大奥(PTA) 第二話 【第一章 吹き矢のゆくえ】
【第一章 吹き矢のゆくえ】
安子様は日頃からお子様のお世話は勿論のこと、ご自分のお屋敷の雑多なる御用一通り、更には御近所にお住まいの、御病弱なご夫君の御母君のお世話までも担っておられました。一方でご夫君は、表(会社)のお仕事以外、家事はついぞなされた事はなく、安子様が忙しく立ち働く御姿を横目に、御遊戯(ゲーム)に打ち込まれていらっしゃる、大変優雅なお暮らしぶりに御座いました。
せめて御女中の一人も雇い、私を手伝って頂ければどんなに肩の荷が下りましょう。しかしながら、旦那様は御遊戯(ゲーム)の御課金には熱心なももの、その他のお給金の使い道には、とんと吝嗇にございます。とてもこのような贅沢な申し出を受け入れてはくれますまい。
旦那様は三人目のお子を欲しがっていらっしゃいますが、とてもとても私一人手にてお育てするのは無理というもの。すでに授かったこの二人の御子に、私の心血を注ぐ事に致しましょう。
安子様は、明け暮れそのように、一人御心をお決めになっていらっしゃったのでございます。
その夜、亥の刻をまわり、お子様方がぐっすり眠りにつくのをお見届けになり、ようやっと御遊戯(ゲーム)の手をお止めになられたご夫君は、洗いものをなさっている安子様のお手をお取りになり、こう仰りました。
「ほれ安子、苦しゅうない。近う寄れ」
<ご懐妊>
「御目出度き事かな。御懐妊に御座います」
元々、さほどお体がご丈夫ではなかった安子様に御座います。お匙(医師)のそのお言葉に、お命授かりしは喜ばしき事なれど、一人手(ワンオペ)にてお育てする御子が三人となる上、産み月までの悪阻、お産みになったのちの産褥で御弱りになるであろうご自身のお身体やお暮らしぶりを御想像なさると、まるで胸の中に鉛を飲み込んだような、重苦しい不安なお気持ちになられたのでございます。
安子様は屋敷にお戻りになった途端、厠に御駆け込みになりますと、ものを御戻しになりながらこう思われました。
この春は太郎が寺子屋に上がり、その御入学の儀(入学式)の準備も御座います。数え三つ(2歳)の花子もまだいとけなく、しばし目を離した隙にも、落ちている物を口にしたり、怪我をなされないか、常に心配なお年頃。その上このごろの恐ろしいほどの悪阻。嗚呼、私めは前世にて神仏への信心が足りなかったため、今生にてこのような恐ろしい罰が与えられたのでございましょうか。
そうお嘆きになる間にも、数え三つの花子様は厠の引き戸に縋りつき、お母様、お母様と泣き叫んでいらっしゃいます。安子様は急ぎ衣の裾を整えなさると、そっと厠の引き戸をお開けになり、花子様を御抱き上げになられ、その重みをずっしりとお手にお感じになりました。
御子達にとっては、頼りになるのはこの私のみ。嘆いてばかりなど居られましょうや。気を強く持たなければ、安子様はその時、そうに御心をお定めになったので御座います。
<御入学の儀>
染井吉野桜が見事に咲き誇る春の朝に御座いました。小さいお体と同じくらいかと見紛う程の大きな背負子(ランドセル)を、意気揚々と担がれた太郎君は、今は数え七つ(6才)とは言え、行く末はさぞや頼もしい若武者になられるであろう、安子様はそう思い、目を細めて門前に立つ我が息子に見とれておりました。
太郎君は、安子様が身重の体で一通り揃えました御衣装に身を包み、そのお背負子(ランドセル)には、寺子屋(小学校)の指定する寸法にて、安子様がご家族が寝静まったのを見計らい、夜なべしてお縫いになられた巾着袋などが入っておりました。
寺子屋の門前にも、春の朝陽に照らされた見事な桜木があり、この頃は少しはらはらと舞い散る花びらがあるのも、また趣あるものにございました。
このような佳き日、夫婦揃って迎えたいものと安子様は思っておられましたが、ご夫君は、育児は女の仕事、その様な平日、男が表(会社)を休める訳が無かろうと、にべもなく仰られましたので、安子様はそれ以上何も申し上げませんでした。
「せめて本日、数え三つ(2歳)の花子のお手を引いていただけたら、それだけでどれほど助かる事か」
安子様はそう思われたものの、むなしい想像をするのは止めよう、と思い直されました。気を取り直さなくては、とお思いになったその時、寺子屋の山門の脇にある名もない祠が目に入りました。
「どうかこの太郎が、健やかに、そして愉快に、この寺子屋での年月を過ごせますように」
安子様は祠の主に両手を合わせると、丁寧に祠に向かって御一礼なさり、桜が舞い散る中、ふたたび花子様の御手を取って歩き始めました。
そこへふと、太郎君の背負子に花びらが一枚ついた事にお気付きになり、その右手は、今にもどこかへ駆け出しそうな幼い花子様の御手を取っておりましたので、安子様は左手にて、その背負子についた花びらを、優しく払って差し上げたのでした。
「雪組、月組、花組……と。太郎は……。雪組に御座いますね」
門の内に張り出されたる組分けのご掲示を確認なさると、安子様は大広間に急がれました。
寺子屋の大広間にて、御入学の儀が始まりました。張り替えたばかりの畳の井草の青い香りの中、お子達はしばし親御様達と離れ、前の方に用意された御座に、丈立ちの小さい方から順にお並びになり、住職様(校長)の厳かな祝辞を拝聴致します。と申しましても、それは数えおん歳七つ八つのお子達なれば、太郎君もそのほかのお子達も、緊張の面持ちをお保ちになるのがやっとにて、お足元のむずむずが止まらぬご様子、後ろから我が子を見守る親御様達も、我が子は大丈夫かしらと、はらはら気を揉む事でした。
「うちの息子、落ち着きが無いもので、本当、大丈夫で御座いましょうか。心の臓がどきどき致しますわ」
お隣にお座りになっている一人のお母御が、安子様に話しかけられました。安子様は急なお声がけに驚きになる一方、そのお方の気取りない笑顔と話しぶりに、ついご自身も微笑まれ、こうお答えになりました。
「ほんにまあ、うちの太郎もまだいとけなく、お話最後までじっとしていられますかどうか。たいへん心配に御座います」
ひそひそ声にて、そのお方としばしお話し致しましたところ、御名を常磐井様と申しまして、雪組の太郎君のお隣の組、月組のおのこのお母御でいらっしゃるとのこと。
安子様は常日頃、一人手(ワンオペ)にて、お小さいご自分のお子達とお話をするばかり。その上、今お住まいの屋敷に越されてから間もないという事もあり、話のできる大人と言えばご夫君は、いつもあのように御遊戯(ゲーム)に明け暮れておいででしたから、大人の言葉のわかる御方とお話し出来たのは、いったい幾月ぶりのことであったかと、しばし心愉しいお気持ちになられたのでした。
御入学の儀の次第もつつがなく進み、お子様方は、おみ足が痺れるのをこらえながらも、あどけなくも誇らしさでいっぱいの笑顔で、二手に分けたる親御様方の間に設けましたる花道を、各々のお母君を目で探されながら、大広間を後にして行かれます。
安子様も、ご愛息の太郎君がつつがなくこの佳き日を迎えられた事、ご出生の日よりこの日まで、諸々なされた御苦労などをひとつひとつ思い起こし、寿ぎの涙が御目に溢れ出すのでした。
雪組、月組、花組と、最後の星組のお子達が、愛らしい笑顔を振り撒きながら、大広間からすべて御退場されました。
お式進行のお師様(教員)が皆様にこうおっしゃりました。
「これから各組ごとの記念御寫眞の撮影が御座います。まず、お子様方にお庭で御整列いただきましてから、御父母の方々が後ほどお庭に御合流、という流れとなります」
安子様は、何とは無しにそのお言葉を耳にされました。式の楽しき余韻、寿ぎの涙も未だ乾かぬうちに。
その時にございます。不吉なお鈴の音が、大広間いっぱいに響き渡りましたのは。
「大奥(PTA) 御組総取締(クラス委員長)のお成り」
御錠口番のお二人組の女中方が、ある一人の威厳ある中年寄(役員)を、豪奢な金蒔絵の葵の御紋が施されたるお襖から、親御の皆様方が待つ大広間へ恭しくお通しなさったかと思うやいなや、お襖を固くお閉ざしになり、がちゃり、と言う大きな音と共に、固く閂を差し込んだかと思うと、黄金で作られたる十寸はあろうかと言う巨大な錠前の鍵を、しっかりとお閉めになったので御座います。
<お錠口番>
大広間中が静まり返り、あまりにも緊迫した空気にございましたので、安子様は、お式の間じゅう膝にのせ、小声であやしながらどうにか大人しくされていた数え三つ(2歳)の花子様のお手をぎゅうと握りしめましたところ、周りの大人の緊張感がお子様にも伝わってしまいましたのか、わああ、と大きな声で、火がついたように泣き始めたのでございます。
「皆様、御静粛に」
先程、錠前の鍵をお閉めになりました御錠口番の一人がこうおっしゃいました。
「御父母の皆様方、これより大奥(PTA)御新入学年(一年生)のお役決め(役員決め)を取り行います。こちらにあらしゃるお方は、去年に引き続きまして、本年度の御組総取締(クラス委員長)で有られる春日様に御座います。以後、お見お知りおきのこと」
御組総取締(クラス委員長)の春日様は、それはそれは威厳のある御表情で皆様方に軽く一礼をなさると、御父母の皆様、一同に畏まり、ははあと平伏して一斉に座礼を致しました。
わけのわからぬまま周りの方々につられて平伏した安子様は、横に居られた常磐井様に、頭を下ろしたままひそひそ声でお尋ねになりました。
「これは一体、何事にございますか?」
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