見出し画像

旅の宿

露天風呂で偶然に出会った私達は、あれから話が盛り上がり、
宿が同じだったことから夕食を共にすることにした。
彼がその昔、飲食店で働いていたこともあり、その殆どを彼に任せ、私はお酒の調達を名乗り出た。
「では、後ほど」
部屋の鍵を預かり、近くにあるという酒屋へ足を運ぶ。
どなたかとお飲みに?
店主の質問に微笑み頷き、一升瓶を両手に私は再び部屋へ入った。
何故彼の部屋になったのかといえば、彼の部屋のほうが私の部屋よりも広いことからだった。
後ろめたさはなかったが、彼のほうが若いというのに、その羽振りの良さに年上としての見栄がはれない自分自身、それを考えてしまった事にむず痒さを覚える。
私の懐は寒かったが、出来上がった鍋と熱燗にした日本酒がすぐに私達の頬を赤くした。

「どうして一人旅を」
彼は気恥ずかしくはにかんだ。
特にこれと言って理由はないのだそうだ。
失恋の傷心旅行でもなければ、歴史的な趣味が高じて跡地を巡るといったものではないと。
私は単に出張という仕事の合間なのだから、彼と対して変わりわなかった。
ただ、世の中、仕事の流れに身を任せている私とは違って、彼は自由だった。
彼の旅に理由はなかったが、彼がそれを求めれば何もかもが旅の理由にできた。
そのうち彼はその旅を終え、自分が何を目的にしていたのが、また、何を得たのかを知ることになるだろう。
しかし、私がその答えを知ることはない。
おそらく彼と出会うことは二度とないのだ。
「この根っこは」
「せりの根っこです」
「食べれるんですか」
「せっかくなので地の物を使おうと思いまして」
根っこを食べるというのには抵抗があったが、食べてみればなんてことはなかった。食感と香りが食欲と酒を進ませる。
「なにか次の目的地は」
「山でも登ろうかと」
漠然とした目的は確かに彼を突き動かしていた。
何がしたいでもなく、
何かをしたいという行動意欲だけは人一倍あるように見える。
「普段は何を」
私は彼の質問に対して、普段の仕事について、また、そのへんの人に話しても問題のないような、差し障りのない仕事の愚痴をこぼした。
「不満があるって幸せなことだとおもうんです」
私はどことなく彼の有り様を知りつつある気がした。
彼の人生に不自由や障害はなかったのだろう。いつからか不満ばかりを抱え、自分自身の心を重くしていたのは私だ。
「でも、あなたのおかげで私はやっぱりこうして人に料理を作ることが幸せなんだと気がつけました」
彼は赤ら顔で微笑んだ。
それからはどうだろう。他愛もなかったのか、それとも酒のせいか、多くを覚えていることはなかった。
彼を見送り、また私は仕事へと身をやつした。

「この間の出張で、変わった青年と呑んでさ」
職場の中でふと耳に入った話が果たして彼なのかどうか。確かめようとも思ったが、私はその会話の中に入ることはしなかった。
彼がどうなったのか、その結果だけを知ることは何の意味もない。
今も彼が旅を続けていて、何かを探し続けているのならそれでいい。
むしろ、彼には私の分も旅をしていて欲しい。そう思えたのだ。

美味しいご飯を食べます。