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日曜劇場オールドルーキー第1話からアスリートは何を学ぶべきか ~アスリートのセカンドキャリアについて考える~

あまりドラマを観る習慣がないため観るかどうか迷っていましたが、これまでに例がないほど自分の仕事に接近したドラマですので、それを観ることも仕事のうちかと思い録画ボタンを押しました。
TBSの日曜劇場「オールドルーキー」は、所属クラブの解散を機に現役を引退を余儀なくされた元サッカー日本代表選手のセカンドキャリアをめぐる話です。

オールドルーキーは事実か虚構か

第1話はこのドラマの主人公であるサッカー選手新町亮太郎(37)が全盛期に日本代表で挙げたゴールシーンの映像と、現所属クラブからシーズン途中で解散を告げられるところからはじまります。移籍先を探す新町でしたが、37歳という年齢もあり、結果として、クラブの解散は新町のアスリート人生に突然の終止符を打ちました。
新町はサッカーへの未練を残しつつ、それでも生活のために次の仕事、セカンドキャリアに踏み出さなければならない新町の苦悩と社会の厳しさが描かれて行きます。そこに、捨てる神あれば拾う神あり、スポーツマネジメント会社に拾われた新町は、最初の仕事で失敗し、そして成功し、次のステップへ進むことが約束され、第1話の幕が閉じます。第2話以降もこれがこのドラマの基本的な構造となるのだろうと思います。

第1話は胸が痛みました。
ドラマの導入部分と言うこともあり、話の前半では、現役アスリートへのリスペクトとネガティブイメージが極めて象徴的に対比されていたからです。
それは、日本代表での全盛期に日本中が熱狂した忘れがたい興奮とセカンドキャリアに踏み出したばかりで社会からの冷徹な視線の対比であり、ブンデスリーガで活躍する選手とJ3所属で日本代表返り咲きを信じてやまない37歳の振る舞いの対比でした。ドラマであるがゆえに極端に表現されているものの、私自身がJクラブに携わった経験をもとに振り返ってみても、程度の差はあれ同じようなことを感じることが多々あり、一概に大げさとも言い切れないところがあるように感じました。

たとえば、たまたま観に行った試合やイベントのほんの少しのきっかけでサッカーの、あるいはクラブの虜になった子どもたちを見てきました。たった一つの勝利がもたらす興奮が忘れられずにクラブの応援が人生の中心になった大人たちを見てきました。そんな選手たちのプレーや行動、言葉の持つ力に私は敬意を払います。反対に、スタッフに対して高圧的に文句を言うばかりの選手もいれば、会うたびに挨拶代わりに肩を殴ってくる選手、個人の利益のためにクラブへの背任行為をする選手もいました。その中には元日本代表もいました。そんな彼らを私は心の底から軽蔑しています。
若くして引退し、自分なりの道を模索して頑張っている姿を頼もしく見せてもらうこともあれば、悪い噂が流れてくるのを聞かなければならないこともありました。長く現役を続け、引退後に着実に次のステップに進む準備をしている選手もいれば、サッカーしかしてこなかったことで苦労した話も耳にします。もしかするとまだ耳にするだけましなのかもしれません。

このドラマはフィクションです。ツッコミどころはそこかしこにあります。けれどそのツッコミどころに目をつぶったとしたら、この虚構とさして変わらない現実がすぐそこにあることもまた事実です。華やかな舞台に注目が集まる煌びやかなスポーツの世界には、いやというほど現実的で生々しい苦悩が隣接しているのです。

なぜ多くのアスリートがセカンドキャリアで苦労するのか

私はJリーグに昇格したばかりのクラブにフロントスタッフとして5年ほど勤めた経験があります。わずか5年間ではありましたが、クラブの骨格ができる時期でもあり、また大きく揺れ動いた時期でもあったため、実に生々しい現場を垣間見ることができました。様々な形でアスリートの様子を見る機会にも恵まれました。
元日本代表をはじめとする、かつて一線で活躍したベテラン選手から、JFLや地域リーグから加入した今が旬の選手、大学や高校を卒業したばかりのルーキーまで、様々な背景を背負った選手たちが集まっていました。シーズンによっては大幅な選手の入れ替えもあり、そのクラブでプロ生活を始める選手、自らの意思で移籍する選手がいる一方で、契約満了を告げられ移籍先を探さざるを得ない選手やそこで現役を終える選手もいました。こうした過酷な環境もプロだからあたりまえだ、とは簡単に言えないくらいには人の人生の転機が間近にあり、そのセカンドキャリアにも多少関心を持っていました。そして、多くのアスリートがセカンドキャリアを踏み出すまで、あるいは踏み出してから苦労している様子を見聞きしました。

彼らが苦労する大きな要因の一つは、アスリートとして求められる競技における技能や知識と、他の職業に求められる技能や知識がかけ離れていることが多い、つまりスポーツの技術力が高くても、その技術力を直接活かすことができる仕事が極めて限定的であるということが考えられます。これはわりと想像しやすいのではないでしょうか。ドラマの中ではパソコンを指一本で打つ姿や営業がまったくうまくいかない姿でそれが表現されていたと思います。

もう一つ要因を挙げるとすれば、私はアスリートのおかれた特殊な環境という、構造的な問題にあるのではないかと感じています。
Jクラブは、まだJリーグに昇格したばかりに過ぎないクラブであっても一定数熱心なサポーターがついています。そしてそれは徐々に膨らみ、熱量も増していきます。サポーターは本当に熱心に応援します。試合はもちろんのこと、練習でも地域のイベントでも、とにかく声援を送り続けます。ついこの前まで学生だった若者も、プロになったその瞬間からそれまではその存在すら知らなかった多くの人たちから応援され、憧れられ、感謝されるのです。たとえ1試合も出場できていなかったとしてもです。チームの中心選手だったり、サポーターがより多くなったり、より熱心だったり、カテゴリーが上だったり、日本代表だったり、そういった状況にも多分に影響されながら、どんな選手であっても少なからず応援してくれる人が増えていきます。そして、それが自尊心の肥大化につながっていくのではないかと感じます。この肥大化した自尊心が、俗な言い方をすれば、自分は凄いんだ、自分は特別なんだという勘違いを生んでいくのです。

選手が忘れてはいけないのは、その応援がクラブあるいはリーグ(個人競技で言えば大会と言い換えてもいいかもしれません)というプラットフォームがあるからこその名声に過ぎないという点です。どこのクラブにも所属せず、なんのリーグにも参加していない、サッカーがただひたすらにうまいだけの人がいたとして、その人を一体誰が応援するのかを想像するとよくわかると思います。それでも応援してくれる人が本当に個人としてのあなたを応援してくれている人であって、そうでない人は本人が自覚するしないは別にして、リーグやクラブというプラットフォームがあったからこそ応援してくれるようになったのです。そう考えると実際の価値以上に膨れ上がっている現実が見えてくるのではないかと思います。

先述した通り、プロスポーツの世界は非常に過酷です。まずその世界にたどり着いた時点で、ひとつの大きな目標を達成しているわけですから、十分に自信を持っていいことだと思います。さらにそこからその厳しい世界で生き残っていく、ステップアップしていくことができるのは一握りの限られた人で、それは十分に誇っていいことだと思います。これに対して、我々一般人は大いに敬意を払うでしょう。しかし、リーグやクラブというレバレッジが効いてしまう機能を通してその敬意が伝わることになります。そういう構造になっているのです。そして、そのフィルターを取ったとき、すなわち引退して競技から離れたときに一気につけが回ってきてしまうことが往々にしてあるのです。

劇中にもあったように、サッカーを取ったら何もできない、何も残らないという悲惨な状況がそこかしこで起きています。サッカー選手があくまでサッカー選手としてクラブに所属し、リーグで戦っているという前提だからこその称賛であり、その場から離れた瞬間に、ほとんどの選手はその対象からすっかり外れて忘れ去られていくのです。プロとして現役であるうちは、その構造ゆえにサッカーだけしていても十分に成り立ってしまうため、本人はそのことに気がつきにくく、そしてまた苦悩する元アスリートが生まれるのだろうと思います。

ただし、ここで私たちが十分に気をつけておかなければならないのは、わかりやすく論じようとして、アスリートをアスリートとしてひとくくりにしてしまう習性です。そして得てして物事の本質を見るときには、属性によってひとくくりにするのは軽率だということです。どれだけ一般社会からのアスリートの見え方が極端だったとしても、結局はアスリートという属性ではなく個人に帰するという、あくまでフラットな目線をなくしてはいけません。
先ほど例に出した、スタッフに対して高圧的に文句を言うばかりの選手と、試合や練習だけでなくイベントや行事にも嫌な顔一つせずに積極的に参加する選手を同じくくりにしてはいけません。挨拶代わりに人を殴るような元日本代表と、試合直前にホーム・アウェイ、選手・スタッフの別なく、笑顔でよろしく、ありがとうと言いながら握手を求めてくる元日本代表とを同じくくりにしてはいけません。尊敬すべきも軽蔑すべきも、あくまで個人の言動によるものでしかないのです。

アスリートは何を学び、何を戒めるべきか

それでは、ひとくくりにしたアスリートとしてではなく、個人としてのアスリートは、何を学び、何を戒めるべきなのでしょうか。

それは、競技以外の技能や知識を身に付けることです。自分はサッカーしかしてこなかったからサッカーしかない、そう思っているのは本人だけで、これまでサッカーしかしてこなかったのなら、これからサッカー以外を学んでいけばいいのです。勉強はいつから取り組んでも遅すぎるということはありません
この点、Jリーグは比較的早くからセカンドキャリアに向けた取り組みをリーグとして実施しています。2002年にキャリアサポートセンターが設立されました。1993年の開幕から10年も経たないうちに、選手のセカンドキャリアの支援機能をリーグが持つというのは、かなり先進性の高いことだったと思います。事実、1936年に始まったプロ野球は、Jリーグのキャリアサポートセンターを参考に、ようやくセカンドキャリアに対する取り組みを始めることになります。
さらに、クラブ単位で言うならば、サンフレッチェ広島はその前身のマツダ時代から、今西和男氏のもとでセカンドキャリアに向けた教育の機会が提供され続けてきました。プロ化する前、実業団として活動していたころから取り組んでいたのは、今西氏が常々口にしていた「一流のサッカー選手である前に一流の社会人であれ」という理念からくるものでしょう。今から実に30年以上も前から取り組んでいたというのは驚くべきことです。おそらく当時はまだセカンドキャリアという言葉すらなかった時代だと思います。
この話を聞いて今西氏に直接質問したのですが、選手に教育の機会を提供してもそれを活かそうとする選手ばかりではないのではないか、そうでない選手にはどうしていたのか、と聞くと、それは仕方がない、と答えてくれました。そして、それでも機会は提供し続けなければならない、と続けました。
これは示唆に富む返答だと思いました。結局のところその選手本人の意識にかかっているのです。それをまわりが変えようとしても、よほどのことがない限り変えられません。しかし、だからといって完全にあきらめるのではなく、機会を提供し続けることが肝要なのです。もしかしたら何かのきっかけで意識が向くかもしれない、その時にすぐそばに機会があること、そういう環境をつくることが教育の第一歩なのかもしれません。
このように、少し意識を向ければ、競技以外の技能や知識を学ぶ場が案外すぐ近くにあるはずです。もちろん誰かが提供した場ではなくても、自分の力で一から学んだり、教えてくれる人を自分で見つけたりしても構いません。むしろその方がより多くのことを学べるはずです。でも、そのハードルが高ければまずは与えられている場をうまく使ってみることも大切だと思います。それだけでもずいぶんと違うはずです。

もう一点は、スポーツを軸に物事を考えていない人たちとの関わりを増やすことです。
多くのアスリートやスポーツ関係者が気がついていないのか、気がつかないようにしているのかわかりませんが、世間一般ではスポーツに興味関心がない人が大半です。それなのに、アスリートの多くがスポーツの価値を非常に高く見積もります。それは先に示したようなクラブやリーグが持つ機能によるところも大きいと思いますし、スポーツしかしてきていないというアスリートがそれを認めたくないという深層心理から来るのかもしれません。いずれにしても、まずはその事実を受け止めなければなりません。
ただ、こう言うとスポーツを否定されている、さらにはスポーツを拠り所としてきた自分を否定されていると感じるアスリートも多いと思います。しかし、これは否定ではありません。スポーツには、アスリートには、確かに大きな価値はあるのです。そもそもレバレッジが効いてしまうということがすでに価値の大きさを表しています。ただ、それをスポーツ側の人間が声高に叫んでも仕方がないのです。
これはおそらく頭で考えていても理解するのが難しい問題です。最も効果的な方法が先に挙げたスポーツを軸に物事を考えていない人たちとの関わりを増やすことだと思います。

これもJリーグは他の競技に先んじて取り組んでいると言えるでしょう。
地域貢献、社会貢献、今では社会連携といった具合に言葉やニュアンスが変容してきていますが、地域社会との接点を持つことを重要視しています。
2019年にはJリーグは「シャレン!」と銘打ち、Jクラブと地域の複数団体とが協働して行う事業に対して表彰するという取り組みが行われています。これはクラブが地域のハブとして機能することで地域社会に対して新たな価値を生み出したり、社会課題の解決にあたろうというものです。スポーツ分野でのスポーツの価値を高めるのではなく、スポーツとはまったく別の分野で使うことで、社会に対して好影響を与えようとするものです。そうすることで、逆説的ですが、さらにスポーツ自体の価値も高まります
そしてこの取り組みも、Jリーグが発信する10年以上も前から今西氏が大切にしてきた理念でもあります。特にFC岐阜ではそういった取り組みを積極的に推進していました。当時、Jリーグは今西氏のこの考え方が理解できず、非常に否定的に捉えていましたが、そのことに触れるのはまた別の機会に譲るとして、今西氏はクラブの価値をスポーツの中に求めるのではなく、地域社会の課題にぶつけることで地域社会での価値を高めることによって、クラブそのものの価値も高めていったのです。
これと同じことがアスリートにもあてはまります。アスリートがその価値をスポーツの中に見出そうとすると、まず競技力が問われます。そしてそれは先述の通り、他ではさほど活かせる場がありません。アスリートの多くは引退とともにスポーツの世界から離れることになります。あるいはスポーツに対して選手とは別の関わり方を持つことになります。その時に求められるのは選手として求められていた能力とは全く異なります。それを養うには、まずスポーツ以外の社会で何が求められているのかを知ることから始まります。そのためには最適なのが、スポーツ以外の環境に身を置いてみることです。
まったくスポーツも所属クラブも関係ない、自分が何者なのか誰も知らないようなコミュニティに入るのもいいでしょう。そこではアスリートではなく正真正銘個人として見られることになるので、まったく異なる価値観が感じられることと思います。スポーツ偏重の価値観では違和感を覚えることも、地域社会ではあたりまえかもしれません。その違いを感じることがとても重要です。
そこまで極端ではなくても、例えば、サポーターが集まる試合会場でのサイン会と、地域の人たちが雑多に集まる地域のお祭りでのサイン会では感じることが違うと思います。サッカー少年たちに行うサッカー教室と、サッカーに興味のない高齢者向けの健康教室とでは、参加者の心を捕まえるポイントが違うと思います。イベントの際に、主催者は、参加者は、運営スタッフは、クラブのスタッフは、いったい何を意図して、何を期待しているのか聞いてみるのもいいかもしれません。接点のあるスポンサーの社長や社員は、自治体の首長や職員は、日ごろどういった考えでどのような仕事をしているのか、クラブや選手には何を期待しているのか聞いてみるのもいいかもしれません。そういった些細なことの積み重ねでも構わないと思いますが、少しでも違う価値観に触れておくことがとても大切です。そこで求められていること、期待されていることに対して何か応えることができるのであれば、アスリートとしてだけではなく個人としての価値をも高め、それが引退後のセカンドキャリアにも使える技能や知識につながるはずです。

アスリートがセカンドキャリアに進むにあたって必要な姿勢

ここまでセカンドキャリアに苦労する原因と学ぶべきことまとめてきましたが、ここではアスリートがセカンドキャリアに進むにあたって特に必要だと感じる姿勢を挙げておきたいと思います。それは、奇しくもオールドルーキーの主人公新町がそれを示していたように思います。

ひとつは、日々を誠実に生きることです。
新町は現役の最後の最後までサッカーに対しても人に対しても純粋でありました。37歳でJ3所属、それでもなお純粋に自分を信じ、J1に復帰できる、日本代表に選ばれる信じていました。それはチームメイトから呆れられていることも気がつかないほどです。それだけ真っ当にサッカーに取り組んできたのでしょう。そして、クラブ解散という不測の事態に対しても、経営者やフロントなど、人のせいにすることはありませんでした。
誠実さはその人の信用、信頼につながります。多くの仕事は何かと何かを交換することで成り立っています。一方で、スポーツ、特に記録ではなく勝敗を競うスポーツでは、ときに駆け引き、騙し合いが成果を上げるのに有効な手段となります。これは誠実さとは逆方向のベクトルです。競技の上では必要な価値観ですが、多くの仕事では相手を騙して成果を上げることをよしとしていません。その世界に浸かれば浸かるほど習慣化してしまいますので、競技の上での価値観と社会での価値観を意図的に切り分け、誠実にことにあたる必要があります。そうして信用、信頼を積み上げていかなければなりません。

もうひとつは、自分のできなさを謙虚に認めることです。
クラブの解散後、どこのクラブからも声はかからず、引退を余儀なくされた新町はサッカーを除くと自分には何も残されていないことに初めて気がつきます。そして、それを嘆きながらも謙虚に受け止め、自分が何もできないということをまず認めました。様々な仕事に挑戦しては失敗し、ますます何もできないことを痛感させられますが、それをすべて自分で受け止めました。だからこそチャンスを与えられたときに、心からの感謝をもって期待に応えようとし、自分にできることを自ら考え、主体的に行動できたのだと思います。
実際の価値以上に見えてしまう環境にあっても、自尊心を肥大化させることなく、適切な程度の自信を持ち、自ら学び、考え、行動することは、謙虚さを持っていないとできません。客観的に見れば全体のほんのわずかに触れただけにすぎないのに、知ってる、やったことがある、できる、と過度な自信を持ち、優位に立とうとする人もいますが、だいたいそういう人はすぐに信用を失っています。
できることとできないことを、卑屈にではなく、謙虚に受け止めることが必要です。

そしてさいごに、何事にもひたむきに取り組むことです。
どうにもならない思いを抱えながらも今できることにひたむきに取り組んでいた新町には、ひょんなことから新たなチャンスが与えられました。さらにこれに対しても、正面から向き合い、何もできない自分にできることを考え、ひたむきに取り組んだことで、他の誰にも見つけられなかったであろう突破口を見つけることができました。
これは競技に直接関係がないことは切り捨てるように、誤魔化して楽しようとしたり、自分に都合良く解釈して文句を言ったりすることは簡単です。しかし、それが通用するのは残念ながら競技が中心の時期だけです。通用すると言うよりも、まわりが費用対効果を冷静に判断して目をつぶってあげているだけです。そうではなく、その時に求められていることに対してひたむきに取り組むことが、セカンドキャリアでも必ず役に立つのです。

ドラマでは新町の行動によって、失敗に終わるかと思ったミッションが一転成功へとつながりました。ただ、現実はそんなに簡単には事は運びません。それはわかっています。ですが、ドラマだからこそ、誠実さ、謙虚さ、ひたむきさがあってこその成功であることを示したかったんだと私は感じました。
そしてこれは、なにもアスリートに限ったことではなく、一社会人としてあたりまえだけれども非常に重要なことでもあります。その一般的なことをアスリートもセカンドキャリアに進む前に身につけておくことが、現役時代にやるべきことだと思います。
誠実さ、謙虚さ、ひたむきさが大切であるということも、私が今西氏から教わったことのひとつです。歳を重ねるにつれて一層その大切さが身に染みるようになってきました。

これからのアスリートが身を置くべき環境

JFLや地域リーグでは、Jリーグ入りを目指してアマチュアながらにプロ意識を持って活動しているクラブがたくさんあります。一部プロ契約をする選手もいますが、多くは別の仕事をしながらプレーするアマチュアです。J3でもそういう選手が多少いると思います。
では果たして彼らがプロよりも下ということになるのでしょうか。私はそうは思いません。なぜならそんな小さな価値観のなかで競う必要はないからです。

ここまでセカンドキャリアについて書いてきましたが、今ではデュアルキャリアと言って、あえて現役でプレーしながらスポーツとは関係のない仕事をするというスタイルが広まってきています。中にはプロクラブからオファーがあるにも関わらず、あえて下のカテゴリーで、あえて働きながらプレーする選択をしている選手もいます。私はこの考え方が浸透してほしいと考えています。

また、手前みそですが、今私が携わっているツノスポーツコミッションでは、ツノスポーツアカデミーという、スポーツ、生活、教育、職育という4つの柱で、地域ぐるみで子どもたちを育てる取り組みをしています。
ここでは他に例を見ない職育という特徴的な取り組みをしています。寮生活を送る高校生が、協力関係にある地域の事業者や農家に行き、一緒に働かせてもらいます。それに対して報酬もいただきます。こうして、スポーツや勉強をしながら地域の様々な仕事を経験することで、職業観を養ったり、地域社会の大人たちの多様な価値観に触れることで、社会人として一人前になるための準備をしています。また受け入れ先の事業者の皆さんもそれに協力してくれています。

デュアルキャリアやツノスポーツアカデミーの職育のような取り組みは、まだ一般的とは言えませんが、近い将来、その価値が世間に認められていくでしょう。

私はこれからのアスリートやアスリートを目指す子どもたちは、主体的にこのような環境を選択してほしいと思います。最初は慣れなくて苦労もあるだろうと思いますが、きっとその先の人生をより豊かに過ごすことができるようになるだろうと確信しています。

オールドルーキー第1話を観て、不安を感じたアスリートや、これからアスリートを目指す子どもたち、またその保護者の皆さんは、一度立ち止まって、その先の人生について考えてみることをお勧めします。アスリートとしてではなく、一個人としてのキャリアを考えたときに、アスリートとして活動するときにこそ視野を広げて競技外のことにも誠実に、謙虚に、ひたむきに取り組んでみてはいかがでしょうか。

私は、キャリアについて真剣に考えるアスリートやアスリートを目指す子どもたちに対して、少しでも力になれたらと思っています。


自分の真意を相手にベラベラと伝えるだけが友情の行為ではないということさ。それがわたしの提唱する真・友情パワーだ…(キン肉アタル)