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【臨床と宗教】 第7回 日本とイランにおける 医療観の違い

前回まで
宗教を宗派などで分ける創唱宗教と,古来からある基層的な自然宗教とに区別すると,日本人の言う無宗教の状態は創唱宗教的なものであって,自然宗教的には多くの人が先祖を敬ったり自然を崇拝したり死生観をもっていて,決して宗教と無縁とは言えません.医師は医療の現場でそのような死生観と向き合う必要がでてきます.今回は井口先生が体験したイランの医療から,文化と医療の成り立ちについて考えます.

イランと日本の在宅医療の違い


 井口先生はイランを訪問されて診療風景を見学されたとのことですが,どういうきっかけがあったのでしょうか?

井口
 上智大学にグリーフケア研究所というところがあって,私はそこを修了したあとに大学院に入ったのですが,そこでスピリチュアルケア専門職の育成にかかわっていらっしゃる葛西賢太先生から,イランに行って在宅医療について話してくれる医者を探しているので来てみないかと誘っていただきました.それまでとくにイスラームの研究をしていたわけでもなく,そういえばうちの学科に在宅医療をやっている医師がいたな,とちょっと声を掛けていただいた感じです.

 人類学の研究者の細谷幸子先生という方がいるのですが,この先生はもともと看護師で,イランの老人介護施設でフィールドワークを行って博士論文を執筆され,その後もずっとイランの研究をなさっています.その先生が笹川中東イスラム基金の後援を受けて,イランで緩和ケアに取り組む医師の方達と協力してイスファハーン医科大学で在宅緩和ケアのセミナーをやるというので,日本からゲストで医者を呼ぼうという話となり声を掛けていただいたのでした.だからほんとに偶然,たまたまの僥倖で行かせていただくことになったのです.

 あまりにも知らないところで講演などをするので,イランについていくつか本を読んだり,イスラームのケアなどについても勉強したりしてから行ってきました.帰ってきてから大学院の紀要にイランでのことを投稿する必要
があったために書いた論文が「する」と「いる」というケアの話です 1)

 論文の内容自体は,イランで訪問診療に同行したときのことをまとめたものです.イランの先生の在宅医療の実践と日本の在宅医療の実践でどこが大きく違ったか.その違いを見たときに,イランではお祈りをすごくするのですが,一方で対話などは少ない.日本ではお祈りはしないけれども結構対話をする.この違いから「する」と「いる」という2つのスピリチュアルケアの方向があるのではないかという考察をしました.


 それぞれの文化の差がにじみ出ているようで興味深いですね.

井口
 はい,イランの人たちがお祈りについてどう捉えているかとか,重層的な信仰世界の中で生きるというのはこういうことなのかという感覚は現地に行かないとわからなかったと思います.イランでスピリチュアルケアにあたる宗教者の先生たちは正しい答えを与えるといったことにすごくこだわっている印象がありました.日本からスピリチュアルケアの専門家がくるということで,あちらの先生方も張り切っておられて,スピリチュアルケアをするときにはどんな答えがいるのか,僕たちはこんなことで悩んでいるのだけれども,どうしたらいいのか,なんて答えたらいいのか,と現地ではしょっちゅう聞かれました.

 日本人スピリチュアルケアチームは,それはまず相手の話を聞いて……と説明するのですが,「いや,聞くのはわかったけど,答えは何だ」と,それで押し問答になったことが何度となくあり,その経験とさっきお話した在宅医療の実践の違いをもとにスピリチュアルケアの中にも,「何かをしてあげよう」という要素と,「ただそこにいる」という要素があるのではないかということを東畑開人さんの論考『居るのはつらいよ』をもとに論じたということです.


 なるほど,訪問診療の医師が日本では対話を重視するのに,イランではあまり対話をせずお祈りをするというのも,イランの医師が宗教者に近い立場のようで興味深いですね.イランの方々が答えを聞きたがるというのは,一神教であるイスラム教という宗教がかかわっていることも想像されるのでしょうか.

井口
 そもそもイスラームの宗教者の仕事が,日々の実践が正しいとか間違っているとかに答えを出すことのようなのです.

 たとえば断食の時期にビタミンCの点滴はしてもいいのかと患者から聞かれたりします.それに対して治療の目的だったらいいけど美容だったらだめだと判断したりするわけです.あるいは,普段お祈りのとき,石のようなも
のを床において,そこにおでこをつけてひれ臥すような形でお祈りするんですね.だけど,それも具合が悪すぎるとできない.では,どうしたらいいのか.その場合は,石をおでこのほうに持ってきてあてるのでもお祈りの意
味があるのだよとか,そういう答えを出す仕事です.

 イスラム法学に基づいて正しい答えを教えてさしあげる.それが日々の仕事で,でもそれだけではどうしようもないことが死にゆく人のケアなんだと思うんですよね.

 現地でお世話になった宗教者の先生は,答えを示してあげることだけでなく傾聴が大事だと考えて,傾聴を医学生が学べるプログラムを医学部の中で何とかつくったりされていました.そういうふうに,イランの中で新しいスピリチュアルケアの動きも出てきていたりするけれども,とはいえ,日本に比べて「する」ことが宗教者にすごく求められ続けているのが宗教の特性としてあるのかなと感じました.


 たしかに,この論文を読んだときに,死にゆく場面でもものすごく答えを求めがちだなとは感じたのですが,逆に言うと,日本人は曖昧なままにしておくのが得意というか,そういう文化かもしれないなとも思いました.日本語は文法的にも曖昧だとも言われがちですが,明確に答えることを少し避ける文化だというのもあるのでしょう.さらに言うと,仏教そのものが答えを出す宗教というよりは,自分で考えさせる哲学のような性格を持っているところからも,日本とイランの違いが由来しているかもしれませんね.

井口
 なるほど,そこの違いはありそうです.イランでも,「生きているときに悪いことをした人は救われません,地獄に落ちます」とか患者さんに言ってしまう宗教者の方もいるらしいんですよね.さっき言った現地でお世話になった宗教者の先生はそんなこと言ってはだめだろうという立場で,傾聴やスピリチュアルケアに関心を持って活動をされていますが,はっきりさせるというなかにもいろいろ方向性の違いがあるようでした.

「するケア」と「いるケア」


 「するケア」と「いるケア」というのは慢性期の医療や介護の現場でも言われることですが,論文内で触れられていた在宅医療や緩和ケアの場面でも「する」と「いる」というケアの違いを見ることができるという視点が面白かったです.さらに,この論文ではイランのイスラム教における緩和ケアのあり方が,どちらかと言うと「する」中心になっているのだけれども,「いるケア」もあるのだという話を展開されていたかと思います.イランの医師がお祈りをする場面がいっぱい出てきますが,まず日本ではちょっと考えられないですよね.もし日本で,「ではあなたのために祈ります」とかやるとかなり違和感があると思うのですけど,それが非常に自然な形で,むしろ期待されているような形でイランだと展開されるというのはすごく興味深かったです.

井口
 そうですね,訪問診療でバイタルを測ったり処方を出したりするのは日本と共通しているのですが,祈り始めたのには正直私もすごくびっくりしました.最初は何が起こっているのだろうと思ったんです.みんなで手の平を上に向けて胸のあたりに上げて,「何か歌い出したぞ,どうしたどうした?」と思ったんですが,なんとなく雰囲気からどうやらこれはお祈りっぽいなとわかったんです.イスラームのお祈りは歌みたいで旋律がすごくきれいで,「まさか…お祈りをしているのか!」みたいな感じで状況を理解しました.

 現地で同行させてくださった医師の先生は,わりと敬虔な方のようでしたが,それでもイランでは結構祈る場面があるよねと言われて,すごく驚きました.

 宗教の持つ性質の違いはやはりすごく大きいのだろうなと思わせられたのですが,一緒に行った先生が「イスラームは世界観を提供する宗教ではなく生き方の宗教だよ」とおっしゃっていたのがなるほどという感じでした.生きるやり方とか,どう生きていくか,日々何をしていくか,それが全部もう宗教的な行為であるというなかで死を前にした方とかかわっていくことになります.


 その点は日本とは大きく異なりますね.日本では宗教というと,主に冠婚葬祭のときに利用するという側面が大きい.生き方や生活習慣,日々の慣習がすべて,宗教的な行為とともにあるイランとは対照的ですね.

井口
 はい,日本でも日々の習慣にも自然宗教的なものはある程度かかわっているとは思うのですが,日常生活や内面など,全てが全部神様にはお見通しで,それが死後の救済とつながってくるという感覚があるかどうかという点は結構大きな違いだと思います.

 イランの医療自体は,普通の,と言ったらおかしいけれど,私たちが親しんでいる西洋医学です.お医者さんたちが依って立っている論理は西洋医学だけれども,その基盤に生き方を規定するイスラム教がある.

 私が行ったのはイスファハーンというかなり宗教的に敬虔な都市なので,これがイラン全体とは決して言えないし,また世界のムスリムの中では少数派と言われているシーア派の話ですが,生きている世界観の違いがこんなふうにやることの違いとして出てくるのだというのが現地で見学させてもらって興味深かったので,それをまとめてみたというわけです.


 この論文で,こういう場合に日本人の医師は何をするのだという「する」を結構聞かれて,とりあえず患者さんに寄り添ってお話を聞きますと言ったら,だから何をするのだというような感じで答えを迫られたのが結構つらかったと書かれていました.そういう意味では「すること」がイランでは求められがちだけれども,実際に在宅に行っているお医者さんは,あまり話をするでもなく,日本だったらここでもう少し病状を説明したり,いろいろコミュニケーションを取るのだと思います.それでも文化が共有されているのでみんな満足している,ということなのでしょうか.

井口
 たいして説明もせず,答えばかり教えてくれと迫るとか,そこだけ切り取ると私たちの感覚ではちょっといまいちな先生なのかなと思うじゃないですか.でも,外来などの話の様子とか患者さんへの態度をみていると,たぶんこの現地の先生はすごくいい先生だろうなという感じなんですよ.全然高圧的でもないし,話を聞くときもすごく真摯に聞いている.患者さんの信頼も得ている.だけれども,そんなに対話はしない.

 医療側も患者さん側も日本とは違うロジックで動いていて,もしかするとそのなかで日本の在宅の勢いでべらべら話していたら逆に「何,この先生は」みたいになるのかもしれません.文化と宗教観,全てが違うなかでの医
療は,こちらの価値観で何か言えるものではないのだなとすごく感じました.


 文化によって価値観や行動様式の体系が違うので,その行為の意味はその文化のレンズを通して解釈しなければならないというのは文 化 人 類 学 で い う 文 化 相 対 主 義(cultural relativism)の考え方ですね.イランでいう「患者の疑問に答えを出す」という行為が,あちらの文化では医師の職務として当然のことである,ということなんですね.

井口
 そういうことになります.日本の文化背景や医療だけをもとにした物差しに基づいて「患者の疑問に医師が答えを出すことは患者の主体性を損なう」とか「問題のある医療だ」とか短絡的に評価すべきではないということで
すよね.行為の意味を相手のレンズを通して解釈しようということは国の違いだけでなく,普段の診療のときにも考えておくといいことかもしれません.

 イランの医療全体を見てみると,まだまだ告知はしないのが当たり前だったり,パターナリスティックにいろいろなことを医者が決めて,それに従わせたりといった文化が強く,そんななかで患者さん本位のスピリチュアルなところまで配慮した緩和ケアをやっていきましょうよと,いま草の根運動みたいなのが始まりつつあるような段階でした.一方でまだまだ病気は神様の領域の問題という感覚もあります.それぞれの実践の形は違うけれども,似たような満足感みたいなところへ最終的にたどり着こうとしているのだろうなというのは感じました.


 イスラームは生き方の宗教だという話がありました.論文でもイスラームは生活や生き方に直結しているものだと書かれていましたが,すなわち生活基盤や文化において,パソコンで言えばたぶんOSみたいな形でイスラームが
あるので,僕らが何教を信じるとか入会するみたいなのとはちょっと違うイメージということですね.

井口
 そうですね,生き方を変えるというようなことではないかと思います.


 そういう意味では,たぶん日本人も時代を遡れば,仏教的な文化や生き方が根づいていた時代もあっただろうし,仏教も伝来したという意味では,もっと前は自然宗教的なものがあったのでしょうね.

参考文献
1) 井口真紀子:「なにもしない」をする──日本とイランの訪問診療風景の比較から見たスピリチュアルケア試論.グリーフケア,(8)179-193,2020.

次回へ続く)

※本内容は「治療」2021年8月号に掲載されたものをnote用に編集したものです

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