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短編『何も気にならなくなる薬』その209

・事務所

・干しぶどう

・高層ビル

高層ビルの2階。
中途半端な階層に構えているのがこの事務所だ。
そして、コーヒーを片手に読書に耽るこの男こそ、この事務所のオーナー。片口美奈都。
字面だけみれば女性のように思えるかも知れないが立派なヒゲを携えた男性だ。
「書類、目を通して頂けました?」
「あぁ、そういえばそうだった」
親の持っていた土地。
そして、そこに建てられたビル。家賃のいらない事務所。世の中で人々があくせく働く中、この男は悠々自適だ。
かくいう私もこんな男のもとで働いているのだから世間の目が少し怖い。
「片口さんは仕事に手を付ければ早いんですから、早いところ片付けてください」
「だってそんなことしたら次の仕事がきちゃうだろう」
「それは」
思わず言いくるめられる。とはいえ私は私で家賃を払わなければならない生活なので、報酬のためには催促をせざる終えない。
「そんなに急いだらあの頃に逆戻りだよ千舟(ちふね)ちゃん」
あの頃、思い出しただけで体が強張る。絵に書いたような社畜生活、週に一回家に帰れれば幸せな、会社が家のような生活。会社が家とはいえども周りには小姑のような上司。辞めていく同期。全てを諦めている人達がそこに集まっているようでもあった。今になっても何故すぐに辞めなかったのか不思議でならない。
「ま、とにかく生活ができる程度に頑張ろうか」
資料を一枚一枚丁寧に巡ってはゆっくりと目に通していく。
こんな生活に憧れていた。憧れていたはずなのに、あの頃の習慣、焦燥感が未だに抜けない。
何かしていないと不安。いや、何かをしていないと自分に価値がないのではないか。そんな気持ちに押しつぶされそうになる。
「よし、出来た」
紙に描かれたキリン。
「なんですこれ」
「よく見て、これ二枚の紙が重なってて」
重なった紙、キリンの頭が描かれた紙を上に持ち上げていく。するとキリンの首が伸びていく。
「そういうことじゃなくて、それ大事な書類じゃないですか!」
「というわけでもう一回印刷宜しく」
「どうしてそう手間を掛けさせるんですか」
ため息を抑えきれずに再びデスクへ向かう。
「はい、こちら片口事務所です、はい、はい、はい、そうでしたか、えぇ、そんな気はしていました。えぇ、ではまた、お待ちしております。はい、宜しくお願い致します。では〜」
スマホを置いてため息を吐いた。ため息をつきたいのは私の方だ。
「仕事の電話ですか」
「そうそう、で、その書類いらなくなったから宜しく」
「宜しくって、どういうことです」
「ほら、この間の政治家の不祥事について発表があったでしょ」
「ええ、たしかに裏金について詳細が発表されましたけど、それがまだ全てじゃないから、それを突付くための依頼でしたよね」
「全部ゲロっちゃったみたいだから、要らなくなったってこと」
「そんなことありますか」
「これ以上ひどくなるくらいならいっそのこと全部さらけ出そうってことでしょ。それにまわりが突かなくなったのに自分だけ突付いてるとしっぺ返しが怖いからね、取り下げってこと」
「それじゃあ契約不履行ですか」
「手付金貰ったから」
「そんなモノ貰いましたっけ」
「ほらこれ」
「これって、干しブドウじゃないですか」
「そ、干しブドウ」
「いやいや、お金を貰わないと意味ないじゃないですか」
「そう?干しブドウも美味しいよ」
「美味しいのは、その、わかりますけども、そういうことじゃなくて、収入はどうするんですか」
「うーん、じゃあ逆に依頼主でもなくなったから突付いてみる?」
「え?」
「いや、余所に突つき返されたくないから取り下げたんでしょ、ってことは後ろめたいことがあるよね」
「それはそうかもしれませんけど、それこそ報復されかねないじゃないですか」
「まぁ、別に懲らしめるつもりはないよ。単純なやり口」
再び電話を掛ける姿はどこか楽しそうでもある。
「先程はどうも、取り下げておきました。干しブドウね、美味しく頂きました。それはそうと我が家も色々と入り用でして、とはいえお金が動くと変なので、はい、あまりこういうことはしたくないんですが、家賃を上げさせていただく形でも、いいですか?はい、いいえ〜、できることなら大儲けしたかったんですけどね、はい、では、宜しくお願いします。はい〜」
スマホを置いて再び干しブドウに手を伸ばす。
「あの、家賃って」
「あぁ、向こうの事務所この建物の上の階にあるのよ、だから報酬の代わりに家賃をあげてもらうことにしたよ」
「もしかして始めからそれが目当てでした?」
「バレた?」
まだ私には彼のような生き方は理解できないのかもしれない。
最後のひと粒を食べ終えると彼は満足そうに鼻歌を奏でるのであった。

美味しいご飯を食べます。