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【通史】平安時代〈7〉承平・天慶の乱(1)平将門の乱

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醍醐天皇の後を継いだのが朱雀天皇です。醍醐天皇は親政を行いましたが、その子朱雀天皇は藤原時平の弟の藤原忠平摂政・関白に就任させました。これによっていったん天皇親政の時代が途切れますが、その次の村上天皇の治世に再び天皇親政が行われることになります。

平将門の乱

◯さて、この朱雀天皇の治世に平将門の乱藤原純友の乱という、武士による大きな反乱がほぼ同時期に起きています。二つを合わせて「承平・天慶の乱」と呼びます。今回は、関東で起きた平将門の乱について説明していきます。

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高望王流桓武平氏

◯この当時、関東地方には平高望(高望王)を祖とする「桓武平氏」が土着していました。「桓武平氏」というのは、第50代桓武天皇の子孫で「平」という姓を賜った一族(賜姓皇族)であることを表しています。

◯天皇は安定した皇位継承のために多くの皇子をもうけます。しかし、実際に皇位を継承できる人物は限られます。そのため、ほとんどの皇子は皇位継承の道を閉ざされます。そのため、皇位継承の可能性がなくなった者は臣籍に降下させるというのが慣例でした。これを「臣籍降下」といいます。

◯しかし、今も昔も皇族には「姓」がないため、臣籍に降下する際には「姓」を賜わるのが習わしでした。これを「賜姓降下」と呼びます。「臣籍降下」「賜姓降下」も同じ意味です。そして「賜姓降下」して新たに誕生した一族を「賜姓皇族」と呼びます。

◯桓武天皇の孫にあたる高望王もその一人でした。高望王は臣籍降下の際に「平」の姓を賜り、平高望を名乗るようになります。「平」という姓の由来は、桓武天皇が築いた平安京にちなむとの説が有力です。

◯ちなみに、桓武天皇から「平」の姓を賜った皇族はたくさんいます。つまり、一口に「桓武平氏」といっても、たくさんの家系があるわけです。だから高望王の家系は「高望王流桓武平氏」と呼びます。数ある「桓武平氏」の中でも最も栄えたのは、この高望王流です。

◯さて、平氏という姓を賜り臣籍降下した平高望は、上総介(上総=現千葉県、介=国司の次官)に任官されます。そして、そのまま同地に土着して勢力基盤を広げていきました。平高望には5人の子供が生まれます。良文・良正・良将・良兼・国香です。将門はそのうち良将の子供になります。つまり、平高望の孫にあたります。

将門の父・良将の遺領相続をめぐる親族間争い

◯平将門は、15歳で京に上って朝廷に出仕し、関白・藤原忠平に仕えていました。天皇の護衛をする「滝口の武士」として盗賊の討伐などで名を上げ、忠平からも気に入られたようです。

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しかし、父の平良将が亡くなったことにより、将門は東国(関東)へ戻ることを決断します。すると、なんと父が下総国(千葉県北部と茨城県の一部)に持っていた所領が伯父である良正良兼によって独断で横領されていたことを知るのです。このことによって、将門の父・良将の遺領相続をめぐって親族間で争いが発生します。

将門の連戦連勝で関東の英雄となる

◯935年、将門伯父平国香を殺します。これに他の伯父たちが怒り、連合軍を作って将門を攻撃しますが、将門に返り討ちにされてしまいました。戦っても勝てない伯父たちは、朝廷に将門を訴えることにしました。地方の役人(国司)は「守・介・掾・目」の順でランク付けされていますが、国香「常陸掾」良兼「上総介」を任じられていました。つまり、将門は国家に対して反乱を起こしたことになるのです。これにより将門は、京内外の犯罪を取り締まる「検非違使」に捕らえられてしまいます。しかし、朱雀天皇が元服する際に「恩赦」が行なわれ、釈放されます。

国司の重税に虐げられていた人々にとって、その国司を相手に連戦連勝を重ねた将門の活躍は痛快だったことでしょう。将門の武勇伝は関東中に広まり、英雄視されます。この武勲によって一躍名声を高めた将門の元へは、何か事件が起きれば解決を求めて多くの人が頼ってくるようになります。しかし、これが「平将門の乱」へと繋がっていくことになるのです。

常陸国府を焼き払い、「朝敵」となる

◯939年、常陸国の豪族・藤原玄明が助けを求めてきました。税金の不払いによって常陸介の藤原維幾と対立して追われて逃げてきたのです。藤原維幾は将門に藤原玄明の引渡しを要求しますが、将門は応じず、ついには合戦になってしまいます。11月、将門は常陸国府(国司らが政務や儀式などをおこなった政治の中心地)を襲撃して焼き払った挙げ句、「印綬」という朝廷が国司に与えた証明書を略奪します。これは、朝廷から常陸国を奪い取ったということを示す行為です。これによって将門は完全に「朝敵」(朝廷の敵)となったのです。しかし、常陸国を攻め落とした将門は、国司の苛政に不満を持つ人々から英雄扱いを受けることとなります。将門の軍勢に加わって積年の恨みを晴らそうとする人々が仲間になり、将門の軍勢は膨れ上がりました。

板東八国を制圧、「新皇」を称して独立を宣言

◯12月、この勢いに乗じて板東(関東地方の古名)全域を支配下に置くことを狙った将門は、板東八国(上野・下野・上総・下総・安房・武蔵・相模・伊豆)を次々と攻め落として制圧します。そして、ついには将門は板東八国の支配者として自ら「新皇」と称して独立を宣言しました。

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平貞盛・藤原秀郷により討伐

◯将門の謀反に激怒した朝廷は、関東に将門追討部隊を送り込むと同時に、全国に「将門を討ち取った者を貴族にする」という御触れまで出します。これに呼応して、父・国香を将門に殺された平貞盛、そして下野国(現在の栃木県)の豪族で貴族に強い憧れがあった藤原秀郷が連合して出陣します。そして、940年2月、平貞盛・藤原秀郷軍と対峙した将門は、額に矢を受けて討ち死にしました。これによって将門の野望は潰えてしまいました。なお、平清盛は、将門を討伐した貞盛の子孫です。

なぜ将門は朝廷に反旗を翻したのか?

◯それにしても、いったいなぜ将門は朝廷に反旗を翻したのでしょうか。一つは朝廷に対する恨みです。将門は15歳で京に上って朝廷に出仕しましたが、朝廷の要職はすべて藤原氏が独占している状態でした。実力があったのにも関わらず出世することは叶わず、「滝口の武士」に留まりました。このような不遇な経験が、将門の中に遺恨としてあったのだと思われます。また、この時代には「律令制」による支配体制が完全に崩壊し、地方では国司が私腹を肥やすために民衆に重税を課して生活を苦しめていました。こうした状況を招いている朝廷の政治的無能に将門は憤慨していました。朝廷から見れば将門はたしかに謀反者です。しかし、国司の苛政に苦しめられてきた関東の民衆たちからすれば、将門は救世主のような存在であり、将門の起こした反乱は希望だったといえるでしょう。

「日本三大怨霊」となった将門

◯志半ばで無念の死を遂げた将門は、崇徳天皇菅原道真と並んで「日本三大怨霊」に数えられています。大手町駅のすぐ近くに「将門塚」と呼ばれる、平将門の首を供養するための首塚があります。しかし、なぜ東京にあるのでしょうか。

◯討ち取られた将門の首は平安京の七条河原で3日間晒されました。そして3日目に将門の目が見開き、「私の胴体を返せ。頭をつないで一戦してやる」と叫ぶと、白い光を放ちながら舞い上がり、関東の方角に向かって高く飛んでいったとのこと。しかし、途中で力尽きて落ちた先が現在の大手町だったといわれているのです。これが将門伝説です。

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◯大手町周辺の大規模開発が計画される度に、「将門塚」を撤去する計画が立てられるのですが、そうすると施工主や工事関係者が次々と事故や病気といった不幸に見舞われるそうで、この「将門塚」だけは再開発に組み込まれずに今も残っています。


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