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つきまとう影1 宇宙人からの発信

宇宙人からの発信

《 えっとぉ、自閉症の人なら誰でもこの障害を正しく理解して欲しい、
自閉者に生まれついた自分たちのつらい思いや悲しい気持ちをわかって欲しいと願っています。だって私は、自閉症の能力の高い一端に位置するアスペルガー障害なのですから…。

言葉のない、あるいは発言の機会を持たない、自閉の仲間たちが日頃感じている自閉者の困難について、自らのサヴァンとしての才能を生かし、情報を再流通(うけうり)させようと決心しました。だってそれが宇宙人である私の地球での使命であり障害を商売に利用した罪ほろぼしなのだから。(笑) 》



私からの発信


 実は、自閉症とは生物学的に、冒頭のような発言が「出来ない」。あるいは発言を聞いたところで、発言を構成するエレメントの、どれをとっても、自分の事だと思い当た「れ」ない人々の事です。


 日本に於けるこのような、「本人発言」こそが、自閉症が誤解される要因になっているのをご存知でしょうか。別に発言者がアスペルガー症候群ではないと言う訳ではないのです。正式に診断されているならそうなのでしょう。しかし、その場合は、まっとうな一市民として、悪質かつ重大な医療過誤の可能性を指摘するだけです。


意図的誤認

 大抵の医療過誤は悲劇です。しかし患者が喜んで受け入れ、周囲がそれを支持している場合は、どうなのでしょう。悲しむべきは、現時点で、こういう人のビジネスに於ける受け皿が、自閉症に「なる」以外なく、又それに対するニーズが一方にあるという不条理でしょう。

 進行上やむなく、疑わしい「本人発言」をプロファイリングしながら、まさに今私は、体がガクガクし、動悸が激しくなり、心臓を鷲掴みされるような、身をよじるような、その人に唾を吐きかけたくなるような、或いはどうしようもない無力感に襲われるような、複合的なフラストレーションに見舞われた記憶を、丹念に辿っています。


 しかし自閉症の為、フラストレーションに陥った際の、これら身体感覚を統合し、おぼろげながらも概念化するのに、丸四年かかってしまいました。

 その概念とは、恐らく「濡れ衣」を着せられ、「そんな自閉症、私の事じゃない!」と弁護士なしで闘いながら、「はい、実は私のほうが自閉症ではなかったのです」と、嘘の自白をしてしまいそうな、その狭間で4年間、揺れ動いた「心情」というものに、近いのではないかと、考えられますが、これが私の概念化の限界です。


 お聞きします。正常な人が、これを一言で言うと、どういう感情を表す言葉になるのですか?


 私の機能レベルでは、「悲しいという事がわからない、誰か教えて」という事はありません。しかしこのような複雑な事情が交錯するシーンに於いては、私の言語能力を以てしても、一体全体、どんな感情を表す語彙が相当するのか、四年の歳月を費やしても、完全な概念化が不可能なのです。


 いかがですか?一見正常な人に見える、48歳の大人のアスペルガー症候群の私でさえ、この体たらくなのです。自閉症の「仲間」の「思い」をひっくるめて「概念化」し、代弁するどころ騒ぎではありません。


ガセネタ

 こういう自称・アスペルガーの人が語る(騙る)、「見てきたような自閉症本人の内部世界」に、どれだけのストレスやダメージを与えられ続けてきたか記憶を辿り推理すれば、恐らく正常な人なら、「憤死してしまいそう」な感情に、常時襲われていたと推測されますが、これとて自信がありません。


 現在私は、そういう危機的な状態にありません。ではどういう状態かと言えば、ひとつはそういう身体感覚に襲われずにこれを書ける状態。もうひとつは数時間前に、抗うつ剤を服用したという事実。この二つの複合状態に於いて、これを書いています。しかし、書けば、やはり同様な感覚が蘇ってくるのは、否めません。


 それでも私自身が書く以外に、「私」を助ける手段はありません。社会的に不適切だからと、誰かが私からこの「こだわり」を取り上げようとすれば、私は激しく抵抗します。なぜならそれは、自閉症のストレスから私を救ってくれるはずの唯一の人(=私)から、その為の救出メカニズムの研究材料(=自称・アスペルガーの人の分析)を、根こそぎ奪う事を意味するからです。


 抗うつ剤の処方には、自閉症に詳しい精神科医の診断が不可欠です。今回は、三年前得た診断名を『似合わない』と言われた地域社会での体験が、自称・アスペルガーの人が私に与えるストレスと、地下水脈でどうやら繋がっていることに、気付く工程を、公開致します。


 延々「ストレス」に「こだわった」、ストレスまみれの自閉症の人の、難解で退屈極まりないお話。


さあ、ようこそ私の自閉症の世界へ!

『 我自閉症、ゆえに我あり  』


しゃべる自閉症


 私はアスペルガー症候群という、一言で言えば、しゃべる自閉症です。
その私が、自閉症をまったく知らない人に、自閉症とは何かを説明するとしたら、多分こうなります。


 古来より、「人は誰でも」とか、「人というものは」とか、「人という字は」という言い方で括ると、なぜかはみ出してしまう人々がいる。その中に、はずれ具合に特徴的なパターンがあり、とても偶然の一致とは思えない奇妙な一群がある。 


 男が多いが女もいる。子供もいれば大人もいる。知能指数の分布も広範囲で、まったく口を利かない重度の知的障害の者がいる一方、ノーベル賞受賞者もいる。不思議なことに、重度の子でさえある種天才的な技能を持つ事があるという点で、ノーベル賞受賞者と似通ってさえいる。


 普通の家庭に突如として出現する事もあれば、似通ったパターンで代々続いている家庭もある。一体どこがどう奇妙なのか、さっぱりわからないが、奇妙さ自体は万国共通である。


 近年の研究の結果、この一群には、人があまねく持っている「心」がないという点で、共通しているという事がわかった。


心がないなんて、まさか・・・・・



 では、心を持たない一群は人ではないのかと言えば、歴としたヒトである。ヒトが心なしで生きていけるのかと言えば、現に生きているのだから、仕方ない(としても、どうも腑に落ちない)。

 心という字が醸し出すイメージが紛らわしい。

 いっそ心を「ココロ」と言い換え、それをある特定の脳内ネットワークの名称だと考える。それが生まれつき「ない」一群を、ある障害名で括ると、見事奇妙さの謎がとける。それが自閉症である。その実体は、最先端の研究によって裏付けられている。


 では自閉症とは、単なる脳機能障害なのか?


 自閉症に取り憑かれた研究者たちは、口を揃えてこう言う。心とは何か?心を持つ自分とは何者か?心を持たないヒトとの違いは何か?そもそも正常とは何か?そう、人を哲学者にしてしまう、と。


外見

 話変わって、私の外見はというと、ご覧頂いてわかる通り、人が自閉症をイメージする際のそれらしい雰囲気はありません。もし『レインマン』に扮するダスティン・ホフマンと私とが並び、さあどっち!とやれば、まず十中八九「プロの演技者」を選ぶでしょう。


 この為、地域生活で自閉症だと告げると、様々な反応が返ってきます。


 『とてもそうは見えませんね』とか、『まったく気付かなかった』という反応がひとつ。


 もうひとつは、『思い過ごしでは?誰だって少しは自閉症的ですよ。現に私でさえ云々かんぬん』とか、『やっぱり自閉症じゃないと思う。だってあなたはかくかくしかじか』といった反応。 『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』という問い。


診断に対する異議

 特に、理詰めに否定する後者は口調厳しく、威厳に満ちて、アスペルガー症候群を知っていたりと、なかなかの教養を持っている事がわかります。
私が日本の名医辞典に出てくる主治医の名前を持ち出してみても、まったく無駄です。


 ことに不可解なところは、他の生活習慣病などに対してなら、そういう反論は起こらない事です。

 一体どこで線引きがなされるのか、考えつく限りの可能性を検討してみましたが、わかりません。


 あれこれ考えた末、もちろん、これという確証もありませんが、これではないかという原因を見つけたのです。それは、

 ① 私の存在が、自閉症に対する夢や憧れを一気にこわした。
 ② ナンチャッテ自閉症の私が、早く夢から醒めて現実に戻れるようにとのアドバイス。


 『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』、という問いかけが、単に知性の高い自閉症、かのブロンドの小妖精の自伝を、読んだか読まないかを、聞いているのではないことが、その人の表情や口調、仕草といったもので何となくわかります。


 しかし情けない事に、それらを統合し、何となくわかるのに、一年かかるのです。


 人はよく、あとで一人になって考えたら、言われた事の意味がやっと分かった、などと言います。

 『現に私でさえ云々』の根拠として、挙げられる事の一つです。

 私は問いたいのです。「あとで」というのは、どれ位あとですかと。
30分?1時間?12時間?1日?1週間?1ヶ月?仮に私と同じく1年後としましょう。


 では、何となくわかるのに1年かかる、一体どんな難問を突き付けられたのでしょうか?日常的な立ち話の、そのまた一瞬に投げかけられた、ほん一瞥、些細な口調のニュアンス、そういったものの、意味(らしきもの)などでは、決してないはずなのです。「人は誰でも」、そんな事、瞬間的にわかるのです。「人というものは」、そういうものなのです。「人という字は」、そういう能力を持つ事を前提とした人たちが、社会生活で、お互い助け合う姿を表しているのです。


自閉的

 誰でも少しは自閉症的と云々されるものと、自閉症とを分けるのは、こういう限りなく微妙にして絶対的な違いです。 


 私は、『ハイ、読みました』と答え、会話はそこで途絶えました。仮に、質問者の意図がわかったからといって、どうなるものでもありません。
あのときどう答えれば会話を続けられたのか、今以て見当がつきません

(私のコミュニケーション能力の限界)


 「夢」とは何か。それは現実を一時棚上げして、別の世界を思い描くイマジネーションの世界です。あれになりたい、これにもなれると迷う、幼児の楽しいごっこ遊びの能力が保証する、「ココロ」の世界です。「ココロ」がないリアリストの私には、夢見るものがありません。

(私のイマジネーション能力の限界)


 これが他の夢ならば、学校教育によって叩き込まれた礼儀作法で、『そんなことして一体何がおもしろいのかえ』と口に出したい衝動を必死で抑え、何とかお付き合いも致しましょう。いざとなれば「あら、おもしろそう」と相づちさえ打ちましょう。

(私の社会性の限界)


 でもこれだけは、こればかりはお許し下さい。自閉症は自閉症でしかありません。厳然たる事実であり、私の現実そのもの。コテコテの現実。夢の入り込む隙間など、どこを探してもありません。


 そんな私が、自閉症に「なる」事を「夢」見たなどと、まさかそうおっしゃるのですか!

 人は夢を見られぬ自閉症にも、夢を抱くのか
 では夢をこわした自閉症には、何を抱く
 そのとき自閉症の私の心は、何を思うや

 こんな事を、つらつら考えるともなし考えながら、地域社会で、日々平凡に暮らしている私の日常をして、人は自閉症特有の「こだわり」行動、と呼ぶ(らしい)のです。


 私の哲学問答に終わりはありません。


 人が語らないという事は、心に封印するという意思であり、沈黙それ自体が気持ちを雄弁に語るメタ言語。自閉症の私には、人のメタ言語が読みとれません。なぜなら、私の脳には人と人とが無言で気持ちを伝え合う、言語以外の些細な情報を、一瞬にして統合する、脳内ネットワーク「ココロ」がありません


 それは同時に、「私」の気持ちを私に伝える機能もないという事を意味します。人の気持ちをうまく読む為には、まず、自分の気持ちを読まなくてはなりません。そういう手順なのです。


「ココロ 」がない私は、私の気持ちを読めません。だから人の気持ちも読めません。

自分の気持ちは読めるのに、敢えてそれを他人に応用しない、利己主義者の方々とは格が違います。(もちろんあちらが上です)


『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』
『ハイ、読みました』
『(・・・・・・・)』


 誰に聞いても、問答の答は「日なた」には出て来ない、永久に闇の中なのです。

つづく つきまとう影2
つきまとう影 全文

心の理論(他者の心の理解)
自閉症とマインド・ブラインドネス


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