2024年5月

感染をいただく

 読書について実感を持って強く思うのが、単なる情報収集としての読書はあまり楽しくないということ。異常にも思えるほどの好奇心を持つ人、歴史に残る思想を打ち立てた人、そのような著者が書いた本を読む。そうしてその人たちから感染をいただく。このような時に最も楽しい読書体験ができるし、身につくものも段違いになる。どういう言い回しだったかは覚えてないけど、この感染をいただくという概念は齋藤孝さんの本にあったもので、とても納得がいった。以来しばしば思い返してはうんうんその通りだと思っているうちに、自分に合った言い回しとしてこのように残った。
 近ごろ読んだもののうち、あぁこれはヤバイ!と思ったのは↓のもの。

 動物行動学という学問のうち、特に人間の領域に強い(動物全般強いけど特に人間)学者さんが書いたもの。動物行動学というのは、「生物(植物含む)はそれぞれ、本来の生活環境に適応した習性、生態を持っている」というフレームでいろいろなものを眺めて研究する学問。「本来の生活環境」というのを軸として研究する。例えば人間であれば、「本来の生活環境」は自然の中での狩猟採集生活になる。

 ホモ・サピエンス二十万年の歴史のなかで、99パーセントは”自然のなかでの狩猟採集生活”を送っており、そういう行動・心理特性を生み出す脳(の神経配線)の設計図となる遺伝子は、短期間では変化することはない。現代人の脳もそのような神経の配線になっているはずなのだ。

先生、脳のなかで自然が叫んでいます! ([鳥取環境大学]の森の人間動物行動学・番外編) P.120

 人間の視細胞は可視光のうち緑色の波長の光に最も敏感に反応する。それはなぜか。植物の色に反応するためである。なぜか。水、食べ物、隠れ家といった、自然のなかでの狩猟採集生活で生存に有利になるものを見つけやすくなるためである。…と、人間の特徴を説明するにあたって、「この特徴を持った個体が本来の生活環境の中での生存により有利だったため、生存し、遺伝子を残していった」と考える。動物行動学とはこのような学問だそう。
 ここで人間の好奇心については、動物行動学的にはどのようなことが言えるのか。何に好奇心を持つ個体が、自然のなかでの狩猟採集生活で生存に有利となるのか。

簡潔に言うと、(少々ややこしくなるが)「われわれホモ・サピエンスという動物がもつ習性の一つは、"ほかの生物の習性・生態に敏感で、ほかの生物の習性・生態に特に関心を示し記憶にとどめる"という特性だ」ということである。
 その理由………。それは、ホモ・サピエンス本来の生活環境は、自然のなかでの狩猟採集生活(動物を見つけ追跡して狩ったり、植物を見つけて食べられる部分を摘みとったりしてそれらを食べて生きていく)だったからだ。つまり、自然のなかでの狩猟採集生活において、食物を首尾よく得るためには、まずは各種生物の習性・生態をよく知ることが何よりも大切だったのだ。

先生、脳のなかで自然が叫んでいます! ([鳥取環境大学]の森の人間動物行動学・番外編) P.118 

 このような好奇心が、人間の生存・繁殖に利益をもたらしたということになる。先ほども引用したとおり、「そういう行動・心理特性を生み出す脳(の神経配線)の設計図となる遺伝子は、短期間では変化することはない」という事実があり、これと併せて考えると、現代人の好奇心を強く刺激するものも、生物の習性・生態に関するものであると言える。(遺伝子が短期間で変化しないことの例として、恐怖症が挙げられる。蛇への恐怖症は世界中にありふれている。現代の特に先進国では蛇によって命を落とすケースがごく稀であるにもかかわらず。対して現代で蛇よりも圧倒的に人間に死をもたらす車については自動車恐怖症のようなものはない、あるいは一般的でない)
 僕は子供の頃から好奇心の薄さがコンプレックスだったので、これは(僕にとって)なかなかとんでもない光明になるぞ…!と思った。実際この本の中で、「人間が生物の習性・生態に敏感で、好奇心を刺激される」ことの具体例なども、著者の活動内容から豊富に紹介されていて、とても説得力があったし、本を読んでいるだけの僕も興奮させられた。読書で感染をいただくってどんなもんなのと思う人には、この本をおすすめ。

 思えばこのような、自然とか生物とかに裸一貫で接触していくような人に対して、何とも言えない憧れを感じることが多かった。そういう人は誇張なしに輝いて見える。これはごく幼い頃から持ち続けていたコンプレックスの裏返しだったのかもしれない。

確定させることとあいまいさに耐えること

 「人間は確定させることに気持ちよさを感じる」ものだと思ってる。これは前の項目と関係するかもしれない。生物の習性・生態、ここではさらに拡大して、何らかの法則性といったものまで含めて、「これはこうである」と確定させることは、それを理解したと思い込めることなのであって、このことに気持ちよさを感じるというのは、現代よりもはるかに単純に構成されていた大昔(ホモ・サピエンスの歴史の99パーセントがそうであった環境)において、生存・繁殖に有利だったのかもしれない。単純な世界では単純な理解と確定が有効になる。そして現代人も、この大昔に決定された性質からは逃れられずに気持ちよさを感じる。人間の脳は、単純な理解で早々に確定させたがる悪癖を持っている。
 裏を返せば人間は、いつまでも確定せずにあいまいなままであるものにストレスを感じると言える。しかしながら先ほども言ったように、現代は狩猟採集生活よりもはるかに複雑になっている。それは人間の人生だの考え方だの価値観だのもそう。そのためこの確定させる気持ちよさにあまりに従順に動いた場合、人間社会の中で判断の誤りやトラブルが大量に発生することになる。ツイッターなんかでもこの種のヤバイ人というのは本当に大量に観測できる。適当に断言しまくるインフルエンサーが人気になるなんてこともこの辺に要因の一つがある。
 あいまいさに耐えて付き合い続けるというのも、知性の一分野としてはっきり存在する。一方で、確定させる方向の知性というのももちろんあって、これによっていろいろと法則性を自分の中に蓄積していくことができる。個人的には、認識を蓄積していくような時にも「暫定的にはこれで合ってるっぽいよな」ぐらいでやっていきながら楽しむのが適当かなと思う。流動性を多めに抱えておく。もちろんあいまいさに耐えるべきものについてはあいまいなままにしておく。確定させることとあいまいさに耐えること、このバランスが一方に寄り過ぎない範囲に収めることは大切だと思う。

味の好みの違い

 味の好みというのは"人それぞれ"の現れとして強いインパクトを持っていると思う。ここには気取りとか強がりといったものが混入しにくい。食が人間の本能に根ざした喜びであって、そこへ気取りを持ち込むことを通常、人はしたがらない(他のものと比べて)。また同じく本能に根ざしているという理由で、「食事の様子」には演技が入り込む余地が少なく、好きなものを食べているときには好きなものを食べている人に見えてしまう。またおそらく同じ根源からだろうけど、「食で気取る」というのがそもそもそんなに格好いいものではないというのもあるかもしれない。好きなものをおいしそうに食べているほうが格好いい、というのが味においてはよく可視化されている。
 このような理由から、味の好みの違いというのは真に迫ったものとして、皆が経験したことのある"人それぞれ"だと思う。そしてこのことは実はありがたいことなのかなと最近思う。誰もが"人それぞれ"を肌で理解できるトリガーとして、味の好みの違いには価値がある。

確証バイアスの強い人が書く文章は呪いに見えることがある

確証バイアス(かくしょうバイアス、英: confirmation bias)とは、認知心理学や社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。認知バイアスの一種。また、その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価しがちであることも知られている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%BA%E8%A8%BC%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9#:~:text=%E7%A2%BA%E8%A8%BC%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9,%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%A8%AE%E3%80%82

 VTuber界隈の、いわゆるアンチの人が書いた、ある対象への考察の文章を最近読んだんだけど、この人が確証バイアスの強い人間の典型のような人だった。確証バイアスは"story bias"、"story telling bias"などとも呼ばれるらしいんだけど、要はその人の考え・主張のストーリー性が強ければ強いほど、確証バイアスは強くなるのだそう。
 そういった人が憎悪を持ってストーリー立てをした場合、出力した文章はガチで呪いに見える。そのような強い感情やストーリーによる引力で、都合の良い情報が集まっていく。フラットな情報も、引力によって形状を歪められた上で集まってくる。それらが"塔"をそびえさせるべくどんどん張り付いていく。塔がみるみる肉付けされていく。イビツな塔の完成。そういう文章って、読んでるとエネルギーが吸われるよ!

清潔なグロ

 前のnoteでも書いたことのあるホロライブVTuberの天音かなたについて。かなたが数か月前に出したオリ曲がいいなと思ったんだけど、再生数がふるっていない。

 女の子同士の恋愛、失恋の歌なんだけれども、曲の手触りがとても冷たくて寂しくて心細い。主人公の致命的に不器用な立ち回りとか切実さから来る不気味さというのもでっかい可食部としてムチムチとしている。出だしの歌詞から雰囲気が作られていて、全体として素敵な世界が表現されていると思う。

利目でピントを合わせる
冷え切った夜に流れてく画面
独り暮らし咳をする 十代最後の今夜
もう 滅茶苦茶になればいい

 いわゆる百合ではこういった、言わば"清潔なグロ"が展開されることがある。百合というのはそもそも清潔さを志向している。百合とレズの違いは、この清潔さというキーワードで分けられると思ってる。セックスをしちゃったら基本的に、それまでが百合でもそこから後はレズとして見ちゃう。また百合の中にチンコが乱入してきたときに反発が起こるというのも、もちろん嫉妬のような感情もあろうけど、清潔さを台無しにされたという視点で説明できる部分がありそうに思う。
 清潔さをベースにした痛々しい失恋を描く清潔なグロ、たまらないだろう。"十代最後の今夜"に強いこだわりを持ってるんだよこの子は。それで焦って破滅してしまった。かなたの歌声も冷たく寂しく不気味で痛々しい、要するに清潔なグロを表現していて流石である。いい歌だよ。

観察と没入

 何かを理解したいと思っている。この時に主に視覚を用いて情報を収集し、対象を理解しようとする。こういうものを一般的に観察と呼ぶけれど、対象を理解する営みとして別のアプローチもある。これを個人的に"没入"と呼んでいる。2つの違いを簡単にまとめると
●観察
・客観的
・部分への注目→部分を集積する
・上から俯瞰する
●没入
・主観的
・全体を全体として捉える
・対象へ沈んでいく(ような、自分自身に沈んでいくようなをする)

 このようになる。僕は野良猫を見つけたときに接触を試みることがあるんだけど、その時に猫を理解するためには観察ではなく没入を行っている。没入は根っこへ直接タッチしようとする営みかなと思う。猫の内側を意識しながら全体を全体として見る。
 "周辺視野"という言葉がある。

目を動かさないで一点を見る固視点を中心として、約30度以内の視野を「中心視野」それよりも外側を「周辺視野」と言います。中心視野は解像度が高く細かな違いを判別する事ができますが、周辺視野は解像度が低くなり、大まかな動きの判別になります。

上記の図および文の参照元:https://www.ortho-k.jp/information/736/#:~:text=%E7%9B%AE%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7%E4%B8%80%E7%82%B9%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E5%9B%BA%E8%A6%96%E7%82%B9,%E3%81%AE%E5%88%A4%E5%88%A5%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 イメージで言うと、没入は猫の内側(根っこ)を中心視して、猫の動きといった物理的な視覚情報を周辺視するような感覚。ただ周辺視といっても解像度が低くなるということもなく、「周辺視なんだけど"周辺視"という言葉から"周辺"という名付けを奪ったような見方」になる。また没入の際に常に「内側(根っこ)を中心視、外見を周辺視」として固定的に見ているのではなく、時々刻々と注意の傾け方は変化していく。内側(根っこ)のこの部分、外見のこの部分、と注意を向ける配分が部分に集中することもあるし、当然猫からあえて目をそらして猫の見ている方向を自分も一緒に見てみることもある。…という上で、「内側(根っこ)を中心視、外見を周辺視」という円から大きく踏み外すことはない。そうしているうちに上手に沈んでいける。こうして文章にするとかなり変な奴なのかもしれないけど、野良猫と仲良くなるのは得意な方だと思う。
 客観的な観察というのは多分に西洋的な物の見方なんだけども、現代の日本は明治からの西洋へ追いつけ追い越せの大急ぎで、学校教育の主眼はすっかり西洋的な知性を育てるものになった。別に学校教育は個々人を幸福にしてあげるためではなく、社会を存続・繁栄させるために運営されている。ということも併せて考えれば、学校教育の与えてくれた知性が果たして自分の幸福に寄与しているのか?と疑問に思う。実際、それなりに多くの部分がむしろ幸福を阻害するもののような気がしている。

花のリズムに付き合う

 最近、自分の健康状態を測る方法として、花のリズムに付き合うということを行っている。家のベランダで父が育てているピンク色の花の前に座る。花をじっくりと見つめる。風に乗って大きく揺れる、それでいて根っこはしっかりと土を掴んでいる。じっくりと焦らずに光を浴びて水を吸い上げて綺麗な花びらを開いたことを想う。その様子に没入していく。調子のいいときには一瞬で同期できるのだけど、ダメなときはちょっと時間がかかる。健康を測る方法でもあるけど、良くない状態からの回復という意味も多少持っていると思う。
 20歳ぐらいの時に、「70歳ぐらいになったら、おかしな人だと思われてるクソジジイになっていたい」と思ってたんだけど、今は別の姿になりたいと思っている。これは思い描いていた人物像には既に今もうなっているからというのもあるかもしれない。今はまど・みちおのようになりたい。詩人になりたいということではなく、ゆっくりと時間をかけてあのような在り方に到達したい。もし出来たら間違いなく偉業だと思う。しかしその頃には偉業だなんてこれっぽっちも思ってない。まど・みちおはそんなジジイである。

まず、ジジイと言ってはいけない

この記事が参加している募集

#今月の振り返り

14,295件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?