つきまとう影3 驚天動地
といっても、このエピソードは、これから次々現れる、出来事の序章に過ぎませんでした。
リストラ
このときまさに、私の自閉症の脳が、生命維持の戦略を、老化に向けて、再構築し始めていた矢先だったのですが、まさか私までが、会社をリストラされてしまうとは。私は仕事仲間にこう言いました。
『クビになっちゃった。あんな人たちが残って』
『そうだったの。つらい気持ちはわかるけど、済んだ事は済んだ事。いつものあなたらしくもない。ここはチャンスだと考え、気持ちを切り替えて前向きに考えれば?さあもう嫌な事は一切言いっこなし。飲んで歌って忘れちゃえ』
『・・・・・・・・・・・』
今度は私が怒る番でした。なぜなら私は「つらい気持ち」の事など一言も言っていないからです。そんなもの私にはないのです。私は、ただ整合性を欠く、リストラ順位についての、不公正を怒っていたのです。
そのとき私は「ココロ」になど掛けず、ただ状況を分析し、私の取るべき具体策のヒントの一つも与えてくれるのではないかという、敢えて言うならば「すがる思い」に最も近いと考えられる状態だったのですが、男女共に『確かにおかしい、でも世の中そう言うこともある。ささ飲んで歌って忘れろ』などと複合的な課題を突きつけるのです。
恐らく彼らには、私が上層部による「手ゴコロ」の対象から外される要因について、何らかの「ココロ当たり」があったのでしょう。
そしてそのうち落ち着けば、私が自ら「手ゴコロ」やら「ココロ当たり」について「自分の胸(の内)」に聞いてみるだろうと、期待したのでしょう。
歌って呑んでそして忘れる
人は誰でも「忘れたい」と意識し、人為的な操作を施せば記憶が消えるという、生物学的な特徴を持ちます。その際、最も手頃で効果的なのが、仲間と飲んだり歌ったりする事です。
人というものは、そうやって交互にその作業に付き合う事で、「ココロ」に「ゲンキヲモラウ」のです。そしてそれは、この次自分が同様の目に遭ったときの保証ともなります。これが「お互い様」という概念です。その為の根回し作業は、日常的に「ココロ」を介し、あちこちで行われています。
と、ここまで理解していても、このむごい仕打ちは、無実の「人」という名と共に自閉症の私の「記憶」に、深く深く永劫に刻み込まれるのです。
正常な人(NOT自閉症)との違い
なぜなら、生物学的なシステムが違うからです。「ココロ」がないことは言うまでもなく、自閉症の私の記憶は、日常的な人為操作では消えません。
(これを消す唯一の手段は、抗うつ剤です)
リストラの不公正感に加え、不用意に相談したが為に、却って、私が彼らを理解するのに払った涙ぐましい努力に相当する、見返りを得られないという、さらなる不公平感が加わってしまいました。
戦い
夫は、さすがに同類でした。ココロに「掛けず」、一瞬のうちにこう言いました。
『手切れ金取れば?』+理論and戦略
私の役には立たない「お別れ会」に行く代わりに、こういう事に詳しい弁護士なり専門機関の人に相談する事を、夫は強く勧めました。
そして相談した結果、100%満足の行くものではありませんでしたが、ともかくある結果を生み、私は「気持ち」ではなく、正常なプロフェッショナルたちの知識とサポートにお金で報いる事が出来ました。これが「ギブアンドテイク」です。
再生
このささやかな、しかし恐らくは初めての成功体験を経て、ようやく私の自閉症の脳内で自分の脳を守る、何らかのプロテクション機構が作動し始めたのです。
例えば、私はくだんの模範解答が、私の生物学的な特徴から何一つ発信されていない
(つまり「生物学的な特徴と矛盾する」ことばかり並べ立てている)というある重大な「概念」に、どうやら気付いたようでした。この概念は、具体的に言うと、
自分の言動が何だか胡散臭くてならない・・
誰かに体を乗っ取られてしまったようだ・・
気持ち悪い・・・身の置き所がない・・・・
という、身体的な感覚として捉えられました。脳の信号を、「ココロ」を通さずキャッチしたときの状態を、敢えて言語化すると、こんな感じになりますが、正確ではありません。
しつこく繰り返した通り、これらの語彙は「ココロ」を持つ人のもので、私の脳からダイレクトに来る身体感覚を表す言語ではありません。その身体感覚を認識するのにさえ40年以上掛かるという「タイムラグ」を、こららの語彙では表現できません。
嘘‥って何?
さて、この感覚を統合するある概念こそが、私にとっての『嘘』というものです。
しかし、これは「ココロ」を持つ人の語彙にあるところの嘘とはまったく違います。それは根元的なアイデンティティの危機を意味します。
人の世に生きる以上、やむなくここ迄は耐えて見せよう。しかしこれ以上やったら、生物学的な整合性を欠き、ヒトとしての尊厳がなくなる、という一線を踏み越えた状態で「さあどうする」という問いかけが脳からなされた状態を表す感覚です。
自閉症の私は人が言うところの、嘘をつ「け」ません。真実しか言「え」ません。なぜなら、嘘を付く能力とは(悪質なという意味ではなく)、冒頭近くでお話した、「夢」見る能力とまさに表裏一体の、イマジネーション能力の発露のひとつだからです。
言葉を換えれば、私は生まれついての正直者、すなわち倫理観を後天的に叩き込まれることなしに嘘をつかない。頭に二文字が付く一刻者です。倫理観などに頼らなくても、自閉症のメカニズムがオートマチックに判断してくれます。能力的には出来るが、敢えて嘘をつ「か」ないのとは、格が違います。(格付けは未だ判断に迷う所です)
自分自身を騙せない障害
自閉症の私が人を騙せないという事は、自分自身を騙せないという事です。平たく言えば誰かに「なったつもり」ができません。
現実を一時的に棚上げし、自分以外の誰かになる才能がないのは、幼い頃のごっこ遊びで既に証明済みです。喜々として役をこなす友達と違い、無理に割り振られれば、やはり、
自分の言動が、何だか胡散臭くてならない・・・・
誰かに、体を乗っ取られてしまったようだ・・・・
気持ち悪い・・・・・身の置き所がない・・・・
という、まったく同質の身体感覚がつきまとって離れなかったのを、はっきり記憶しています。
しかし私は機能レベルが高く、早々と使える言葉がありましたので、ギャーと叫んで腕を噛むという究極の表象に頼らなくても、役の切り替え時を選んで一言「帰る」と言えば事は済みました。
成長するにつれ、この「ヒトとしての尊厳の危機」は日常的、慢性的になりました。知能と外見が正常な私は、否応なく学校教育の場に放り込まれたからです。そこは、ごっこ遊びを「楽しい」と感じなくてはならず「帰る」という事が許されない場所でした。
ごっこ遊びが「好き」or「出来ない」。
ホモサピエンスには、たったこの二種類しかいません。「好き」か「嫌い」かではありません、念の為。
ここでお断りしておかなくてはなりません。
私はさもわかったふうに書いていますが、実はそういう一連の事情を40年以上経った今、長期記憶を元にゼロから「推理」しているのです。証拠を積み重ね、現時点では一番可能性が高いと考えられる仮説を、述べているだけなのです。つまり私だってたった今知ったのです。
もし私と同年代で、こういう一連の事情がリアルタイムで実感でき、それを、周囲の子との違和感なり疎外感といった概念で、自分はみんなと違うときちんと捉えられれば、それはいわゆるちょっと「変わった子」です。
「変わった子」であれば、後に自分と良く似た変わった子と出会い、つらさを分かち合い親友になり、これが何恥じることない自分たちの個性なのだと認め合い、社会に居場所を見付け出す。という方向性に行きます。
(私は、このパターンを研究しつくしたのです)
ところが、変わった子(人)が友達作りに失敗し、孤独の内に何らかのきっかけで、自分は自閉症とか言う、天才の系譜なのではないかと思ったとき、手にした自閉症本人の手になる体験談に「感情移入」し錯覚し、ついに「なって」しまう事があります。
淡々と語られるハードな体験の「つらい思い」に「共感」してしまうのですが、これら「カッコ」で括ったいずれもが、「ココロ」がなくてはできない高度な作業だということが、おわかり頂けると思います。
そういう自称・アスペルガーの変な人が、自前の「ココロ」を込めて作文した、
『私も・・・』+変なコ体験andドナっぽい語調
からなる前人未踏の「自閉者のココロの世界」に対し、如何なる経緯からか本物であるとの公式認定(=オスミツキ)がなされ、生業となり、それを逆にこちらに押し付けられるのですから堪りません。
(森口奈緒美の事では無い:夫注)
つづく つきまとう影4
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