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インプット

クリエイティブにおいてセンスは必要不可欠だ。そのセンスについて前回はダラダラと指を運んだ。今回はそのセンスの構築についてダラダラとハキハキ書いてみる。


日々膨大な量のインプットをしている人を見かける。でもアウトプットが正直イマイチ。それは何故か。インプットの仕方が悪いのもそうだけど、自身の感度と咀嚼力と器、この3つが大いに関わってくると思う。

人の成長する曲線はさまざまだ。例えば同じ本を読んでいても直近の境遇によっては全く身に入らない時もある。それは今自分のいるステージがそもそも違ったり、もしくはまったく必要としていないものだからだ。

感度の話をすると、
例えば、師匠と呼ばれるような方から教えを乞う場合、初めてその師匠の話をたまたま機会があって聞く人と、その師匠を実際に師匠として崇めているお弟子さんとではまるで吸収力が違う。それはその師匠のバックボーンや技術等に感銘を受け理解し、憧れという言わば宗教に近いとも言えるような状況下にいるからだ。師匠としては何気ない一言でも、そのお弟子さんにとっては金言になり得る。不思議な錬金術のように予想だにしない解釈もし、自身のセンスと混ぜながら糧として蓄えていく。

少し極端な例えだったが、感度の違いはこんな感じだろう。感度とは何も全ての事象に向けたアンテナではない。アンテナにもチャンネルがある。
この場合お弟子さんは1チャンネル、「お師匠さん番組」しか受信しないようなくらいに真っ直ぐで、閉鎖的なセンサーになっているのかもしれない。他の人の話には聞く耳をまるで持たないように。


続いて咀嚼力。
勉強等で得た情報をどれだけ細かく咀嚼出来ているか。咀嚼が満足いかないような荒いまま飲み込むと、そのまま吸収されずに排泄されてしまう可能性も考えうる。自分の手で口に運び、自分の歯でしっかりと咀嚼していく。この作業がインプットする上ではとても大事なフェーズになる。喉元を通るときに異物感があるようでは咀嚼が足りないだろう。それと同じように、しっかりとそのインプットについて考え込まないと知識や技術として吸収されない。

そして器。
自身のセンスの器は一体どんな形をしているのだろうか。口が狭いツボ型か、大家族の食卓に並ぶような大皿か、はたまたザルなのか。
それぞれ入るものが限られている。ツボには唐揚げやお蕎麦はそぐわないし、大皿にはお蕎麦はまだ入るが花は似合わない。ザルにはお花を一時的に置くことは出来るが器としては使えないし、唐揚げも油を切るためにしか使えないかもしれない。少しふざけたがこのように器にはそれぞれ何を入れるべきなのかが少なからず目的があるように思える。

ここでもう一度自身の器の形を見つめ直して欲しい。何を入れるべきなのか、または何を入れたい器なのか、そしていま現在、器に入っているものははたしてどうなのか。
上記は器を具象的に表した。次は少し抽象的に。
それぞれがもっている器の容量は等しいと仮定する。しかし矩形のカタチはそれぞれ個性があり、丸い人もいれば四角い人もいる。丸い器に四角いものを入れるとデッドスペースが出来る。逆もまた然り。
この入れるものは素材そのものを直接入れてフィットすれば理想だが、ときには自分で形を調整(咀嚼)し自身の器に合ったカタチにする必要がある。もしくはその器がゴム製の場合はどんなものを入れても馴染むのかもしれない。
ただ器がイビツだとあまり綺麗なものではないし、独創性が高すぎて共感が生まれないかもしれないし逆に憧れの対象になり得るかもしれない。難しい。

いつにも増してなかなかの支離滅裂なエッセイになってしまった。

結び。

インプットの意味を、意義をもう一度再確認して欲しい。何のためのインプットなのか。そしてアウトプットを意識してインプットできているか。
100をインプットしたからといって100が出せるわけでもないし、かと思えば人によっては1000をアウトプット出来る人もいる。こればかりはセンス!という一言で片付けてしまいたいくらいだ。
インプットのことについてはぼくが思う1/10くらいしか書けていないのでまたダラダラと続きを書いていこう。
昨日の自分に向けて、明日のあなたに向けて。

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