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未就学児の原爆教育

突然原爆の話を始める保育園児の娘

今月(8月)上旬、年長さんの娘とシャワーを浴びていると、

あのな、爆弾降ってきたらな、ドカーンってなってな、体が溶けてな、目玉が飛び出るんやで

とそんなことを言い始めた。

なるほど、『ヒロシマのピカ』か。

なぜか保育所の玄関に年中飾ってある、日本人なら皆知っているあの絵本だ。

結論から先に言ってしまうと、私は小さな子供に戦争教育や原爆の知識など一切必要ない、むしろ害悪だと思っている。

もちろん私自身、幼少期にそういう教育を受けている。


漢字も習っていない子供にそういった教育を施してどういうことになるのか?

戦争が嫌いになって平和主義者になる、だから良いのだ、と?


『ヒロシマのピカ』をはじめ、幼少の頃に、原爆文学や原爆の資料に触れてトラウマになった人は多いだろう。ハッキリ言えば、精神的な傷になる。


小さいうちに原爆を教えないと戦争が好きになる?

では、この幼少期の原爆教育がなければ、戦争を好きになるとでも言うのだろうか?

いや、ここまでのことをしなくても普通の感覚の人間なら戦争が好きにはならないだろうし、ここまでのことをしたってミリタリーや戦争文学を好きになる人はなる。


思考停止を招く幼少の戦争教育

そんなことより、判断力のない子供の時分にこういった直感的恐怖を与えてしまうことによって、思考停止してしまうことが大きな弊害なのだ。

例えば、かつて自民党の中川昭一氏は「我が国も核保有を議論すべきだ」と提案していたが、それに対し原口一博氏は「核保有を議論するだなんてとんでもない」と反応した。

中川氏は核保有論者であり、核保有に反対する意見があっても当然だし、私も(現実的ではないという意味で)どちらかと言うと反対だ。


しかし。

「議論するだなんてとんでもない」は、議論そのものを拒否しているのだ。

原口氏の場合はそういうポジションということもあるが、この言葉をそのまま受け取るとした場合に、議論を経ずに「核は絶対に持たない」という結論だけを受け入れろと言うことになる。

理屈抜きで受け入れろというのは、論理的プロセスではなく、「信仰」である。


一国会議員がこんなことを堂々と言えてしまうのは、他ならぬ戦後の厭戦教育の賜物と言えよう。


「過ちは繰り返しませぬ」のは誰か

広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

と言う言葉が刻まれているが、この誓いに主語がないことは今でも時々議論になる。(どうでも良い話ですが、彫刻家がこれを彫っている時の写真が家にあります。徴兵経験のある死んだ祖父がそこにいて撮ったようです)

私はこのことについてあーだこーだと言いたくはない。この言葉が全人類にとっての戒めであると考えれば、主語は必要ないとも言える。

が、後の世代が、議論することなく特定の結論を受け入れろという姿を見ると、やはりこの言葉が思い返されるのである。


犯罪は防止しようとするのに

「戦争」「兵器」「諍い」と言った言葉はネガティブであり、あまり使いたいものではない。しかし、世の中にはそういう事象が厳然として存在する。国民を守るためにはこういったことについて考えなくてはならない。

例えば、戦争がないにしても、生活していたら何かしらの犯罪に巻き込まれる可能性はどこの誰にも、そしていつでもある。

家を留守にすれば鍵をかけるし、小さな子供を連れていれば誘拐や交通事故に遭わないよう手を繋ぐ、自転車に乗れば前かごにカバーをかけてひったくりを予防する。

いざ何かあった場合には警察と言う実力組織のお世話になる。

このことに疑問を抱く人はまあいない。


未だに一字も憲法が変わっていないことの異常性

ところがどういうわけか戦争となると別の思考回路に繋がり、「戦争」「兵器」と言った言葉を発するだけで、目を瞑り、耳を塞いで「ア”~~~~~~!!!」となってしまう日本人が実に多いのだ。


これはまさに戦後の厭戦教育が、「戦争について脳を働かせるのは恐怖を感じることのみ」という思考回路を植え付けてしまったからに他ならない。

泥棒が入るかもしれないことを想像して鍵をかけるのは正しいが、戦争が起きるかもしれないからそれに備えるということは禁忌なのである。


昨今、そういった事情も随分と変わったが、それでもいまだに日本国憲法は70年以上1文字たりとも変更できずにいる。

それは取りも直さず、「戦争」という言葉を発すれば戦争が起きるという言霊信仰を持つ日本人がなお多いと言うことを示している。


戦争は中学生以上に腰を据えて教えよう

話を元に戻すが、そもそも戦争が起きる理由を小さな子供たちは知らないし、説明しても理解できるものではない。

・富の偏り
・宗教理念の相違
・覇権主義

こういったことをふんわりとでも理解でき、また戦争の凄惨な姿をそれなりの覚悟で理性的に見ることができるのは、最低でも小学校高学年以上(個人的には中学以上で良いと思っているが)だろう。

ウイグル人やチベット人が今酷い目に遭っているのは、「戦争」という不吉な言葉を発したからか?何かしらの「過ち」を犯したからなのか?断じて違う。

彼らは無力で、戦争にもならないが、武力を持っていれば戦争(内戦?)になるだろう。その際に彼らを非難できるだろうか。

さらに十分な武力を持っていれば戦争にすらならず、独立することも可能だ。もちろん人口の面で見ても現実的ではないが。


ということで、

まだままごとで遊んでいるような子供に原爆の姿を見せようとする力には、左側から吹く風を感じてならないのでした。

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