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人間のはなし


約2年前のことになりますが、会社の参加希望者で行う「クリエイティブワーク」というものをやっていた期間があり、そこでは毎回(かなりアブストラクトな)テーマを設け、やや宿題的な形で個々に自由に考えては発表し合っていました。


この活動も、個人的には今の自分にとても繋がっていたなと振り返り感じるのですが、その6回目(?)のテーマが

「人間」 でした。


つい先日、ふと、このテーマに対して自分が発表した資料そして内容を急に思い出し、改めて読んでみると非常に面白かったので(自画自賛)、もう1度この場で呈してみたいと思い、過去の掘り返し投稿をいたします。



テーマは「人間」という、ただ1ワードだったのですが、まず私はこれを、

「人間ってなんだろう」
という疑問系に差し替えました。(勝手&自分で自分の首絞めた)





人間ってなんだろう


初めから気付いてはいましたが、
確固たる答えなんぞ、やっぱり出ませんでした。

なので、とりあえず、
私が漠然と感じているこの謎の感覚を、あるアニメーションの設定を借りて置き換え、過去の偉人たちによる哲学に沿って考えてみることにします。


“ Rick and Morty ”
カートゥーン ネットワークのアダルトスイムにて 2013 年 12 月 2 日に放送開始し、批評家から絶賛を受けた 天才科学者のリックが、娘家族の家に引っ越してきて間もない頃から物語は始まる。 リックはパラレルワールド間の移動や超光速航行など驚異的なハイテク技術を有し、 孫のモーティ ( もしくは孫娘のサマー ) を連れて危険な冒険に出ては様々なトラブルを引き起こすか、あるいは巻き込まれ、 時には宇宙一のゲームセンターやリゾート施設で遊興にふける。 基本的にコメディ作品ではある一方、宇宙的ホラーの要素もある。


一部の視聴者は、『Rick and Morty』は哲学的特徴があるメッセージを伝えていると考えている。またこのアニメは実存主義であるという考えもあり、リックの大抵の行動や番組を通じて発見できる特徴から立証されている。
もう 1 つ、このアニメが実存主義を伝えている点は、常に宇宙に比べると地球は重要ではないと気付かされることである。この点はジョークでもあるし、真剣議論される点でもある。
実際「平行世界」の概念が当たり前のように取り入れられているため、「主人公たちの死」がバンバン描かれるのがこのアニメの特徴。世界はいくつもあり、その数だけ「リック」や「モーティ」や「その家族」がいるので、劇中でリックが並行世界の別のリックを殺したり、というシーンが当たり前のように取り入れられ、だからこそ「自分」とはなんも特別なものではなく、無意味でアリのようなものであると主張している。


Season 1・Episode 6 ではモーティとリックが誤って地球の人間を怪物みたいな生き物に進化させてしまう。
地球で生きれなくなってしまったリックとモーティは、異次元の「自分」が存在するパラレルワールドに行く。そのパラレルワールドでは、科学実験のミスでリックとモーティは事故で亡くなっていた。
リックとモーティはパラレルワールドの自分たちが事故で亡くなった直後にそこへ行き、事故で亡くなった異次元の自分たちの死体を庭に埋め、事故がなかったことにする。そしてリックとモーティは、そのパラレルワールドに永住することにするのだ。
モーティは彼とリックがしようとしている事を受け入れられず、リックに「こんな事できない!」と泣きつく。ここでのやりとりがこんな感じである。

モーティ:「リック、僕たちが置いて去った現実はどうなるの?」
リック:「ヒットラーが癌の完全治療法を見出した現実もあるんだぞ。深く考えるな。」

異次元は無限にあり、それと同時に現実というものは複数存在していて、だからこそ自分の現実とは、無限の現実の中の単なるカケラなのである。
自分の「現実」は自分にだけ意味があるもので、それ以外では無意味であると強調している。


さらには、一部の視聴者からモーティはある程度、実存主義すぎると論され、特に Season 1・Episode 8『ケーブルテレビのアップグレード』での姉サマーに対する屁理屈に現れている。

“冒険の中で、じーちゃんと僕は世界を破壊したことがあったろ?その事実から逃げ出して、ここに来たんだ。ここでは世界は破壊されてなかったし、僕らは死んでいた。だからここに来て、死んだ自分たちを埋めて、入れ替わって暮らしているだけなんだよ。僕は自分の腐った死体から20メートルしか離れていないところで、毎朝ごはんを食べてる。 [...]
みんな産まれようと思って、産まれてきたワケじゃないでしょう?それにいつかみんな死ぬんだよ。テレビ見ようよ。”



で、度々登場してきた【実存主義】という言葉。

【実存主義】とは簡単にまとめると、
”普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想” です。

..... はあ。(汗)


もっとわかりやすくいうと「人間は本質のまえに存在する」ということ(らしい)。

世の中のもの、例えばコップは「液体を飲むために」存在します。
「そのものがある理由や目的」みたいなものを「本質」と捉えればと分かりやすいかもしれません。

その「本質(そのものがある理由や目的)」がなく人間って存在するよねってことが【実存主義】の基本的な考え方です。




この【実存主義】を唱えた代表的哲学者のひとりに サルトル というひとがいます。


ー Canyon News

ちなみに【実存主義】が発展するまでに哲学者の中で流行っていたのが「真理とは何か?」を求めることだったらしいのですが、サルトル は、

「真理が何かを定義することは無理だ。
でも、だからこそ私たちは、真理を追い求めるため必死こいて人生を歩んでいくんだ」

といった思想を打ち出し、当時の哲学に大きな影響を与えたのです。




しかし、
これに対しても意義を唱えたのが【構造主義】哲学の代表者、 レヴィ=ストロース でした。


ー ThoughtCo.

レヴィ=ストロース は元々 サルトル と仲のいい哲学者でしたが、様々な意見の食い違いによりサルトルと【実存主義】を批判しました。

「そもそも真理なんてない、追い求める必要性がない」
というのが レヴィ=ストロース の考えでした。

前述した サルトル の思想には、実はカッコ書きがあったのです。

「真理が何かを定義することは無理だ。
でも、だからこそ私たちは、真理を追い求めるため必死こいて人生を歩んでいくんだ。(その行動が正しいかどうかは歴史を見ればわかる)」



この考えに対して レヴィ=ストロース は、

君のいう歴史って西洋だけの歴史をいっているんだろ?
と思ったわけです。

そんな風に レヴィ=ストロース が感じたのは、彼が哲学者である前に社会人類学者だったからです。
彼は自身の研究のために、様々な国の先住民と生活をし、その中で、西洋哲学の歴史こそが先進であり、それ以外は「未開の地」である という考え方に疑問を抱いたのです。

「西洋が未開だと考えていている地域でも、先住民はそれぞれの文明を発達させており、そもそも比べることこそおかしい。」
「また真理を発見しても、それは西洋哲学にとっての真理だから、そもそもそれは真理って言えるの?

というふうに考えたのです。




あれ、これなんだか、、、
『Rick and Morty』 の設定と似てませんか?


以下、レヴィ=ストロース の内容とリックの設定を置き換えてみます。



ー tvtropes

彼(*リック)は自身の研究のために、様々な国(*宇宙・パラレルワールド)の先住民と生活をし、その中で、西洋(*人間)哲学の歴史こそが先進であり、それ以外は「未開の地」である という考え方に疑問を抱いたのです。
「西洋(*人間)が未開だと考えていている地域でも、先住民(*宇宙人?)はそれぞれの文明を発達させており、そもそも比べることこそおかしい。」
「また真理を発見しても、それは西洋(*人間)哲学にとっての真理だから、そもそもそれは真理って言えるの?
というふうに考えたのです。



レヴィ=ストロース が唱えたこの【構造主義】とは、
この社会(人間界)には見えない構造があり、その構造が社会や文化を決定している。」という思想です。

人間には想像がつかない範囲でも事は起きており、それによって人間は生かされている。
と言い換えることもできます(よね?)



・・・



一方で(そして哲学史的には前後しちゃいますが)、【ニヒリズム(虚無主義)】という有名な思想があります。

これを提唱した代表的哲学者が ニーチェ で、
物事の意義や目的といったものは存在しない、自分自身の存在を含めて全てが無価値だ
とする考え方や態度のことです。



"価値" について噛み砕いて考えてみると、
社会の中では、宗教的価値観や社会的ステータスなど、様々な「価値」が置かれていますが、すごく客観視したとすれば「それが何?」と一蹴することができるはずです。

ある人は価値があると信じているものが、他の人から見れば価値がない、ということは、そうした価値は主観による基準が元で "創作" されているにすぎない、ということです。

そうして世の中の全て、自分の存在すらも客観的に俯瞰してみれば、「価値」というものはそもそも存在しないというか、絶対的な基準としての価値はどこにも見い出せないはずです。



この【ニヒリズム】をさらに分類すると5種類に分けることが出来るとされ、なかには、

■ 「宇宙論的ニヒリズム」
宇宙に意味は無く、人間に宇宙の本質を掴む事は出来ない。人間が見いだした宇宙の価値と無関係に宇宙は存在するという主張。

■ 「実存的ニヒリズム」
人間存在は無意味であり不条理である。例え何かの意味を見付けたとしても、最終的には死が待っている、という考え方。

といった種類の【ニヒリズム】が存在しており、名称からも分かるように【構造主義】【実存主義】に近い考え方が含まれています。



ニーチェ は「全てが無価値である」と述べています。

つまり、すべてのモノや現象に価値が云々と議論するのは、それ自体が本来はナンセンスな話であり、そもそも議論自体が成り立ち得ないはずだ、と言うのです。

「ただ、在る」という何の属性も持っていない対象がそこに現象として起こっている、それに属性をつけた時点で価値の議論が始まり、無価値という提唱に矛盾してしまう、と。


この【ニヒリズム】が【構造主義】【実存主義】をも含んだより大きな思想と前述で記載したとはいえ、

  • 人間が見出した宇宙の概念はもはや通用せず、想像つかない範疇で事は起きている

  • 人間の存在は無意味であり、何か目的を見出しても最後は死んでしまう

こういった考え方自体も、もはやナンセンスなのかもしれません。



・・・



「ニヒリズム」の先にあるもの


客観的で絶対的な基準としての価値が無いことに気付いた後、「それならば」と自分で定めた価値に基準をおいて、自分で決めた価値観、感情を指針とする状態に人は陥りやすくなります。(実際にそのような状態を ニーチェ はさらにカテゴライズしています)

でも、それではまるで "ルサンチマン"(*注釈) 的になってしまう。

(*注釈)
一般的に、弱者による強者に対する「怨恨(えんこん)」
いわば人間の「恨み」や「僻み」という感情、人間の「欲」のようなもの



ポジティブでもなくネガティブでもなく、一瞬一瞬をただ、ありのままに生きること

まさに、 “Let it go.” です。
これが本来の【ニヒリズム】="虚無" の到達点であると、ニーチェ は説こうとしていました。




ところがどっこい、

この【ニヒリズム】を提唱した ニーチェ 本人が、
【ニヒリズム】に飲まれた(ある意味やる気を失くした)人を「末人」と呼び、厳しく批判していました。何をしても意味がないのかもと考えた ニーチェ 本人が、それでは納得がいかなかったのです。

【ニヒリズム】を提唱して以降 ニーチェ は、つぎに 「ルサンチマン」 や【ニヒリズム】を脱却するものとして、
『永劫回帰(永遠回帰)』
という新しい思想を考え始め、何としてでも “生きる” ということを肯定したかった、とのこと。

(これ以上続けるとまた長くなるのでやめます)




「何も考えずに、ありのままに生きろ」
というような思想を大々的に提唱しておきながら、その張本人がそれ以上の意味や価値を求めて探究しつづけた

残念ながら ニーチェ はもういらっしゃらないので、彼が考えていたことは100%は分かりません。(これまで記述した内容も、後の人々がこうだったのではないかと考えての発信なので100%とは言えない)


ですが、
ニーチェ の考えることを諦めない姿勢、言い換えれば、自分の欲求や探究心に従順に従う様こそが、まさに「人間」そのものであるのではないでしょうか。


ニーチェ 以外の彼らもそうです。

💬 サルトル
「真理を追い求めるため必死に人生を歩むのだ」

💬 レヴィ=ストロース
「見えない構造が我々社会や文化を決定づけている」

💬 リック
「人間の想像のつかないところで事は起き、それによって人間は生かされている」

💬 モーティ
「この世界は偶然に出来たものかもしれない、だったら今を精一杯生きよう」



・・・



また、
あの 宮崎駿 氏も『風の帰る場所 ― ナウシカから千尋までの軌跡』という本の中で、"突き抜けたニヒリズム" というものについて語ります。



【ニヒリズム】思想は極端に言うと「お前の空なる人生」とアッサリ断言されるようなもの。
人生の意義や目的を求めて苦しんでいたのがバカらしくなってしまう流れを示唆しながらも、その上で、食べて飲んで楽しんでやれるだけのことをやれと諭している思想ではないか。


これが、駿流 "突き抜けたニヒリズム"。

さらに、その "突き抜けたニヒリズム" を動機づけるものは何か、という問いに対してこのように答えます。


ええ、難しいですね、ものすごく難しいと思います。でも安直なイデオロギーは手に入れたくないですね。だからやっぱり、どうもねぇ、ある種の歴史観で見ちゃうと「どうしてこの時代に人が生きていたんだろう、生きていられたんだろう」って、理解できなくなる瞬間があるんですよ。どうも人が生きるっていうのは、そういうのとはなんか根源的にちょっと違うものなんだなっていう。「人がなぜ生きていくのか」とかさ。それをこのごろ思いますね。子供をいっぱい作れっていうようになっちゃいましたから(笑)。とにかくいっぱい作っていっぱい苦しんでね。アトピーに悩み、環境問題に悩み、経済に悩みながら生きていることが、どうやら生きてくということらしいと。そうやって当面、あと10年ぐらい生きていこうっていう風に僕は決めたんです(笑)

だから人っていうのは愚かなものなんだよっていうね。実は僕は母親とその問題をめぐって、ずーっと思春期の頃に論争してたんです。「人間っていうのは仕方がないものなんだ」っていうのがオフクロの持論で、僕は「そんなことはない」って言い張ってたんですけどね。どうもこのままいくと、オフクロに無条件降伏になるから嫌だなと思って(笑)




はいっ、どうでしょう。
理解できましたか?…出来なくないですか?(笑)

結果的に堂々巡りで、何の解決にも至っていないじゃないか!というような心情になるかと思うのですが、もはやそれも仕方のないことだ、というのが ニーチェ が説きたかった【ニヒリズム】なのかもしれません。
結果的に、よく分からないものなんでしょう。




なぜ今、この話を掘り起こしているかというと、個人的に面白いな〜と改めて感じたことはさておき、
今、私が尽力している案件(一括して社会問題的フォーカスとしますが)、実は時々、なぜ私がやっているのかが分からなくなる時があるんです。
関係者に「なんで私がこれをやらなきゃいけないのか」と問いかけたことも正直あります。

これは別に、私がなぜそれを始めようと思ったかの動機を単純に忘れたという話ではなく、この状況に至ったのがなぜ私だったのか、という話です。

だって、別に私がやらなくても、世界は回るから。



これを問いかけた時、そもそもの性格がそうゆう感じだから、とか、責任感が人よりあるから、それを面白いと思えているから、なぜかやりがいを感じられているから、という答えは容易に浮かぶし、実際に他者からもそう言われる。
でもそんなひと、他にいくらでもいるわけです。なんなら、私よりレベルが高くて、もっとクオリティ高めに遂行できるひとの方がきっと多いくらいだと思っています。

私は別に、ずっと研究していたわけでもないし、専門家でも、評論家でも、コンサル担当でもない。たまたま人より少し多くの興味があって、色々と考えをまとめてみた結果、ある方向性が見えただけのこと。
そして、やりがいとか、そういった得意性、優位性について十分に満足し、自信満々で、多大なやる気に満ち溢れているわけでもない。(もちろん、少なからずはありますが)

あとは、今、地球レベルで問題となっているものの根本的な原因はすべて人間であることはやっぱり簡単に考えが行き着いてしまう話なので、正直、人類がいなくなれば全部問題解決するじゃん?と無責任に思ってしまうこともしばしば。



  • 社会問題解決への動きを、誰かがやっぱりやらなくてはいけない

  • どんなアプローチでも良い、みんな同じ目標に向かっている

  • 自分に出来ることを、ただひたすら挑戦する(べき)

こういった漠然とした必然性の理由に勇気づけられる反面、
【構造主義】的にいえば、

  • 今必死に頑張っていると思ってることでさえも、ミジンコレベルの小さなこと

  • 人間世界内で必死に頑張っているだけで、俯瞰でみたらそれほど革新的な動きには繋がらない

  • 私たちが知らないもっと大きな構造や圧力が存在していて、ただ踊らされているだけ

みたいな、
本当かは分からないけど、なんとなく信憑性がありそうな話を前に尻込みし、やっても意味が無いんじゃないかと諦めの気も出てくる。



どちらに関しても、正解の答えや、未来は誰にも分からない。
どちらに関しても、可能性の話でしかない。
希望と諦めの二極の狭間でずっと、右往左往している。

なぜ、私は挑戦しなければいけないんだろう。
なぜ、私たちは何かに挑戦し、そして生きなければいけないんだろう。
なぜ、私たちは何かを後世に繋いでいかなければいけないんだろう。

(正直、辞めようと思えばいつだって辞められる。)

やる気とか、勇気とか、自信とか、一体どっから出てくるんだろう。
と、不思議になり、だんだんドツボにはまっていく…



そこで結局、個人的に導き出した答えは「分からない」でした。
分からないので、そもそも答えとは言えないのだろうし、そもそも本当の答えなんてあるのか?でさえ、分かっていないわけです。

ただ、ニュアンスレベルですが、
おそらく「分からない」ことに対して謎に立ち向かおうとするのが人間で、「分からない」ことに対してあーだこーだ考えてはややこしくし、「分からない」ことをさらに分からなくしていくのが人間なんだろうな、と思いました。



だからたぶん、何か目の前に現れた事象に毎回あーだこーだ言いながら、考えながら、ただ、欲はそっちのけにしておいて。ただ従順に進むしかないのだろうな、と。
というか、結局、それ以外何も出来ないんだろうな、と。

こう言ってしまうとかなり陳腐ですし、それこそ主観による価値定義になりますが、それが俗に言う運命ということなのかもしれません。




こんなに文字数を使っておいて、何も「分からない」話になり、こうゆうのが好きじゃない人も大勢いるとは思いますが。
たぶん、「分からない」に囲まれているけどなぜか居心地の良い環境、それでOKと思える心情が Let it go. っていう感覚なんじゃないでしょうか。




カナダにいたとき、英会話レベルがまだ未熟で何でも回答を「I don't know.」とばかり言っていて、ネイティブに(愛を持って)馬鹿にされていたこともあり、なんで I don't know じゃだめなんだ、本当に I don't know なのに、と思いながらカッケー!と思って保存したこちらの画像が、今になって力を発揮するとは!

ジャケットに描いちゃうなんて。なんと潔い。







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