は医療のなかで多くを占める職種になると思いますが,先ほどの問いにドクターとナースの違いを絡めると何か差異はありますか?


 同じ現場では働いていますが,実際やっていると中身が違うということがあって,医師はまだまだ薬を投与したり,手術をしたり,技術的なところがほとんどです.看護師の方たちのほうが患者さんのスピリチュアルな問題についてはより敏感なのではないかと思います.ただ,私が専門としている総合診療は心理的なケアとか,しっかりお話をお聞きして,薬は出さなくてもカウンセリング的な対応で回復していってもらうといった側面があるので,こういうスピリチュアルな分野にも関心をもっている人が結構多いのではないかと思います.そういう意味では看護師の視点に近いです.総合診療医以外にも,がんや難病,重篤な疾患に接することが多い分野の先生方はなんとなく感じているところはあるのかなと思います.

森田
 医療系の学術大会に参加させていただくこともあるのですが,看護師さんのほうではタイトルに「スピリチュアルケア」という言葉が入った発表がありますし,スピリチュアル的なアプローチ,視点に立ってという形のものがかなり多かった印象があります.先ほど先生がおっしゃったように,看護師の方々の間では少しずつスピリチュアル的な考えが広がっているのかなと思います.

スピリチュアルケアを誰が担うのか

森田
 私は臨床宗教師と別にスピリチュアルケアの専門職養成にもかかわっていて,日本スピリチュアルケア学会で認定している「スピリチュアルケア師」になるためのプロセスで医師や看護師の方も研修を受けに来られます.そこでお聞きしたいのは医療者の方からみて,われわれ宗教者が医療現場に入っていくのと医療者の方自身でスピリチュアルケアを担っていくのとどちらのほうが都合がよいのでしょうか?


 そこは難しいところですね.私からすると臨床宗教師という言葉を使うか,スピリチュアルケア師という言葉を使うか,頭の中ではそこにはほぼ違いはないです.

  先ほど檀家としての関係性ができている地元の宗教者がかかわるということをおっしゃいましたが(第2回「治療」2021年3月号参照),そのつながりの有用性は高いと思っています.病院という場は治療する,命を長らえる,死を避けるというイメージが強いのでお坊さんを若干拒絶してしまいますが,在宅医療の場面だったらもっと入りやすいと思います.もっと自然な形で,もともと檀家で,来てもらっているお坊さんにいてもらう.それは死の場面だけでなくて,もっと前からですね.関係性がよかったら,病気のおじいちゃんがいて,3世代ご家族がいらっしゃって,お坊さんにもいてもらう.死ぬことだけではなくて,病気をもつことはつらい経験ですよね,これは仏教から見たらこう考えられますよというような話をドクターも一緒にお聞きするというのをやってみてもいいのではないかと思います.いま医療にも病院から地域へという流れが非常にあって,地元の文化としてある仏教が地域の中で融合していくことはあり得ると思っています.

森田
 いろいろな条件が整っての話になるのかもしれませんが,今の先生のお話に可能性をすごく感じました.

宗教の価値を認めてもらうための道筋

森田
 現状で宗教は死へのつながりが強いように認識されているかと思いますが,医療はなるべく死から目を背けさせようとしているところもあるのかなと思います.先生の感じられるなかではとくに医療現場での死の捉え方は変わっていない感じですか?


 そういうところの捉え方は医学教育や公的な教育のなかではほとんど扱われずに,テクノロジーだけが進歩し続けます.医療でいえば遺伝子医療など長寿医療の発展がめざましくて,あと10年,20年すると寿命がもっと延びる抗老化剤のような薬ができて,理論的には人間の寿命が200歳ぐらいまで延びるのではないかというぐらい抗老化研究の進歩がすごいです.

 たしかに今まで治らなかったがんが治るのは医者としてはうれしい気がしますが,そうすると人間200歳300歳まで生きられるとなって,人生を生きている密度がどんどん薄くなってきて,ますます現代人は死に直面しなくなるというか,死がすごく遠くなってしまうという感じが出てきます.

 患者さんが病気をすることは一種の「小さな死」なわけですよね.今まで使えていた体が使えなくなるとか,できていたことができなくなるという「小さい死」を経験することで,患者さんたちはつらい経験を乗り越えて何か学びを得ている.そのなかで宗教から救いを得ている人たちもいっぱいいます.それが医療のなかでは直視されてこなかったというところがあるのだろうとは思います.なので,あまり公に取り上げられていないだけで,宗教が果たしている役割は病気を経験している患者さんのなかでは非常に大きいのではないでしょうか.今後そういうことがきちんと捉えられていくことは非常に重要だと思っています.

  私自身,マインドフルネスや仏教の考え方で非常に救われたところがいろいろありまして,宗教は人間にとって必須だと思っています.それがなければ人間はつらい経験をなかなか乗り越えられないのではないかと思っています.


森田
 先ほど専門領域によってスピリチュアルケアへの関心度も違うというお言葉もありましたが,孫先生のようなお考えをお持ちの方々がいらっしゃれば,私どももかかわりやすく,少しにじみ出てくる成果が得られるのではないかと思います.孫先生はご自身のスタンスについてはどのように感じておられますか?


 宗教という言葉になってしまうと,医療のなかではあまり登場しない言葉なので,たとえば私が口に出して「宗教は大事です」と言うと,きわもの扱いされてしまうでしょうね(笑).この企画自体も恐る恐るというところがあります.

   ただ,僕がすごく大事だなと思っているのは学問性ですね.学問としてきちんと検証しながら広めていく,明るみにしていくことが大事です.宗教学とか死生学とはこういうものであり,学問的にはこのように位置づけられて,このように検証されて有効であるとか,そういうものが研究,学問の上にきちんと乗っていけば,医療には効果のあるものはどんどん取り入れるという作用があるので,広まっていくと思います.


 緩和ケアもそういう形で学問として確立して広まってきたので,臨床宗教学,臨床死生学が今後学問として医療のなかできちんと検証されていけば広まっていく可能性は十分あると思います.

森田
 今のテクノロジーや科学技術の波を利用する格好で,しっかりと客観性を持たせて宗教学が理論的に構築されると,まったくこの領域から外れていくわけではなくて,取り入れられる可能性もあるということですね.


 そうですね.例を挙げるとマインドフルネスは仏教から輸出されて西洋で普及したわけですが,マインドフルネスストレス低減法からマインドフルネス認知療法など,慢性のうつ病や不安障害にマインドフルネスは非常に有効だということです.宗教色を抜いた仏教の瞑想をうつ病とか不安障害の患者さんにやると改善するということで,いま西洋のほうでどんどん普及し始めています.精神医学のなかではマインドフルネスを使った心理療法が教科書に載ってきて,それが日本に逆輸入されているところがあります.

森田
 アウトプットが見えやすい形で出てくると,そのプロセスを媒介している宗教も有益ではないかという結論に至る.ある種実証的なものが積み重ねられていくと宗教の見られ方も希望が見える部分があります.

今後,臨床宗教学が超えるべき壁

森田
 病院で勤務させていただいた経験のなかで,生ききった姿が目の前にあって死に向かっていくとき,宗教的な効果とは何かと思う場面がたくさんありました.死への不安,死に対する恐怖があって,自分が死んでいかないといけないのは怖い.だから早く殺してくれ,早く逝かせてほしいという声をいただくこともたくさんありました.

 効果があって改善が見られることがあったとして,亡くなった方に亡くなる前どうでしたかと尋ねられれば実証研究は成り立つと思いますが,実際はそんなことはほとんど実現できず,端でかかわられていたご家族さまが代弁者となるのでしょう.多くは安らかにという形で美化されるところがありますが,実際のところそこはもっとドロドロしているところだと思います.人が自分で背負ってきた人生の荷物を下ろすことは本来ものすごく大がかりなものではないのでしょうか.頑張ってきたよといって荷物をポンと下ろす方もいらっしゃれば,とっ散らかすような形で終える方もおられる,あるいは背負ったまま亡くなられている状況もあるのではないかと思います.人間がいのちを授けられ生きていくなかで,客観的に確認できないドロドロとしたもの,要は客観性をもたせられないような主観のところ,さらに効果も出せなくて,ただあるがままの報告だけで終わってしまうところにも宗教は生きているのではないかと思っています.

 仏教的な考え方になりますが,いのちは授けられたのだからいのちを終えていく,そういうものとしていのちを捉えるならこのかかわりに意味はあり,ケアとして効果的なものなのかどうかがわからないのも全部包括するような形で宗教はそこにドーンと存在している.必ずしも効果があると実証できないところも宗教にはあるというのが個人的な見解です.


 おっしゃるとおりです.実証研究にのりやすいテーマとのりにくいテーマがあって,まさにこの世界はのりにくいテーマです.おっしゃったように亡くなった人にインタビューやアンケートはできないという最大のハードルがあります.そもそも数字で測れるものには限界がありますし,効率性,有効性だけがすべてではないところがあります.主観的なものをどういうふうに学問的に明るみに出していくか.学問で取り扱えないからそのまま伏せておくではなく,そういうところも学問で取り扱ってきた苦労人たちが過去にはいます.哲学の人たちもそうかもしれません.島薗進先生も当時は死生学なんていうわけのわからないものはやめなさいと周りから猛反対されたと思いますが,そういった中でも学問として死生学を打ち立ててきたわけです.困難はあるもののそういった努力のなかで宗教,スピリチュアルなものについても,いろいろな形で記述したり,明るみにしたりすることができるのではないかと思います.

参考文献
1) 島薗 進:現代宗教とスピリチュアリティ,弘文堂,東京,2012.

第5回へ続く)

※本内容は「治療」2021年5月号に掲載されたものをnote用に編集したものです


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