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知識の形、向かう先

最近、iPad miniを購入し、Kindleアプリで洋書をよんでいる。

ひと昔前、と言っても私が大学生だった20年程前(やっぱりひと昔前か)は、洋書を読む、というのは一つのステータスだった、と思う。電車の中で、スターバックスで。読んでいると一目置かれてるような錯覚に陥って悦に入っていたものだ。

私はアメリカの大学を卒業しているが、勉強には本当に骨が折れた。重い英和辞書を持ち歩き、コツコツと辞書を引く。日本語だったら数秒で読める段落を、辞書を引き引き、5分程かけて読み解いていく。それがいつしか、4分になり、3分になり、ある程度はスラスラ読めるようになってきた。そして、いつしか辞書が相棒のようになり、マーカーだらけのその辞書は、今は大事に、でもひっそりと実家の本棚に保管され、無いであろう次の出番を待っている。

話を戻すと、iPad &Kindleでの洋書の読書はなんと楽になったものか。分からない単語はタップすれば瞬時に辞書での翻訳だけでなく、Wikipediaでも教えてくれる。
ハイライトした箇所をメモにまとめてエクスポートも出来るので、こんだけ楽になると一体どこからが勉強で、どこからがマシーン的な処理なのか分からなくなる。言ってしまえば、知らない単語をタップしてハイライトして、エクスポートしてプリントアウトすれば、もう勉強した気になってしまう。

こうなると、そもそも英語を読む、という事自体、近い将来消滅するだろうし、スカしながら洋書を読む、というのは象形文字や古文を読むような一種の自己満になりそうだ。
電車で洋書を読んでいても、「なんでわざわざ洋書読んでんだろ、Googleで瞬時に翻訳してくれるのに」となるのだろう。

技術の進歩と言うのは途方もない恩恵を我々に授けてくれると同時に「昔のあの苦労は何だったん??」と忸怩たる思いも去来させるのだなあ、とナイスミドルに差しかかった私はノスタルジーに浸らずにはいられない。

同時に学問とは?知識とは?と考えさせられる。

約20年前、新社会人で何も知らなかった私が、もしスマホを持ちタイムスリップしたら、恐らくヒーローであろう。別にスマホという未来の技術を過去に持ってきた事を話しているわけではない。まだ本で調べ物をする事が多かったあの時代、上司から「これってなんだっけ?」とか「調べておいて」と聞かれれば、スマホで調べて、瞬時に回答する。そもそもWiFi飛んでなくね?という野暮な質問は抜きにして、恐らく私は「生き字引」、「歩く辞書」などと呼ばれ重宝される事だろう。

今や、誰でも瞬時に解答に辿りつける時代。

あれだけせっせと頭に詰め込んだ英単語も、スマホがない私と、スマホがあるTOEIC300点ホルダーが戦えば私の完敗である事は明白だ。

そうするとこれからの知識の形はどこへ向かうのか?

よりスピーディーに、かつ容易に解答にアクセス出来るようになれば、知識を詰め込む必要はなくなる。
最近では、氾濫している情報を「捨てる技術」みたいな話が多いが、要は選択能力であり、センスである。
それは、皮肉な事に、技術が発展すればする程、野生の勘、のような直感的な能力が必要になる事を意味する。

何十年後かには、人々はその勘を研ぎ澄ます自然の中で、カプセルモジュールのような箱で生活し、イマジネーションを刺激しながら、何かを想像した時にアレクサのようなAIアシスタントにそれを語りかけ、後は設計から具現化まで、遠方のマシーンシティで完結する。もはや、ドラえもんの「もしもボックス」である。

教育も変わってくる。チームワーク、というものは過去の産物となり、一つのレクリエーションになる事だろう。最適解はAIが弾き出してくれるので「議論」や「ディベート」と言ったものはなくなる。人々の議論は、より哲学的、詩的なものに変わっていくかもしれない。
自ずと、集団から個にシフトしていき、一人の時間が多くなるし、家族という組織単位での感情以外、「誰かと一緒にいる」という事に意味を成さなくなる。人との関わりが寂しさを紛らわすものから、煩わしいものへと変化していき、一人でいる心地よさが一般的になる。
各自の意思表示が必要な集団的事案に関しても、これまたAIが外務官さながら上手い事調整してくれるので(行き過ぎた罵詈雑言はフィルタリングする)、争いも減り、スムーズに集団としての意思決定に辿り着く。そもそも指導者やリーダーと呼ばれる集団の長は私利私欲に走ってはならないので、AIほどこれに向いた代替品はないだろう。

種としての繁栄はどうか?
先進的な文明に少子高齢が進むのは何故か?と考えると、集団から個へのシフトが進んでいる証拠ではないか?とも考える。
男女共に平等に生活出来る時代が到来すると、「生活の為の結婚」というものもなくなり、わざわざ共同生活する意味もなくなる。人との衝突がAIによって極減する世界では、生存本能からくる感情の起伏というものも無くなり、SEX後の男女の感情のもつれがより億劫なものになっていく。ここでも、愛か?レクリエーションか?とSEXも二極化が進み、手塚治虫の「火の鳥」さながら、人類の退化が始まる。それは決して敗北ではなく、過剰消費から必然的にくる下山のフェーズとも呼べるし、「産めや増やせや」の時代からの卒業、物量的な時代から質、より内面への反転を意味する時代になる。

ここまで来ると、もはやSFだが、肉体とは?人類の生産の結果とは?が最終的な疑問になる。

さまざまなウイルスに対して抗体を持ち、パッチをあててアップグレードしてきたDNAと、ブッシュを切り開いて、開拓し発展し、最終的に生産、収穫までを自動化した文明。

もし我々を創造した宇宙人なり、古代高度文明がいたとする。地球外であれば星の消滅に追われてきた者。古代高度文明なら隕石の衝突、地殻、気候変動からの避難。
この完成したDNAと文明があれば、後はDNAからトランスフォームして地球に適応し、その文明の成果物を享受すれば良いだけなので、それが人類の行き着く先、生まれた意味なのかもしれない。
DNAの種と知恵の実を地球に落とし、後はその時が来るまで冷凍睡眠して地中か、地球の周りをぐるぐる回っていればいいだけだ。それこそ映画「インターステラー」の世界ではないが、種を蒔いた後に宇宙船で光速移動、相対性理論?で戻ってきた頃には地球は何千年か経過するので、丁度、この種から実がなり、熟した頃に戻ってくればいい。
電子レンジがチンとなれば食べるだけ、朝起きたらタイマーしておいたご飯が出来上がって用意されている、そんな感じかもしれない。

話はだいぶ飛躍したが、そんな風にiPad とKindleで読書しながら想いに耽る節分の午後である。

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