エミリーとパリのはなし
「ねえ何?めっちゃ楽しそうだし、みんなおしゃれ!」
「かわいい〜憧れる〜ッ!」
と、密かに思っているそこのあなた。
ですよね、心の底から共感します。
これは Netflix でシリーズ公開されている『Emily in Paris(エミリー、パリへ行く)』というドラマからの1枚。
2020年10月2日から配信がスタートした本作は、リリー・コリンズ主演、『セックス・アンド・ザ・シティ(SATC)』のクリエイター、ダーレン・スターが手がける新ドラマシリーズ。
Season1 の配信開始以来、世界各国でドラマシリーズの1位を取得、日本でもTOP10に連日ランクインするほどの人気作品とされています。
私のように、もう完全制覇しました!という方々も少なくはないのでは?と思いますが、こんな、いかにも楽しそうで煌びやかに見えるドラマが実は、公開されるや否や、世界的に大批判を受けていることはご存知でしょうか?
今回は、なぜこのドラマが批判されているのかを追いつつ、でもなんだかモヤモヤとしてしまう気持ちを書かせていただこうと思います。
とはいえ、これ、書き始めてからずいぶん時間が経っちまった!!!!!
ので正直、新鮮味ゼロだな、あかんやん。と思いながら投稿しています。
このドラマをまだ知らない人には新鮮であろうこと願います。(超を超えるネタバレですが)
はい、では、
なぜこんなにも批判を受けてしまうのか?
そこにはある観点からの、様々な指摘がありました。
● 1 : 舞台はパリだけど、アメリカ人によるアメリカ人の視点で描かれた世界
本作で描かれたパリは、「アメリカの観客へのリップサービスとして描かれたような過剰なステレオタイプによって作り上げられた、アメリカ人の想像の中にあるパリだ」と、各メディア誌では批判的に評価されているようです。
元々はアメリカ・シカゴで働いていたエミリーが、所属するマーケティング会社の急な事情でパリに移ることになる設定からこのドラマはそもそも始まるのですが、エミリー本人は「憧れのパリ!!!!!」とでも言わんばかり(というか言ってる)のエキサイティングな感じですんなり渡仏。
休みに遊びに来るはずだった当時付き合っていたボーイフレンドに電話で行けないと言われると、期待していた分落胆したエミリーは電話越しで怒りモードに。
「...But, THIS IS PARIS…!!」
「こんなに素敵なパリに遊びに来ないなんて、あなたどうかしてるわ!」
なんて言ってしまってボーイフレンドはドン引きしちゃうなど、パリは夢の国だと言わんばかりのエミリー本人の憧れが根底にあり、それが現実となったような華やかなパリでの生活が描かれていきます。
こう言うと、エミリー自身はパリに憧れているので、フランス文化を丁寧に学んで習得し、華麗にパリに馴染んでいくんだろうな、なんて少し思ってしまうのですが、実際は逆。
エッフェル塔を前にセルフィーを撮り、出勤時に見つけたベーカリーでパン・オ・ショコラを買ってまたセルフィーを撮り。
張り切って初日に出社してみたは良いものの誰も出社しておらず、ようやく来たと思ったらエミリーが到着した2時間後。アメリカのビジネスでは絶対にあり得ない!と不審に思ったり。
フランス語が全く分からなければ学ぼうともしないので、仕事も私生活も英語で喋り続け、初っ端会議に同席していたスタッフは少なからず英語が理解できる人たちだったものの「Why are you shouting?(なんで叫ぶように喋るの?)」なんて言われて、また不審に思ったり。
「フランス人ってなんて嫌なやつ!」というようなエミリー側の視点しか描かれていなかったり、フランスやパリについての比喩表現が全く意味不明な形で台詞になっていたり。。
(パリの風景をまるでラタトゥイユ!と言っていたのは私も笑いました)
そう、渡仏してからずーっと、エミリーはただの観光客のような振る舞いしかしていないのです。日本のことわざで「郷に入っては郷に従え」と言う言葉がありますが、まさにエミリーに必要な言葉かもしれません。
そして、よくよく考えてみれば、
本作の1話目からかなりアメリカ人がマウントを取っている(むしろそれが当然である)ような描かれ方をされていました。
エミリーが所属していたシカゴの会社が異動先会社の母体である設定は少なからずありながら、「アメリカのビジネススタイル、アメリカ流のサクセスTipsを伝授しにやってきました!」なんて、エミリー本人が使命感を感じ、それが正しいと無意識的に思っているし、さらにはそれをそのまま現地のスタッフに堂々と言ってしまうんだから。
フランスに住む方々、フランスの文化に重きを置いている人々からしたら、そりゃ、何言ってんだこいつ、と嫌がられるのは当然ですよね。
● 2:多様性を意識しているようにも見えるが、やっぱり白人だらけの世界
このドラマでは脇役含め、複数の人物キャラクターが登場していて、エミリーのようなアメリカ人はもちろん、フランス人をはじめとした現地パリに住む設定の人々が多く登場します。
ですが、エミリーの周りに登場するキャラクターの中で、有色人種はたったの2名しか登場しません=この2名以外は全員が白人。(シーズン1時点)
パリに訪れたことがある方は想像できるかと思いますが、実際のパリでは有色人種の方の割合も多く、どこか1グループをみたときに全員が白人であると言う状況はまず起きづらい。
しかもそれだけではなく、この2名における役設定がそれぞれ少し奇妙な描かれ方をされています。
まず1人目が、Mindy(ミンディー)という中国出身設定のキャラクター。
ある日エミリーと出会い友人になった後、色々な場面でエミリーの話し相手として登場しては、フランスに慣れないエミリーに移住の先輩としてアドバイスを投げかけるシーンがよくあるのですが、彼女が中国ルーツだからでしょうか、フランス人やパリに住む人々に対してかなりマイナスな発言が多く、まるでエミリーの設定では描き切れないフランスの理不尽さへの問い掛けを全てこの Mindy に押し付けているような感じです。
また、彼女は下ネタをよく発していて、「下品な女性」というイメージで描かれている印象があるのも気になるところ。
そして、ここで忘れて欲しくないのが、Mindy の設定や台詞を考えているのも全て白人ライター達だということ。
決して中国ルーツの方がみんな Mindy と同じような考えを持っているわけではないし、中国ルーツの女性がみんな下品であると表現しているのではないことを頭に置いておく必要があるのですが、単純にこのドラマを見るだけではそういったイメージが勝手に植え付けられてしまう危険性があることを前提において考えると、如何にこの Mindy という中国ルーツのキャラクターの描かれ方が残酷か、少し分かるのではないでしょうか。
しかも、この Mindy を演じている Ashley Park さんはなんと中国ではなく韓国ルーツだそうで。少し古い海外ドラマでは、日本人役を現地の中国系俳優が演じるみたいなことがよくありましたが、未だに同じようなキャスティングをしているのかと思うと、1アジア人として不快に思いたくもなる。
そして2人目が、Julien(ジュリエン)という黒人キャラクターでエミリーとは同僚。
彼はゲイ役で登場していますが、彼の演じる “ゲイ” はとてもステレオタイプ的。そしてこの Julien というキャラクターを注意深く見ると、同僚という脇役設定に限界はあるだろうとはいえ、正直、劇中あまり目立ったことはしていません。
つまり、このドラマが「ダイバーシティ&インクルージョンを意識しているか?」という問いに対して YES と答えられるようにするためのピンチヒッターとして、黒人&ゲイというキャラクターをあえて作った、という見方も出来るかもしれません。昨今のトレンドや世間の目に負けないために、とりあえずマイノリティを消費しておく(取り入れておく)という典型的な例とも言えるかも。
● 3:批判を受けた部分を改修した、でもまだ足りてない
ちなみに現在(日本では)Season 2 まで配信されていて、ここまで書いてきた内容はほぼ Season 1 におけるものでした。
S2 が世界的に配信される以前に上記のような批判やマイナス評価が多くあったので、各評論家をはじめとした多くの視聴者たちは、S1 で問題とされた点が S2 で如何に改善されているのか?と、半信半疑だったわけです。
まず、このドラマ自体が英語企画ということもあってか、エミリーはやっぱり英語で喋り続けています。が!S2 からはなんと、フランス語学校に通い始めていました。「フランス語を学ぼうともしないあなたと仕事したくない」なんて言われちゃった S1 でしたが、彼女はどうやら純粋に受け止め、挑戦し始めたよう。
そしてパリ内のコミュニティが狭すぎるとも評価を受けていたS1に比べ、新たなコミュニティや人物もフランス語学校をきっかけに登場し描かれています。これはメディア評価の中でもプラスに影響したみたい。
そんな語学学校をきっかけに登場した New キャラクターの Alfie(アルフィー)は、エミリーの新たな意中の人となりますが、それだけでなく、S1 で問題とされていた色々な視点を一気に払拭するかのような役割を果たしています。
Alfie はイギリス・ロンドン出身で、現地銀行の社員ですが、研修先としてパリへの移動を命じられた設定のキャラクター。
エミリーと出会った語学学校での受講も、実は会社から命じられたタスクの一つ。そもそもフランス文化の何にも興味も無ければ、フランス語を学ぼうとする姿勢も皆無。彼にとってはパリ生活自体が “仕事だから仕方ない” もので、全てに憧れを抱くエミリーとは正反対でした。彼からの発言も皮肉った表現がとても多い。
S1 で「ザ・観光客」な生活を送っていたエミリーに対し、彼女にはなかった考え方や視点が Alfie によってプラスされたことで、単なる1アメリカ人のファンタジーラブコメドラマからは少し脱却したような印象があるよう。
ただ、S2 から登場したNewキャラクターたちがみんな趣のある設定で、そのおかげでこのドラマ自体のダイバーシティ問題が解決したか?というと、全くそうではなく。
Alfie と同様、エミリーが通い始めたフランス語学校に登場する Petra(ペトラ)という女性がいます。彼女はウクライナ出身の設定。
エミリーと Petra はクラスでパートナーを組んだことをきっかけに意気投合し、共通言語がフランス語になるのでお互い慣れないながらもコミュニケーションを取ります。ある日2人で高級デパートへ買い物に行くというシーンがあるのですが、問題はここ!
お互いに気になった洋服やアクセサリーなんかを試着しまくって楽しんでいたところ、自然とそのまま店を出ようとする Petra。なんと「試着したまま逃げ出しちゃおう!」と言い出します。はい、それ、万引きです!!
エミリーはそれはまずいよ!と抵抗するのですが、Petra はそのまま脱走。追いかけるエミリーはやっと彼女を捕まえたと思いきや、共通言語が慣れないフランス語なだけに説得ができず、気づいたら Petra はなぜかブチギレ。結局これを機に友人関係は解消、その後劇中に Petra が登場することはなく、早くも過去の人となります。
はい、要はこのドラマで唯一登場したウクライナ人キャラクターに「万引き犯」という設定、しかもそれ以外の何者でもないような描き方をしているのです。
これだと、S1 で批判された Mindy や Julien に対するキャラクターの描き方と何も変わらないようで、さらに言えば、この Petra というキャラクター自体の設定が本ドラマにおいて本当に必要であったかどうかを問うと、決して必要だったとは言えない。このドラマの構成上でいうコメディ感や、エミリーが巻き込まれる “あるトラブル” を演出するためだけに「印象の良くないウクライナ人」を登場させたと言っても過言ではなさそうです。
ちなみに彼女の Petra(ペトラ)という名前、実はウクライナ由来のお名前ではないそうで。ロシア由来のお名前みたいです。これだけでも如何にライターたちが深く考えないでこのキャラクターを作成しているか、感じ取れてしまいます。
そして、今回のこの Petra という人物設定を巡って、S1 でのそれらと何が結果として違ったかというと、「これは本当にあり得ない、あってはならないことだ」と、世界で活躍するウクライナ著名女性人たちが次々にSNSなどで反論をポストし、各種ウクライナ系メディアからも反論を意見する記事がアップされ拡散。
さらには、ウクライナの文化情報制作大臣までもが反論意見を持ってメディアに出演するといった結末に。政治分野にまで Petra における問題視が広がってしまったのです。
※誤解を生みそうなので言っておきますが、
このドラマのスタートは2020年〜、Season 2に至っては2021年〜なので、制作期間も考えると最近のロシア・ウクライナ問題が顕著化したよりも前に仕上げられた作品。なので、上記 Petra というキャラクターと最近の問題は全く関係ありません。
おそらく S1 の時点であらゆる批判がすでにあったから、視聴者もそこが改善されているか?と疑いながら S2 を見ていたことは間違いなく、さらにヒートアップしてしまった状況は少なからずあったんじゃないかと思います。
とはいえもし、S1 で受けた様々な問題視と評価を丁寧に考え直し、新たに追加するキャラクター設定においてもダイバーシティの観点でよく考えていたら、ここまで批判が広がることはなかったのでは?と思わずにはいられません。
さて、ここまでのお話をより的確に評論してくれてる(というか元情報はここからなんですが)動画が2本ありますので、ちゃんと知りたい方はぜひ。(英語です)
● それでも尚、魅力的なファッション性(?)
ここまで批判のダイジェストを長々と続けて、こんなにマイナスな評価が世界中から浴びせられるなんて、そもそもドラマ自体の出来がそんなに良くないんじゃないの?と思うかもしれません。中には、「単純につまらない」「馬鹿馬鹿しい!」なんて、上記の各種問題を問わずとも批判的な視聴者がまず多いだろうことも事実です。(ラブコメ自体嫌う人が多いのもありつつ)
ただそんな中、主人公エミリーを中心としたこのドラマに登場するキャラクターたちのファッションが評価されているのも、また事実。
各種ファッション系メディアでは、このドラマで登場する各種スタイリングを掲示しながら、それぞれがどこのブランドのアイテムか?似寄りのアイテムでもっと安く買うにはどこを探したら良いか?など、登場するスタイリングをファッションバイブルとして書いている記事も少なくありません。
これらの衣装まわりを主に誰が担当しているかというと、Marylin Fitoussi(マリリン・フィトゥシ)をメインに、なんと Patricia Field(パトリシア・フィールド)も携わっているんだとか!
そう、あの『Sex and the city』でもコスチュームデザインを担当していた NYの超有名スタイリストです。
余談ですが、ニューヨークには彼女のお店があり、観光に行った当時ファッション馬鹿だった私は当然のごとく駆けつけたわけです。そのくらいファッション業界では有名人。
『Sex and the city』でのスタイリングは今も尚輝いているし、未だに憧れを抱く人々は多いといっても過言ではないでしょう。
『Sex and the city』を手がけた際のインタビューで、Patricia Field はこんな言葉を発していました。
なるほど。
ここからは単なる私の勝手な見解でしかありませんが、
『Sex and the city』で Patricia が手がけたスタイリングは、いつも煌びやかでとてもキャッチーなんだけど、どこかシックで、まるでタイトル通りニューヨークに拠点を据えたような、どこか落ち着いた雰囲気も感じられるような気がします。
特にキャリーは、ライターという設定なので、いつも〆切に追われているような生活=ちょっとこの隙にコンビニへ!(実際はコンビニじゃないけど)みたいな、ラフだけど小洒落た格好もよく登場するのがまた可愛い。
では、『Emily in Paris』はどうだろう。
キャラクターの年齢設定がまず違うし、時代のトレンドなども違うので、全く同じではもちろんないし違って当然なんですが、ニューヨークをメイン拠点で動く『Sex and the city』とは違い、
アメリカから来てフランスで生活をしている、芸術と美味しいもので溢れている素敵な街。
どこか落ち着かないし、かえって普段以上に気合が入る。
そして自由。若さ。
そんな様子がなんとなく感じられるのは、私だけではないはず。
アメリカからやってきて、「期待を膨らませた憧れのパリ」というエミリーの考え方に一方で批判はあるものの、ファッションやスタイリングはその人物やキャラクターに起因するものなので、Patricia はそれに見合ったスタイリング設計に携わり、さらには見るひとをファッションの世界へ引き摺り込む魅力的な役割を果たしている。
各種ファッションメディアであがっている『Emily in Paris』におけるファッション性の話よりも先に、人種差別的に批判になっているという話題を私は目にしていたので、正直、それを横目にしたようなファッションONLYの記事を見た時は「え?めっちゃ批判されてるのによくあげられるな!」と思っていました。
でも、よくよく考えてみれば、批判を受けている作品だからといって、衣装など別の視点で携わっている関係者をも批判するべきではないし、むしろその視点が優れているのであれば、その点は否定するべきではないと後々思い直したのです。
この記事冒頭のように、私もこの作品のビジュアル面にはとてもワクワクしてしまっていた一人だから。
でもじゃあ、ダイバーシティ観点が足りないという理由で批判することに少なからず賛同する側ら、ファッションなどのビジュアル、クリエイティブ面では批判をするべきではないという、両方の立場に置かれた今、改めてこの作品をどう認識したら良いのだろう、と私は悩み始めました。
● 「かわいい」は果たして 正義 か?
僭越ながら私もどちらかといえばクリエイター側であることもあり、上記の通り、本作ドラマにおけるファッション性は確かにファッション業界に良い影響を与えていると考えると評価に値するもので、その部分に携わった関係者をも批判はしたくないというのは前提にあります。
ただ、だからと言って、批判されている部分と評価されている部分、すんなり切り離してしまって良いのか?ということも考えておきたい。
ちょっと想像してみましょう。
あなたは今、中学生もしくは高校生(あるいは小学生でも良いですが)、いわゆるティーンエイジャーで、ドラマが大好きです。他にも色々見ているんだけど、特にこの『Emily in Paris』は劇中ファッションもすごく魅力的で憧れている。毎エピソード、キラキラした目で見ています。
大好きなドラマだからこそ、面白かったシーンや好きなスタイリング、全てにおいて脳内に鮮明に残っている確率は高いはず。そしてそれらは、少なからず記憶として劣化しながらも、何かを「好き」と判断したり、何かを「魅力的だ」と感じるあなたの感性として培われ、その先の生活におけるあらゆる判断基準へ影響していきます。
これらはもちろん長い時間をかけて、そして無意識のうちに勝手に起こるものなので、普通に生きていれば気づかないものです。
ですが、ティーンエイジャーのあなたが大好きなドラマから受けた様々な情報が実は、冒頭で伝えたようなある一側面的な描かれ方をしていて、偏見に満ちたものだとしたらどうでしょう。
その側面的な視点と誰かからの偏見も、そのままあなたの感性に残っていくのだとしたら…?
こう聞いて、少しゾッとした、と感じた方。いるでしょうか。
いてほしいな、と思っています。
単なるよくあるドラマ、単なる1メディアに過ぎないと思う方も当然いるでしょうし、それは別に間違っていないと思います。でもだからと言って、この1メディアから大きな影響を受けた人はいない、ということも言い切れないはずです。
この(悪い)影響を受けたティーンエイジャーがまずは友人にシェアし、間違いかもしれない価値観が広く普及し、トレンドとなり、経済に影響を与え、企業が間違った情報のまま再生産し、また消費者に返っていく。
負の循環を繰り返すことでより大きな影響力となり、世代を超え歴史となり、社会的ステレオタイプという大きな怪物になるのです。
なので、話を戻すと、
この『Emily in Paris』におけるファッション性だけは確かに評価されているからOKだとするのは、今の時代、ちょっと無責任すぎるのかなとやっぱり思ってしまう。切り分けず、1メディアとしての影響力を製作者側がもっと俯瞰して予想し、考えるべきではないか、と。
もし、ストーリー自体もこんなに批判される内容ではなく、緻密に考えられた素晴らしいダイバーシティに富んだ内容だったとしたら、それに併せて評価されるファッション性は、今評価されているよりもより一層評価され、ファッション業界に憧れを抱く若者たちに本当の意味で良い影響を与えられているかもしれない。
● 私(一日本人として)の結論
実は、冒頭であげたような多様性の観点で色々な批判があることを初めて知った時、私はかなり驚きました。そんなに批判的に評価されるような描かれ方をされていることに、このドラマを鑑賞している時、全く気づきもしなかったのです。
このCHIRUDAというプロジェクトをやっておきながら、少なからずダイバーシティ・インクルージョンに関心を寄せておきながら、何も、全く、気づかなかった。
自分なりにこの原因は、アメリカ制作のドラマに自分が慣れすぎているからだ、という見解に至りました。そして、白人世界のファンタジーに慣れすぎている。
だから、本来気づくべきである差別的な物事への感覚が鈍っているのかもしれない、と。
日本ではあらゆる海外ドラマが見れる環境です。テレビにCSもあるひとは尚更。今となっては、それこそNetflixも普及し、より豊富な種類が見れるようになっていますが、少し昔からのスパンで考えると、テレビでは FOX TV が旬の海外ドラマや昔ながらの長寿ドラマなどを永遠に再放送し、DVDを借りに行ったとしても、そこには厳選された海外ドラマが並んでいる。
これらの多くはアメリカからやってきています。そして、そういったアメリカ系の海外ドラマに1度は何かしらの憧れを抱いたことがある人も多いのではないでしょうか。
特に私は高校時代、海外かぶれにも程があるだろ、というくらいかぶれていました。なぜなら、好きで読んでいたファッション雑誌は海外ドラマの情報で溢れ、そこに登場する人気モデルがおすすめする作品も海外もの。その時流行っていた海外ドラマは片っ端から見尽くすような人間でした。
日本にはないセンス、日本にはない風景、キラキラした世界、日本にはないコミュニケーションの取り方。まるでエミリーと同じ。
我ながら、自分自身が良い事例であるなと思っているのですが、
無意識のうちに、アメリカでのドラマ制作や在り方にすっかり順応し、この『Emily in Paris』も過去に見た海外ドラマと同じように、純粋にワクワクしながら見ていた。ドラマの中で描かれている世界こそが、どこか遠い国の現実世界。アメリカ人ではないけど、あるアメリカ人たちと同じ頭でいたのです。製作者側の一方的な偏見が、気づけば私の感性になっていた。
これが先に述べた “社会的ステレオタイプ” です。
ここまで細かいマイナス事項を言ってしまうと、単純に難しいというか、クリエーションに自由が無くなるではないか、と感じる人も多いかもしれません。想像力が必要とされる反面、創造出来る幅が狭まっているではないか、と。
確かに、SDGsやダイバーシティという言葉が社会に取り上げられるようになってから、気をつけなければならないことが増えているのは事実だと思います。
でも別に、「何も作っちゃいけない」「ある部分に踏み込んではいけない」と言っているわけでもないのです。
じゃあどうすれば良いのかというと、
単純に、作品を制作して発表すると同時にそのストーリーを明確化すれば良いだけのことなんじゃないかな、と私は思っています。
ここでいうストーリーとは作品の内容ではなく、その制作背景。
作品を制作する過程でまずどのような考えがあり、制作代表者以外にどういった立場の人が関わり、どういった人々の中で作り上げられた(どれだけ幅広い視点を用いて完成した)作品なのかが提示されていれば、仮に偏見的な描き方をしている作品だとしても、それがプラスになる場合もある。そして製作者側は、その制作背景をも市場に伝えていく努力をするべきなのではないかと思っています。
例えば、
ここまで永遠述べてきた『Emily in Paris』のストーリー(脚本)や演出方法が、もし、「アメリカにおけるパリの勝手な印象、そして各人種における偏見をあえて露出させることで視聴者に考えさせ、社会的ステレオタイプを見直す機会を与えています」という意図が初めから提示されていたとしたらどうでしょう?おそらく180度見方が変わってくるのではないでしょうか。
(もし実際にこの作品がその意図だったとしたら、、、嬉しい冷や汗しか出ませんが)
情報過多な時代なので、1つの情報が人々に届くまでのスピードや確率は昔に比べて遥かにハードルの高いものとなっています。
でもだからこそ、そこに込められた思いをより正確にしっかり届けていく必要があり、また製作者側がこれから出来る努力なのではないか。
作品自体が人々に影響を与えるべき唯一のツールであり、本当に見てほしいのはその作品以外の何物でもない、自ら主張して作品のイメージを助長するような行為は却ってナンセンスだ、と感じる人もいるかもしれません。
クリエーションに関わってきている人であれば尚更そう感じるのかもしれませんが、今回の『Emily in Paris』で起こった批判の数々が多国からの素直な意見であることを考えると、視聴者または消費者、今の時代を生きる多くの人々も共にダイバーシティの意義を感じ始めていて、製作者側が予想するよりも遥かに多くの割合の人々がその制作背景に関心を寄せている、という結果なのかも。
このコラム全体を通して、特に最後はアメリカナイズドされていることが悪であるような言い方に聞こえてしまうかもしれませんので、念のため言っておきますが、別にアメリカに恩恵を受けた色々を一概に批判しているわけではありません。
歴史的にアメリカからの要素が時代を引っ張ってきたことは事実で、それが無ければ、今のこの時代における私たちの生活は無かったかもしれない。
ティーンエイジャーだった当時の私が海外かぶれでなければ、英語に興味を示すこともなく、ワーホリに挑戦することもなく、日常レベルで問題ない程度のバイリンガルになることもなく、このコラム自体書けていなかったでしょう。
なので、一概に否定しているわけでもなければ、そんな気も無いのですが、
だからと言って、一般的なやり方として何かがこれまでも良しとされているから、今後もそれが安杯なやり方だ、とは言い切れない。
時代によって、状況によって、常にアップデートは必要とされている。
これはもちろん、人種だけの話に限ったことではなく、ジェンダー、福祉、動物や自然への扱い方など、全てにおいて言えること。
これまで世に出てきたあらゆるものの責任が今、問い直されていると考えれば、ある作品にまつわる様々な観点が、視聴者または消費者へ予想よりも大きな影響を及ぼしていると、自ずと考えが至るのではないでしょうか。
と、いうことで、
あーもうこれはやばい、いつも私の文章長いけど、いつも以上に長過ぎてやばい。と思いながら、読んでくださった方、ありがとうございます。
あなた自身がこれまで受けてきたメディアの影響力、
あなた自身にある無意識の偏見について、
そして
これからのメディアやクリエーションの在り方について、
少しでも見つめ直す機会になればと願っております。